カーナカールの目的地
カーナのたった一人の姉が眠りについてからもうどれほどたったのでしょうか。
歌が響いたあの場所は、もう踏み入ることが許されぬ土地となりました。草木は枯れ地は白に覆われた、溶けず癒えぬ神と姉の眠る場所。しかしその周囲はそれとは違います。ときをも閉ざしたそこは落ちることのない葉と熟れることのない実が風に揺らされることなくぴたりと止められ奇妙な冬景色をつくっていました。
とんっと触れれば柵はぱらぱらと崩れていきます。だから、カーナカールはただ青をそこへ投げ入れることしかできません。
閉ざされた冬の白に青は大変映えました。
それをぼーっとみつめる先に何が映るのか。何も映らないかもしれませんが、いつか映るかもしれないのです。そんな儚い期待がやまないから、カーナカールはまだ、歩みを進められずにいるのです。
あれから、あっという間に日々は過ぎていきました。ヴィーコナーが冬に覆われ、村や畑がその被害をうけました。けれど立ち止まるわけにはいきませんでした。あらたなあり方をみつけなければならないからです。
そうしてたちあがったのが民を統べる一族、ユゼ家でした。ユゼ家は神と最初にあった一族でしたので、巫女ももとを辿ればそこへと行き着きます。とくに、力の強い巫女ほどそちらの血を多く継ぐもの。当然カーナの母はユゼのものでした。ユゼを継ぐものの姉にあたるのです。
カーナカールの母、カーナカロルはユゼ家へと戻りました。王族としての責を果たすためです。父も、それについていきました。他の巫女たちも、民たちを連れ森から戻ってきていました。森が安全だとわかるまでの一時的にではありますが、ユゼ王族が直に祈りを捧げるセフェカータの地を踏むことになったのです。
巫女たちは役割をこなし、祈りや舞を捧げ民の心の安寧に努めています。
カーナカールもまた、巫女としての責任を果たさなければなりません。それが、姉をおいていくもののするべきことだからです。けれど、それらは姉より優先するべきことなのでしょうか。いつまでもいつまでも、冬の森の前で待っていることはできません。それでもそこにいてはいけないのでしょうか。
ヴィーコナーという重要な土地を任されていたのです。そんなことが許されるわけがありません。それでも、と思うのです。
それでも、と思いながらカーナカールは後ろを振り返りました。
「カーナカール・ユゼ」
大勢の民や巫女たちの視線を集め、私はこれから歩いてゆかねばなりません。王族として道の先に立つ母に呼ばれています。呼ばれたならば、そちらへいかねばなりません。ここから先はもう、振り返ってはいけないのです。私だったら良かったのにと、言うことは許されません。
「はい」
ふわりふわりと羽衣のようにショールを風にはためかせ、歩くたびにこの髪は柔らかくなびき、飾りはシャランと音を立てるのでしょう。
丁寧に、ゆるやかに、しなやかに。
優美に、優雅に、優麗に、一つ一つの動作に気をつけながら、カーナカールはヴィーコナーの巫女として完璧に振る舞わなければなりません。
「カーナカロル・ユゼの名において、カーナカール・ユゼに命じます。巫女を統べなさい」
「仰せのままに」
だって目の前のこの人は、お母さんではないのです。
だってお母さんのとなりに立つお父さんは、もうお父さんとは呼べないのです。私が背負う民も巫女も、みな私の責となるのです。
彼らをただしく導く指標にならねばなりません。私はこれから長い時をかけて、彼らが新たなる国に、新しいあり方に馴染むことができるよう力を注いでいくほかないのです。
頭にのせられた花冠は、軽いはずなのにとても重たくて、押し潰されてしまいそうでした。このまま、ここで、私は舞を捧げなくてはなりません。ちゃんとからだは動くでしょうか。私の思う通りに円を描き、袖を風に乗せ、布をはためかせることはできるのでしょうか。姉が染めてくれたあおをいっとう美しく魅せられるでしょうか。
わかりません。わかりませんでしたが、民たちの声に導かれるまま、私は舞台へとあがります。シャランと音を鳴らして、妖精たちが描く光を追うように、飛んで、空にあおの布で羽ばたくのです。巫女の礼とは軽やかで美しいもの。ゆるやかに髪も袖も裾もなびかせて、腰を下げて裾を掴み、飾りとヴェールが円を描くようにまわるのです。その後を、他の巫女たちが回ります。
くるりくるり、ふわりふわ。
くらりくらくら、ゆるりゆら。
さらりさらさら、くりるふわ。
最後にまた、礼をして、瞳は伏せたままゆっくりと顔をあげます。
もう、振り返ることは許されません。父も母も。姉も。
これからは、「カーナ」と呼んでもらえないのです。
これが巫女の宿命だというのなら、なんてひどい話でしょうか。なぜ、同じ血を分けているのにも関わらず、巫女だけが背負うのでしょう?
