陸の人魚は青に溺れる3
海の中から見えるゆらめく水面を怖いと思ったことなど一度もなかった。海の中はメリッサにとってはいつも彼女を守ってくれる優しい場所だった。
だが鱗水晶を持たないメリッサにとって、そこはもう優しい場所ではない。
ぐっと手に絡まるロープが引かれ、メリッサは浮上する。
「ゴホッ、ガハッ! や、やめて、くるし、い……」
メリッサの視界が急に明るくなり、桟橋から彼女の様子をのぞき込む人々の顔をぼんやりとした意識で見つめる。
「なんで……!?」
「どういうことだ! 普通の女の子じゃないか! なんてことを」
鱗水晶を失ったメリッサの髪も目も、水にぬれて変化することはない。
「そんな、そんなはずねぇ! なんかの間違いだ! 俺は見たんだ!」
動揺したナイジェルが握っていたロープを離す。手の自由を奪われ足も縛られた状態のメリッサの身体はもがくことすらできずに再び沈む。
たいした抵抗もできずに、肺の中の空気が泡になって昇っていく。
苦しくて、怖くて涙が流れても海の中ではわからない。
メリッサがあきらめかけたとき、カイルの青い瞳が見えた。最後にわかれたときのような冷たい眼差しではなく、真摯で優しい、けれど少し意地悪ないつもの顔。
もしかしたら、最後に見たいものをメリッサが勝手にみているだけなのだろうか。遠のきそうになる意識で彼女はそう考えた。背中に手が回り、それをあたたかく感じるのも、浮上するような水の抵抗も、近づいてくる地上の光も、すべてが夢の中の出来事のように感じられたのだ。
何度も何度もせき込んで、メリッサは飲んでしまった水を吐き出す。口の中はしょっぱく、ひどく身体が重い。
「大丈夫か?」
座り込むメリッサの背中をさすりながら心配そうにのぞき込むのは幻影ではなくカイル本人だった。
彼はメリッサの少し透けてしまっている身体を隠すためにジャケットを脱いでかける。
「アルフォード様、ずぶぬれの服をかけられてもメリッサ君がよけいに冷えてしまいます」
ラファティが冷静に突っ込みを入れながらジャケットを脱ごうとするのをカイルは拒否する。
「すぐにここを離れるから、かまいません」
それはまるで、自分の上着以外は着せたくないと主張しているようだった。
ラファティの隣にはウィレミナもいる。なぜこの三人が助けに来てくれたのか。メリッサは状況がわからないまましばらく放心してしまう。
「かわいそうに、すぐに解いてあげるわ」
ウィレミナがどこからか小型のナイフを持ってきて、ロープを切る。強く結ばれた部分は真っ赤になりくっきりと縄の模様がついている。
カイルはその跡や、メリッサの身体にできた傷を見て、顔をしかめる。
「……カイル?」
「バカ、心配かけるな」
ぬれた髪を鬱陶しそうにはらったカイルは、震えるメリッサの肩を優しく引き寄せた。
「……あの男か?」
カイルの視線の先にはナイジェルがいる。メリッサの栗色の髪とはしばみ色の瞳を見つめたまま、彼は呆然としていた。
「お、おまえ、なんなんだよ!? その人魚は俺のものだぞ!」
「人魚? 彼女のどこが? それに彼女は俺の、カイル・アルフォードの恋人だ。どこの田舎者かは知らないが、ただで済むと思うなよ」
「こ、こいび……?」
メリッサが「恋人」と言われたことに対し反応すると、カイルはややこしくなるから黙っていろと目で制した。
この国ではめずらしい黒髪、青い瞳の青年は町で一番の豪商だ。当然知らない者などいない。メリッサを転ばせた男も、買い取ろうとしていた商人も、見て見ぬふりをしていたやじ馬も、全員の顔色が悪くなる。
この町で敵にしてはいけない男にとんでもない無礼をしてしまったのだから当然だ。
「その女は人魚だ! 俺は幼なじみだからよく知っている! 見間違えるわけないんだ!」
カイルのことを知らないナイジェルが声を震わせながら叫ぶ。
「へぇ、幼なじみの娘を追いかけ回していたのか、とんでもないクズだな」
カイルは冷めた目で男をじっと見ながら言葉を続ける。
