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準備の始まり

 残暑見舞い申し上げます……暑い。

 おでこにひんやりしたものを乗せられて、目が覚めた。

 あら、と目が合ったのは母だった。どうやら冷たいタオルに代えてくれたらしい。

 ふと目線を右に移すと、そこにはベット横に座って突っ伏して寝ているシリウスがいた。

 母が口元に人差し指を当て、そっと小声で話した。

 「明け方まであなたの看病してたのよ。寝かせてあげて」

 言われて、今が朝だと気がついた。

 窓には薄いカーテンがかかっていて、わずかに日の光りが部屋の中に入り込んでいる。

 こくっとうなずいた私に、母はコップを見せた。何か飲む?と聞いているのだと思って、うなずいた。

 シリウスを起こさないようにゆっくり上半身を起こし、母に差し出された冷たい水を飲んでほっと一息ついた。

 白いシャツに黒いズボン姿のシリウスは、よほど疲れているのかピクリとも動かずぐっすり眠っている。

 「帰って来たのは真夜中みたいだったわ。今日帰国予定だし、しばらくあなたと離れるから嫌なんでしょうね」

 えっと母を見ると、母はやんわり微笑んだ。

 「あなたの手続きと、体調を考えてあなたはここに残るのよ」

 「でも、私が抜けると人数が……」

 「そうねぇ、そこは聞いてなかったわ。でも、コーラン様も納得されてるそうだし、大丈夫なんじゃないかしら」

 コーランさんというより、シンシアさんが段取りしているんだろうな。次に会ったらお礼を言わなくちゃ、と心に決めてコップの水をぐびっと全部飲んだ。

 「ねぇ、お母さん」

 「なぁに?」

 空になったコップをサイドテーブルへ戻し、母は私を見た。

 「お母さんは私がゼヴァローダ様の義理の妹になるって信じられる?」

 「そうねぇ、実はまだ夢じゃないかっと思ったりもするけど、あなたがシリウスに嫁ぐにはこれが一番安全なのよ。あなたの体質も一般人の私の元にいるより、ずっと安全に守られるし、今回の事でお母さん本当にそう思ったの。二度とあなたが争いに巻き込まれないようにって」

 うん、と私もうなずく。

 私もあんな怖い目にあうのは二度とごめんだ。

 でも、と母は前置きして表情を曇らせた。

 「陰口とかそういうのはどこにいてもあると思うの。それだけが心配」

 「そうだね。平民が縁組して”炎帝”に嫁ぐんだもん。すっごい騒ぎになりそう」

 わざと笑顔でそう言うと、母は困ったようにため息をついた。

 「全くよ。どうしてこうなったのかしら。私経由でもあなた達に迷惑かからないように十分注意するわ」

 「でも、ウィルさんにはなんて説明するの?」

 私が名指ししたせいか、母は少し驚いたあと、困ったように笑った。

 「全部話すわ。彼は信用できる人だし。あ、そうそう、彼のお父様もあまり野心ってのを持ってないみたいなの。お見合いの時はなんとなく雰囲気に呑まれたみたいで、本当はあなたのツテも、実はどう使っていいか分からなかったみたいよ。お母様にどうしようって相談したらしいわ。お母様からは、そんな話は聞いてないって怒られたみたいだけど」

 「それがゼヴァローダ様だって知ったら、本当に困っただろうね」

 「困るどころか、きっと寝込むわ。だから心配しないで。私は新しい町で上手くやっていくわ。もちろんこれからもあなたをずっと見守るし、何かあったら連絡しなさい。どんな小さなことでも、愚痴でもなんでも聞くわ」

 そう言って私を抱きしめてくれた。

 この年になっても、母に抱きしめてもらえるのはとても嬉しい。

 じっくりと母のぬくもりを感じていると、部屋のドアがノックされた。

 その音でようやくシリウスも身じろぎし、ゆっくり目を開けた。

 母が腕をほどき、返事をすると昨日の疲れを微塵も感じさせないゼヴァローダ様とロレンヌ夫人が入ってきた。

 「おはよう、エレン。気分はどうだい?」

 「はい、だいぶいいです」

 「それは良かった」

 にっこりと微笑むゼヴァローダ様は、正直朝から目に眩しい。

 そんなゼヴァローダ様は、ベット横でようやく起きたシリウスに気がついた。

 「おはよう、シリウス」

 「……なんだってお前がいるんだ」

 「私の邸だからだ。それより、今日午後4時帰国予定だろう。少なくとも3時には魔法教会に戻れ」

 「……だって、エレン」

 まだ寝ぼけているのか、力のない声で私に言った。

 そうか、シリウスは知らないのかと私が言おうとしたが、それより先にゼヴァローダ様が言った。

 「何を言う。お前1人で帰るんだ。エレンは当分ここで過ごす」

 「はっ!?」

 今度はしっかり目が覚めたようだ。

 がばっと顔を上げ、ゼヴァローダ様を見上げる。

 「そんなの聞いてない!」

 「だろうな。だが、養子縁組したのだから、それ相応にいろいろある。形だけとはいえ伯爵家の令嬢としたんだ、ある程度の教育をしてからでないとな」

 「お前の妹にしたんだろ!?お前は伯爵家の籍は抜いてるし、伯爵家はただの後見人じゃないか」

 「私は長男だったから、対面的に家督を継ぐ弟に不都合がないよう除籍しているが、私の扱いは伯爵家の中では基本変わらないようだ。私の妹ということは伯爵家の令嬢とする、というのが今回の条件だった。これでエレンがファラムで何かされたら、スベルタ伯爵家が堂々と動けるということだ」