「どうしてわたしとねえさまなの」
王族と巫女は同じ血だというのに。巫女とは王族から選ばれるのです。その血を持つものから選ぶのです。
「どうして、どうしてねえさまなの」
どうしようもない感情の行き場をみつけられず、ただぶつけているだけなのだとわかっています。それでも苦しいから、つい他へと押し付けて楽になろうとしているのです。王族を責めたいわけではありません。ただ、どうしてがやまないのです。
わたしでも良かったのに。私なら良かったのに。
本当の言葉はきっと、これだけなのです。
そうしてもう、そんな言葉を吐くことすらゆるされはしません。振り返ることも声に言葉に、形になすことも、ゆるしてはなりません。降り積もる"どうして"へのこたえは、私が見つけるしかないのです。
それからどれほど歩いてきたのか。振り返ることは許されぬ身でしたが、ずいぶん遠く歩いてきた今となっては、一度くらい振り返って怒られればよかったとそう思いもします。
「エグラン・テリア」
「エグラン・テリア!」
精霊と暮らす国、ここは確かにそういう国でした。
けれどヴィーコナーの森が深い深い冬に閉ざされ、この国は変わらなければいけなくなり、すこしづつ変化していきました。
カーナカールは精霊のみこでした。カーナカールの母、カーナカロルのあとを継ぎみこになりました。そして、姉を身代わりに生きる身でもあります。それがひどく苦しくて、悲しくて、本当は誰かに攻めてほしかったのかもしれませんでした。それでも人々が抱えるものの重さに、カーナは立つしかありません。
だから立ち上がってきたのです。"どうして"へのこたえはみつからないまま、ただ前へ前へと生き急いできたような気がします。そうしなければ立ち止まってしまう気がしました。泣きわめいて子どものようにわがままを言ってしまいそうでした。それらをのみこむために、カーナは走り続け――――。
「みこさま!」
走ってくるのは姉と仲が良かった、かつて自分が祝福を授けた者のひ孫にあたるメリナというこどもです。
「みこさま!メリナも!メリナもおはな、なげたい!」
ぽすりと抱きついてきたこどもを抱きかかえ、カーナはしかたがないなと微笑みました。青の入ったかごをこどもに持たせてやると、カーナは合言葉を口にします。
「エグラン?」
「てりあ!」
「そう、そうですね。ではもう一度」
「えぐらん、てりあ!せーれーさまとともに!」
かみさまとひと。
その向こう側への一歩であると同時に、せいれいさまにいつ見捨てられようとも構わないという心持ちを示すための道。
いずれ力を失い、緩やかに衰退するかもしれません。
新たなる形で良い関係を築き、互いに信頼し助け合うような理想を見るかもしれません。
どうなるかなど、わからないことだらけなのです。
ただそれでも一つ、いえることがあります。
「寵愛はひどく重たいもの」
きっと己の血を継ぐものは、厄介な星のめぐりのなかを生きなくてはならなくなる。この血は純粋な心からの影響をあまりに受けやすい。
それはかみさまの巫女たる血筋では尊ばれたものでしょう。
ですが人として生きてゆくにはおもりになるものばかり。
己に与えられた祝福を厭わしいと思ったことは一度もありません。
カーナカールはこれからもそれを愛おしいと思うでしょう。
姉と同じ、母と同じ自身の在り方を好ましいと思うでしょう。
それでも、あの日、姉が眠りについたのはそのありようがそうさせたからで、私達は生まれついたその日からあの道を選ぶことがめぐりあわせのひとつだったのです。
私は巫女になり、姉はかみさまへ穏やかな眠りを捧げるみこになる。
そう決められているのも、そう選ぶのも、そこには確かに私達の血が受け継ぐ祝福が影響しているとカーナカールはもう知っています。
「エグランテリア」
だからこそ、次の巫女はなるべく血が薄く、けれどとても木々と相性の良いものを迎えました。尊ぶべき生き方は、残すべきではあります。それでも、できうることならのがれてほしかった。選んでほしいのです。
そうしてその先で、新たな道をみてほしかった。
カーナのやるべきことはもう、かみさまを泣かせることだけでした。あとはもう、それだけでよいのです。
「エグランテリア、ロウェナ、カーラム」