「彼女から、おまえのことは聞いている。なんでも、一方的に追いかけ回して、彼女の父親に断られたにもかかわらず、家族の留守中にあきらめ悪く求婚して、断ったことを逆恨みしたんだってな? 彼女は無理やり迫ってくるおまえが怖くて着の身着のまま逃げ出すしかなかったと言っていたが?」
「ナイジェル……おまえ!」
オルシーポートから同行していた男たちがナイジェルを見る目が変わった。
「そういえば、あの日、どこで求婚したらうまくいくかって聞いてまわってたぞ!」
「人魚だって言い張ってるのはナイジェルだけだよな?」
「どこが人魚なんだ? 足も髪も、変わらないじゃないか!?」
一度浮上した疑惑を、カイルはさらに膨らませる。
「あんたたち、だまされていたんじゃないか? 嘘八百でこの男が彼女を捕らえるのに協力させられていたんだろ? まぁ、だまされていただけだとしても、許す気はないが」
ナイジェルは、メリッサを無理やり自分のものにするために村人をだました。その主張には実は矛盾がある。捕まえたあと、容易にバレるような嘘をついてなにをしたかったのか、ナイジェルの行動の意味がわからなくなるのだ。
けれど、メリッサが人魚としての特徴を、なにひとつ持ち合わせていないという事実を覆せない以上、村人はナイジェルを否定するしかない。
一度疑うと、彼の行動のすべてがおかしく感じられ、彼の行動に矛盾があっても、そもそも理解できない真性の悪党だ、という結論になる。
カイルは、疑惑を膨らませるだけで、あとは村人が勝手に想像してくれる。簡単な作業だ。
騒ぎが大きくなり、やじ馬をかき分けて自警団がやってくる。カイルは自警団の男たちに事情を説明して、村から来た四人とメリッサにけがをさせた男が連行された。
ナイジェルがいなくなった瞬間、メリッサの身体から力が抜け、カイルに寄りかかっていないと倒れそうになる。カイルはしっかりとそれを受け止めて安心させるように笑う。
「もう大丈夫だ。とりあえず休める場所に移動する。……早く戻さないと手遅れになるからな」
優しい声でそうささやかれると、メリッサの意識は急に遠くなる。ひどく疲れてまぶたが重いのだ。
「大丈夫だ」
あたたかいカイルの腕の中、その声がひどく優しいことに安堵しながらメリッサはまぶたを閉じた。
◇ ◇ ◇
彼女が目を覚ますと、そこは見知らぬ場所だった。大きなベッドと真っ白なシーツ。天井には真っ白な漆喰の装飾とシャンデリア。何度か目をぱちぱちとさせても、おかれている状況がまったくわからない。
「あぁ、起きたか?」
異国人の血を引くという青く澄んだ瞳がのぞき込む。カイルが助けてくれたことが夢ではなかったのだと思うと、メリッサはひどく安心する。
「ここは?」
「商会の、俺の仮眠室みたいなところだ。屋敷までは距離があったからな」
「ん?」
メリッサは自分の状況を確認する。まず、ぬれていたはずの服は全部脱がされていて、おそらく下着もつけていない。あきらかにサイズの大きなシャツ一枚、その上に薄い毛布がかけられている。壊れた眼鏡とパメラからもらったリボンはベッドの脇にある台の上においてある。
けがは手当てされ、人魚の力が戻っている。メリッサが自身の胸に手をあててみると、服の上からでも硬いものが身体に埋め込まれているのがわかった。
「あの、ふ、服」
「それは俺のだが、着替えさせたのは俺じゃない。彼女には買いものに行ってもらった」
女性で、鱗水晶を見せても安心なのはウィレミナだけだ。カイルの言っている人物が彼女なのだとすぐにわかる。
「それと、これをやる」
カイルが手に持っていたのは金縁の丸眼鏡だ。メリッサがかけていた黒縁眼鏡は壊れてしまったので、その代わりだろう。
「コンラッドの蒐集品からおまえに合いそうなやつを選んだ」
「コンラッドさんが? あとでお礼を言わなきゃだめですね」
「いや、やつの蒐集品から俺が選んで買った」
カイルは少しふくれて、礼を言うべき人物はコンラッドではないと主張する。
「そうでしたか、ありがとうございますカイル様」
「さっきまで“様”をつけていなかったくせに」
カイルはさらに不機嫌になる。その顔は完全にいじけているようだ。
