001
午後一二時二〇分。望が通う、私立秀麗学院では、そろそろ授業が終わり、昼休みの時間へと突入する時間だった。
黒板の前に立つ教師の話を、望は半分聞き流しならノートへ適当に板書していた。机の上に広げられた空白が目立つノートには、ところどころ解読不能な文字が羅列されている。
(……まるで睡魔を召喚する呪詛みたいだな)
目の前で話す教師をそんな風に評しながら、ほどよくまどろんでいた望のポケットが不意に震え出した。携帯電話を教師に見つからないよう隠しながらこそこそと取り出し、画面を開く。
待ち受け画面には、『メールを受信しました』というシンプルな文字が踊っていた。
(この時間にメール……。またアイツ等から、か……)
携帯電話を操作し、新着メールを開いた。差出人はやはり、とも言うべきか望の予想していた通りの人物からだった。
メールの内容を一通り流し読みした望は、げんなりとした顔でずり落ちそうになった身体をなんとか持ち直した。携帯電話を音が立たないように静かにポケットへしまう。
件名に「今日のおつかい」とされたメールの本文には、買ってくる品物の数々と脅し文句が並んでいる。
ありていに言えば、望はパシリだった。
(やれやれ……)
望にとって、今日も今日とて繰り返されるイジメは、言ってしまえば〝もう感覚がマヒしそうなほど〟に慣れてしまっていた。
時計の針が刻一刻と進んでいく。あと数分で昼休みを告げる鐘が鳴るだろう。時を告げる鐘が、まるで死刑宣告のように望には思えてならない。
「起立、礼――」
鐘が鳴り、終礼をするや否や、望は猛然と駈け出した。向かうは一階に設けられた売店だ。飢えた生徒たちが群がり、食料を求めて押し合いへしあう様子は、さながら戦場にも似た様相だった。
「うわぁ……」
目の前で行われる惨状に、望はがっくりと肩を落とした。この群衆をかき分けて食料を確保するのは誰しも骨が折れる。
それは、望にとっても同じことだった。
(キ、キツイ……)
必死で戦地をくぐり抜け、やっとの思いで手にした戦果。それを持って向かうは事前にメールで指定された通りの屋上の一角だった。
ギィッと屋上へつながる扉を開けると、望のいる方へと振り向いた三人の男子生徒の視線が突き刺さる。
苦労して手にした戦果はあっさりとその手を離れ、待っていた三人の男子生徒のもとへと収められていく。
「あっ――!」
「今日もご苦労さん。また明日も頼むぜぇ~! もちろんお代はツケといてくれよな! カカカッ」
望の目の前に現れた生徒――相川聡史が下卑た笑いと共に、戦果を奪って去っていく。つられるように、他の二人もニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら去って行く。
売店で購入した昼食類は千五百円ほど。日常的な感覚なら「ちょっと高めのランチ」を食べたような金銭感覚だろう。しかし、望はごくごく一般の高校生だ。両親から昼食代としてお金をもらってはいるものの、その額は平均的な額。
高校生にとって、千五百円とは下手をすれば一週間分の昼食代に取って代わる額だ。それが一日で消え、しかも自分に残されるものは何もないのだから哀しさを通り過ぎて惨めさすらある。
しかもここ最近転入した相川という人物は、親が代議士という権力をカサに、陰湿なイジメを望に対し繰り返し繰り返し行っていたのだ。
(ま、いっか。僕じゃあどうしようもないし、ね……)
こうなれば、望に残された選択肢は「炭酸ジュースで腹を膨らませる」か「昼食をすっぱり諦める」の二択しか残らない。しかし、後者を選択するなら相当の覚悟が必要だろう。
(たしか、今日は五時限目が体育だったっけ……)
スケジュールを頭に開いた望は、少しばかり肩を落としながら自販機へと歩いていった。
――そう。結局のところ、今の望では「抵抗する」という手段を選ぶことなどできようはずもないのだ。相川聡史は空手の有段者として、その手の界隈には一目置かれていた存在である。
ちなみに、ここで過去形なのは、数年前に相川が暴力沙汰を引き起こして試合に出られなくなったためだ。もっとも、その暴力行為についても親の権力によって揉み消されてしまったわけではあるが。