ヴィーコナーの森はあるべき姿を取り戻し、新たな国の中心になりました。清廉な空気をまとう森は、かつてと同じ。けれどかつてよりあたたかみのある、包容力がありました。
新たなる国、エグランテリア。
かみさまをむかえつつ、かみさまに頼り切ることのない国。
いずれ彼らを友とし、共に歩いて行ける民の集う場所。
精霊訪ねる国に広がるのは、呪いか祝福か。
全てはおとぎ話の向こう側にあるのでしょう。
ゆらり、揺らめく蝋燭の火にカーナは笑ってしまいました。深い緑の美しい者がそこにはいました。そうしてその隣には愛しい姉がいたのです。思わず伸ばした手が触れることはありませんでしたが、それでも良かったのです。ひと目また見ることができただけでも、それでも。
けれど、姉の隣。そちらには大切な用事があるのです。触れることができなくては困ります。
性別のあやふやなそのものは生き物の角を頭にはやし、そこからは植物の目が出ていました。からだを覆うのは草木の根と葉で、ぴたりとその身に張り付くように下へと滑っていく半透明の葉の上から透明な花のようなものを纏っていました。髪のような部分は長く艷やかで、誰もが傅きたくなるほど。その姿を嫌というほど知っていました。見ていました。そばにいたのです。
誰に言われずとも最上級の礼をして腰を深く落とします。疑う余地のないことでした。
「かみさま、私の声は届くのでしょうか」
届かなくとも関係ありません。もうカーナは眠りにつくのです。眠りにつくのですから、触れられなくとも構いません。このあとならばなんとかなることでしょう。
「わざわざ迎えに来てくださったのですね、ああカール、わたし、ちゃんとできていましたか?」
かすかに姉が頷いてくれたような気がしましたが、もうだいぶ、視界が霞んできていました。
「ねぇ、こんどはおいていかないで」
わたしたち、ずっといっしょだったでしょう。
ふと、灯りが消えました。だからわかるのです。もう眠っていいのだと。
あたたかで懐かしいなにかに抱きしめられたような気になりました。だからわかるのです。もういいのだと。
「カーナ、カーナはわたしの愛しい愛しい、自慢の妹だよ」
だから知っているのです。このぬくもりはもうどこにもいかないと。
「おねえ、ちゃん」
「会いに来るのが遅くてごめんね」
そんなことはどうだって良かった。ただ、ただ、寂しかった。
「待っててくれてありがとう」
だってきっと本当は。
だってきっとほんとうは、ただ、姉に褒めてほしかっただけのことで。
おかあさんに褒めてほしかっただけで。
お父さんに抱きしめてほしかっただけで。
家族みんな一緒のまま、夢を抱いたまま、大人になりたかった。
「そうだね」
優しい姉の言葉を子守唄に、私はそのまま落ちてゆくのです。深く、深く、きっと、どこかへ。
そして。
新たなる国、エグランテリアはいくつもの季節を重ねてゆきました。カールとカーナはそれをもう、かみさまとは呼ばれなくなった春と豊穣の精霊を引っ張りながら見守っています。これから先も、困難な道をもつ血のめぐり合わせたちと、愛しくかわいい民たちのために。
かみさまを泣かせると決めたのですから。
「精霊様、春が遅いのではないですか」
「精霊様、そろそろ春告鳥を呼ばないと」
かみさまを泣かせると決めたのですから、精霊の補佐をするやり方が少々厳しいものであったとしても、しかたのないことなのです。
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「かーるぅ、も、むりぃ」
「精霊様、春告鳥を呼んでください。妖精たちに顔を見せることもなさってくださいね」
「か、かーるう」
「あーえっと、がんばりましょう」
「うっ…うっ…わたしの巫女がいじめてくるぅ」
泣かせるだけではなく、ひっぱたいたほうがこの先のためにも良いかもしれません。良いかもしれません、が、それは別の方のためにとっておくべきでしょう。どれほどのことがあったって、カーナにとってのかみさまは、どこまでいってもこの精霊様だけなのです。それはきっと、カールにとっても。
おとぎ話を語るのにかかせないもの。それを紡ぐ言葉はもう、すぐそこに。
呪いも祝福もまじないも、すべてはきっと、
すぐ、そばに。