「あの、カイル? どうして鱗水晶を戻したんですか?」
「勝手に押しつけられて、腹が立ったからだ」
「そんな! でも、そんなことくらい、マーガレット様の病気に比べたら!」
「命がかかっていれば、無関係のおまえの人生がくるってもかまわない……本気でそう思うのか?」
「でもっ!」
「鱗水晶を戻したのは、人の気も知らないで勝手においていったのがムカつくから。受け取らないとは言ってない。……まだ、話したいことがあるんだ」
カイルはメリッサのいるベッドの近くに椅子を持ってきて座る。メリッサも上半身だけ起こして、カイルの「話したいこと」を聞く準備をする。
「まず、おまえのことを最初から人魚だと知っていたのは本当だ」
「はい」
たぶん、今のカイルは嘘の気持ちを言わない。メリッサはそう思った。
「鱗水晶を奪うために、仕事を与え屋敷に住まわせた。これも本当だ」
「……知っています」
「わかっているのなら、なんでおいていった? おまえ、バカなのか?」
カイルはあきれて、大きなため息をはき出す。
「でも」
メリッサの予想では、もしカイルが本気で鱗水晶を奪うためだけに彼女に接していたなら、もっとやりようがあったと思うのだ。だから彼女は書庫で怖いと感じた彼の瞳をしっかりと見る。彼の本心を知りたいのだ。
「カイルは、いつも演技していたわけじゃないですよね。私がその、成人してしまって、本当に鱗水晶が手に入る状況になったから、どうすればいいかわからなくて出て行くように仕向けたんじゃないかなぁって」
「……おまえは鈍いのか、鋭いのか? どっちかにしろ」
カイルは頭をかかえているが、それは本心を言い当てられた照れ隠しのようでもある。
彼のその言葉でメリッサの胸のざわつきが、すっとひいていく。
「それに、カイルがどう思うかということと、私がマーガレット様のためになにかしたいのは別の話。それはカイルが決めていいことではありません」
「おまえな……」
メリッサがきっぱりと断言すると、カイルはあきれて、そのあとしばらく黙ってなにかを考えるようにしている。
「わかった。鱗水晶のことと、今後のおまえと俺がどうなるかはいったん切り離す」
「私たち、ですか?」
カイルは突然立ち上がり、メリッサのいるベッドに座るようなかたちになる。引き寄せられ、カイルの顔がだんだん近づいてくるのを彼女は不思議な気持ちで見ていた。
気がついたら胸の中に閉じ込められ、人魚よりもあたたかいカイルのぬくもりを感じると、それだけで鼓動が高鳴る。
「すぐにおまえを探しに行ったが、ラファティ殿のところに行かないし、探し回っているうちに港で騒ぎになっているし、どれだけ心配したと思う?」
「でも、出ていくように仕向けたのはカイルです!」
「村の連中から追われている身で、頼れる者を頼らないバカがいるとは思わなかったからだ」
カイルはメリッサが同族のラファティを頼るはずだと考えていたから、屋敷を追い出すことにためらいがなかったのだ。鱗水晶を押しつけて行方をくらますことは彼にとっては想定外だった。
「人魚でも、そうでなくてもおまえが迂闊でお人よしなのは変わらない。離れられると、気になってほかのことが考えられない。わかるか?」
「あの……?」
ナイジェルに縛られたせいで傷ついた手首をカイルや指先で優しくなぞる。
「ほかの男に傷をつけられたのを見たら、気がおかしくなりそうだった。そのきっかけをつくってしまったのは俺だから、よけいにな」
今までの彼の態度はいつも意地悪だった。基本的に世話焼きで、使用人を大切にし、いつもメリッサの安全を考えていてくれていることは知っていたが、紡がれる言葉はいつも意地悪だ。
今のカイルはそうではない。真摯にメリッサを見つめる瞳も、紡がれる言葉も、ひどく甘くてメリッサを困惑させる。
「でも、カイルはマーガレット様や、どこかのご令嬢に向けるような顔を私には……。私にはあんまり……っ……」
「マギーはともかく、どこかの令嬢? おまえ、仕事用の顔とそうじゃない顔の区別もつかないのか?」
「わかりません」
「じゃあ、わかれ!」
