白の静けさ
目をひらいた瞬間、世界は白でできていた。
頭上に広がる天蓋は、薄い霧を思わせる布で織られており、朝の光をやわらかく吸いこんでは、ほつれた雲のように揺れている。動きはほとんどなく、にもかかわらず、そこだけ時間がゆっくりと伸びていくようだった。
敷かれたシーツは絹の滑りを持っているはずなのに、なぜか夕暮れの畳のような静けさをにじませていた。掌を当てれば、微温い気配が返ってきそうで――それが異国の布であると頭では理解しているのに、体の記憶はなお固く自分の世界を離れない。
音が、ない。
鳥の囀りも、屋敷の喧噪も、この部屋までは届かないらしい。
ただ、ゆっくりとした呼吸の音――自分のものだけが、空気の端にかすかな波紋を作っていた。
妙だ、と彼――いや、彼女は思う。
まるで“呼吸だけが、今この瞬間の正体だ”と告げられているような静けさである。
「…………」
瞳を細め、天蓋の皺を眺める。
知らぬ天井だ。見覚えはない。
だが、不思議と焦燥は訪れなかった。
彼――かつて空手家として年齢すら気にせず鍛錬に身を置いていた“おじさん”の精神は、転生後も相変わらず落ち着いている。
深く息を吸い、吐く。
それは長年の癖であり、同時に意識を整える儀式でもあった。
「……うむ。呼吸は整っておる」
誰に聞かせるでもなく呟く。
その声音は絹の上を歩くように静かだった。
指先を曲げる。
軽く握りこぶしを作り、手首を回してみる。
関節の可動を確かめる仕草は、まるで道場の隅で冬の朝に体を温めるあの頃のままだ。
貴族令嬢の寝起きとしては完全に場違いな所作だったが、本人はまったく意に介さない。
そのとき、部屋の外で小さく布擦れの音がした。
控えめなノック――間が妙に長い、遠慮がちな二回。
「お、お嬢様……お目覚めで、ございますか……?」
戸越しに聞こえた声は、震えていた。
まるでこの静寂を破ることを恐れているかのように。
ヴィオラ――いや、まだ自分がそう呼ばれているらしいことに十分慣れていない彼女は、軽く返事をする。
「起きておる。入るがよい」
その声音は本来の年齢よりも落ち着き払い、余計な力がまったくなかった。
それがさらに侍女を不安にさせる結果となる。
扉が静かに開き、リリアと呼ばれるらしい侍女が顔を覗かせた。
彼女は一瞬、天蓋の白と、シーツの白と、主人の静けさを見比べ――
「あの……お嬢様、本当に……呼吸……されてますよね……?」
という、非常に率直な心配を口にした。
ヴィオラは、わずかにまばたきをした。
「……もちろんじゃ。ほら」
すぅ、と目に見えないほど静かに息を吸い、
ふぅ、と草原をなでる風のように息を吐く。
侍女はますます顔色を青くした。
「ち、違うのです! 呼吸は見えるのですが……その、気配が……あまりにも……」
「薄いか?」
「うす……いえ、あの、ほぼ……無……」
かすれた声が消える。
ヴィオラは、肩をひとつ竦めるように小さく笑んだ。
「心配は無用じゃ。空手には問題ない」
この瞬間――魔力がものを言う世界において、
最初の「静かな違和」が、音もなく芽を出したのであった。