望にとっては、戦うにしても、何にしても、最終的には権力という高い壁が目の前にある。
たしかに、当人たちで解決できないのならば、大人――つまり、教師達に救いを求めるという選択肢もあったかもしれない。正義感と責任感の強い教師が存在するならばその手段を取ることも可能であっただろう。
だが、問題が起きれば親に頼んで揉み消してもらい、好き勝手、やり放題の現状に大人である教師たちは何もしなかった。
というより、「報復」を恐れて何もできないというのが実情だった。
なぜなら、彼ら教師たちは皆、自分の〝クビ〟を守るという保身に走っているのだから。現実はそうそう甘くはない。英雄のように正義感と責任感の強い大人なんてほんのごくごく一部の限られた人間しか持ち合わせちゃいなかっただけのだ。
「だから現実は嫌いだ」
望は教室へと続く廊下を歩きながら、吐き捨てるように呟いた。幸いにも声が小さかったためか、望の方へ振り向く者は誰もいない。
望は目の前に広がる《現実》が嫌いだった。
一切こちらのことを考えない鈍感さ。
状況保留も履歴もなく、強制的に進んでいく強引さ。
加えてすべて自己責任で片付けなければならない不条理さ。
(現実は何でこうもストレスが溜まるんだ……)
《現実》が求めるように、望も《現実》に合わせて感覚を麻痺させた。
だから。
望は相川に呼び出されればそのつど応じ、ストレス解消したければ殴られることに応じた。そんなことに付き合っていたためか、必死で貯金した金もあっさりとその手を離れていった。
希坂望の日々はこんな風に過ぎていくはずだった。
それが運命なのだと自分自身も割り切って。
毎日繰り返される出来事に、つど絶望して。
絶望を回避するために、日々策を巡らそうとしては挫折する毎日。
そんなこの世界で必要なもの。この世界を上手に渡っていくために必要なもの。
――それは『諦め』。
(まぁ、仕方ないか……。実際僕は弱い存在だし)
これが望の答えだった。
◆
「ねぇっ! ホープったら聞いてるの?」
「あ、あぁ悪い。聞いてなかった。何だっけ、冬」
望は掛けていたイヤホンを外し、横で一緒に下校していた柿崎美冬に訊ねた。美冬はムスッとした顔で頬を膨らませながら、自分の隣を歩く少年に呆れていた。
「『あぁ悪い』じゃないよぉ。まったく……」
希坂望――親しい仲では望のことを〝ホープ〟と呼んでいる。名字である希坂の『希』と、名前である『望』をつなげて『希望』というわけだ。
絶望している人間のあだ名が〝希望〟とは何かの悪い冗談としか思えなかった。事実、最初に訊いた時に、「冗談だろ?」と思わず返した望なのだ。
「いつも思うんだけどさぁ、もう私たちも高校生なんだよ? いつまでそうやってイジメられているつもりなの?」
美冬はもちろん、望の学校にいる生徒(教師を含む)ならば相川達の悪行は誰もが知っている事実だ。『希坂望はイジメを受けている』といった事象は程度の差こそあれ、皆薄々感じていることではある。けれども、現実は小説のようにそこかしこに監視カメラがあるわけでもない。
証拠がなければ事実として糾弾できるわけがない。相川達も露見した際のことを計算してか、いつも望を呼び出すのは決まって人気のいない場所を指定している。
美冬は実際に望に問いただしたためにイジメの事実を知っているわけだが、一向に事態が改善されないことに苛立ちさえ募らせていた。
「仕方無いだろ? 喧嘩したって相手は空手の有段者だし。拳を交えば、こっちが負けることは確定だ。かといって教師にでも密告ってみろ。後々報復されるのがオチだよ」
望は軽く両手を挙げ、やれやれとため息を吐いた。
『――オマエが一番トロそうだったから』
そんな曖昧な理由から始まったイジメに、望は怒りも悲しみも憎しみも何もない。
ただ。
〝イジメ〟というものがどんなに悲惨で過酷なものか、大人はまるで分かっちゃいない、と望は絶望するだけだった。
テレビを前に『自殺することを早まらないで!』などと真剣な顔をしてそんなコトを平気で言い放つ大人達を見て、望は毎回やるせなさを感じていた。
そんな大人達に問いたい。
死んでいった彼ら彼女らは、何故そこまで追い詰められなきゃならなかったのか、と。
社会のシステム? それともその人に勇気がなかったから?