 がっくりとシリウスは肩を落とし、そのままベットにまた突っ伏した。

 「あぁもう、何だろう。話が進んでいるようで進んでいない気がする」

 「進んでいるさ。だが、もう少し準備してから出ないと無理だ。お前だって受け入れる側としていろいろすることがあるだろう。全部整えてから正式にスベルタ家に申し込め」

 ぽんぽんとゼヴァローダ様がシリウスの肩を叩くと、とりあえず「わかった」と諦めたような声がした。

 

 それからシリウスと2人だけにしてもらって話をしたが、シリウスのやるべきことは結構沢山あるらしい。まず教会と王様に求婚申請を提出するらしい。その後テナバート家を通してスベルタ伯爵家に使いを出すが、ここでマウリスさんが当主になってないと面倒だということで、いくらか兄をせっつくと言っていた。テナバート家の当主交代が早まるようだ。そしてスベルタ伯爵家から了承の返事がきたら、次は教会と王様に結婚申請を出すそうだ。申請書には当人達のサイン以外に、後見人を始めとする複数のサインが必要なので、これも面倒だとシリウスは呟いていた。

 「うちにくれば会える。ただしちゃんと手続きして来い」

 別れ際にまた渋ったシリウスに、ゼヴァローダ様はうんざりしたように言い、そのまま一緒に転移した。

 母はそんな2人を見て笑っていたが、3日後フェイルの町へ戻る時は私にしっかり言って帰った。

 「いつまでもシリウスを甘やかすと、とんでもないことになりそうだわ。食べ物の好き嫌いはともかく、仕事と対人の好き嫌いはさせないように、しっかりあなたが言わなくてはダメよ」

 妙に迫力ある母の物言いに、私は黙ってうなずいた。

 一緒に見送っていたゼヴァローダ様もロレンヌ夫人も、私の背後でしっかりうなずいていたのはいうまでもない。

 そしてシリウスが帰国して1週間が経ち、私もほぼ回復したので、ロレンヌ夫人による淑女教育なるものが課せられるようになった。まずは歩き方と姿勢、そして正装に慣れること。食事のマナーなどから始まり、国の歴史や貴族のあり方やらを学ぶ時間も増やすという。

 「お式は来年の春くらいですわね。それまで頑張って下さいませ」

 にっこり微笑むロレンヌ夫人に、私はははっと空笑いを見せた。

 確かに公の場には極力出ないでいられるようしてくれるらしいが、それでも機会が0ではないのだから頑張らなくてはならない。シリウスの評判も、スベルタ伯爵家の評判まで関わってくるとなると、嫌でも必死に勉強しなくてはと思う。

 秋に結婚するといっていたメリーは、料理と衣装作りに幸せ一杯に取り組んでいたけど、私は重責がのしかかっているようで、幸せ一杯には取り組めない。

 あと、あの貸衣装にしていたドレスだったが、母に頼みウィルさんの店に置いてもらえるようになった。もちろん用途は貸衣装。次回分はいくつか埋まっているので、いきなり処分はできないしと悩んでいたら、母が頼んでみるというのでお願いしたのだ。町とはいえ上質なドレスに予約も多く、生地が傷まないように維持するのが大変だと母が手紙に書いていた。

 私はあてがわれた2階の部屋のバルコニーに出て、思いっきり腕を伸ばして背伸びをした。

 今日の午後のお茶の時間は紅茶の入れ方の試験。

 作法を思い出して頭の中で復習していると、ふわっと部屋の中から熱気を帯びた風が吹いた。

 まさか、と思って振り向くと、そこには思った通りの人が立っていた。

 「シリウス!」

 思わず笑顔になり駆け寄る。

 「エレン」

 ふっと表情を柔らかくし、私を抱きしめた後きょろきょろと周りを見渡した。

 「今1人?」

 「えぇ。でももうすぐロレンヌ夫人がいらっしゃるわ」

 「いらっしゃるって、俺の前じゃいつもの口調でいいよ」

 それもそうね、と私が笑うと、シリウスは私を抱きしめたまま、また足元に魔方陣を展開した。

 「え!?」

 「ごめん、ちょっと出かけよう」

 にっと笑ったシリウスを見て、これは間違いなく後でゼヴァローダ様に怒られると直感した。

 

 


 今週もよろしくお願い致します。

 次回最終話となります。

 

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