カイルは大きな手がメリッサの前髪を横にはらい、瞳の色を確認するようにまっすぐに見つめる。海と同じ澄んだ青を見ていたら、吸い込まれてしまうのではないかと思い、メリッサは自然に目を閉じる。
触れた唇から伝わるカイルの温度はやはりあたたかい。あたたかくて、愛おしい。その感覚にすべてを支配されたいとさえ思う。
お互いが別々の存在であるのを確かめ合うように重ねられた唇が離れる。メリッサが再び目を開けると、やはりカイルは笑ってはいなかった。それを少し残念に思う。
「メリッサの前ではあまり余裕がない。心を支配するつもりで近づいたのに、いつもかき乱された」
「私だって! 私なんて、本当に胸が痛くて、苦しかったんです!」
人間も感情が高ぶって胸が痛むことはあるだろう。でも、メリッサはその痛みと鱗水晶が外れそうになる物理的な痛みの二重苦だった。
「俺に、鱗水晶をくれるか? マギーのためじゃなく、俺のために」
マーガレットの病気を治すためではない。カイルと同じ存在になるために鱗水晶を外してほしい。カイルのその願いはメリッサの心に響く。
投げやりに渡すのでもない、皆で一緒に幸せになる方法をカイルは提示している。
きっと二人とも間違っていたのだ。カイルはマーガレットのために近づいたのに、メリッサとともに生きる資格がないと勝手に手放した。
メリッサも投げやりに鱗水晶を押しつけて逃げた。意地さえ張らずに二人の想いをすべて叶える方法があるのに、それに気がつかないふりをしたのだ。
メリッサがうなずこうとしたそのとき――――。
「……あの、お取り込み中、申しわけないのですが」
姿を見せたのはラファティとウィレミナだった。タイミングがよすぎるのは、メリッサたちの様子をうかがっていた、ということだろう。
「やはり、私としてはメリッサ君が鱗水晶を外すのは賛成できませんね。あなた方は若く、出会って間もない」
「でも!」
出会って間もない二人の選択は過ちである。ラファティからそう言われている気がして、メリッサは強く反発する。
「メリッサ君。そういうことはご家族に許可をとってからするべきです。それにアルフォード様は人魚にとって因縁のある相手ですし」
人魚姫の恋人、血のつながりはないとはいえその孫であるカイル。そして海の王国の宝を売りさばいて財を成したとうわさされるアルフォード商会。カイルに鱗水晶を渡せば、メリッサの父や兄がどう思うか。想像できない話ではない。
人魚の意見としてはラファティの言うことは正しかった。それでも、正しいからといって納得できるものではない。
カイルの提案は、今しか取れない選択だ。時間が無限にあるのなら若いうちの選択は浅はかだと言われても仕方がない。でも、残された時間が少ないのに、それを無視して正論を言われてもメリッサには納得いかない。
困惑するメリッサに、ラファティはやわらかい口調で語る。
「私はもう、三年です……。三年もウィレミナ君をまたせてしまって。まったく臆病でいやになりますよ。ウィレミナ君とともに生きたいのに、力を失うのが怖いだなんて」
「ラファティ師匠?」
ラファティがカイルとメリッサの前に、握りしめた手を差し出す。ゆっくりと開かれた手のひらに、ひし形の輝く宝石があった。
「アルフォード様と妹君に、さしあげますよ。もう不要なものですから」
ラファティの鱗水晶。薬師としての優位性を失うのがいやでためらっていたはずの選択。その選択をカイルとメリッサ、そしてマーガレットのためにしたのだ。
「……ラファティ殿。よろしいのですか?」
「えぇ、あなた方を見ていたら、私もそろそろ覚悟を決めるべきだと。そう思ったんですよ。きっかけがないと見切れないなんて情けないことです」
ラファティはウィレミナをちらりと見てほほえむ。ウィレミナもラファティの選択にうなずいた。
「そのかわり、私の人魚としての最後の助言はきちんと聞いてくださいね」
ラファティの助言は、メリッサが鱗水晶を外すなら、もっと互いを知り、メリッサの家族と話し合ってからにするべき、ということだ。
「必ず約束は守ります。ラファティ殿」