たぶん、周囲の利口な大人達は、いろいろな理由をベッタベタに貼り付けるだろう。ただ、「自殺する勇気があったなら、なんで……」などと涙を流して紡がれる言葉は、夢幻のまやかしに過ぎない。
彼らは言いたくても言い出せなかっただけだからだ。……きっと。
――いじめる方も悪い。でも、いじめられる方も悪い。
そんな風に周囲の大人達に言われるのが怖かったから。
もともと被害者は何もしていない。加えて、イジメられる原因なんて、当のイジメる本人達でさえきちんと分かっていないことが多い。
(にもかかわらず、〝いじめられる方も悪い〟ってどうなんだろう?)
大人達の言葉で、一方的に被害者側にも罰を背負わされる。いわゆる〝喧嘩両成敗〝というヤツだ。大人達が組み上げた社会という名の《現実》は、それを強要する。強制する。
「どうかした? さっきから元気なさそうだけど?」
「いや、何でもない。とりあえず、僕はいつも通りだよ。檻のような現実の中で僕はあるがままを受け入れて諦めるしかないんだよ。……今は、ね」
「――そっか。なら、問題ないね」
美冬はそう返した望の顔をまじまじと見つめ、やがて満足そうに「じゃあね」と言って別れた。美冬は望と別れ、そそくさと一人自宅へと向かって行った。
「な、なんだったんだろ?」
望の頭に疑問符が浮いたが、考えるのも馬鹿らしいと判断して、外していたイヤホンを耳に掛け直した。しばらくすると音楽が再生され、気づけばゆるやかな旋律が望の身体を静かに包んでいた。
「ただいま」
望はドアを開け、いつものように照明のスイッチを入れた。明るくなった家だが、望に返事を返す人はおらず、部屋の中はどこかうすら寒い空気に包まれていた。
(まぁ、分かっているからいいけどね)
望は何も言わずに靴を脱いで居間へと直行する。そこには、『家族の温かな会話』などというものは欠片もない。
「今日はコレか……」
視線の先には、コンビニで買ってきたであろう弁当が一パック、ビニール袋に入れられたまま居間のテーブルに無造作に置かれていた。望は何も考えずに、コンビニ弁当を電子レンジに放り込む。出来上がる間に、制服を脱ぎ、荷物を片付け食事の準備をした。
「いただきます」
望の言葉が部屋に響いたが、そのまますぐに一人箸を淡々と口に運んだ。
ただ、黙々と――辺りを包む静寂を破ることなく。
ただ、機械的に――「楽しい」などと感じる心をひたすら殺して。
「…………」
そこには「家族の団らん」などという温かなものはどこにもない。あるのはただ冷たく暗い空気だけしかない。他人から見れば、「可哀想……」と涙さえ誘う光景だった。
しかし、望の中には、虚しさや寂しさは感じていなかった。薄暗い部屋の中、望は一人もくもくとその手を動かしていた。
もしこの状況がテレビ放映などされれば、『子供の情操教育として酷い有様だ』とか『これは一種の虐待ではないのか』などとコメンテーター達は口を揃えてそんな言葉を吐くかもしれない。
けれども、望にとってはそんな言葉をかける大人達を嘲り笑いたい気分だった。
なぜなら、これが希坂望の『いつもの日常』なのだから。
望は一人暮らしをしていない。そのため当然だが、居間の向こうには望の部屋と両親の部屋があった。だが、それらの間には高く険しい壁があるように思えた。部屋の電気がついているのは望の部屋だけで、両親の部屋は日も沈んだというのに暗闇に包まれたままだった。
望の両親は共働きで、どちらも家庭をかえりみないタイプの人間だった。深夜帰りや会社に泊まることもままあった。そのためか、望の記憶には「両親の姿」はおぼろげにしか分からない。
いや、分かりたくもないというのが望の正直な気持ちだ。
どんな職業についているのかさえ訊いたこともなかった。というよりも、訊こうとも思わなかったというのが正しいのだが。
「ごちそうさま」
望の呟いた言葉が、家の空気をわずかに震わせる。
必要最低限なものしか置かれていないこの家は、『家族』がいるにもかかわらずひどく殺風景なものに映ってならない。
いつしか静かさを紛らわすようにテレビを眺めていた望を、携帯電話のバイブ音が現実に引き戻した。携帯電話を開くと『メールを受信しました』の文字が画面に踊っている。
届いたメールを開き、内容を見た望は――
「はぁ……。もういい加減にしてくれ。だから現実は嫌いだ」
げんなりと苦しそうに呻きながら、ガチャリと扉を開けた。
続いての投稿です。
望クン、あんたホントに高校生ッスか? と突っ込みたくなりマス(オィ)。




