【第二百五十八話】憎悪の信奉者
「先導者様からの直々の提案だ。 これを呑まない手はない。 私はこの街全ての支配者じゃないが、今この瞬間だけは街の行末を決めるよ」
――我々は、この同盟を結ぶことを目指す。
万来の拍手喝采が起きる中、杏子の言葉で更に皆のテンションが増していく。
どんなに住民が希望しても支配者が否と言えば街は先導者を拒絶するしかなかった。
流石にしないだろうと思いはしても、世の中何が起きるか解らないものだ。聡明な人間が為政者になった途端に愚策を施行するのも一回や二回ではない。
特に彼等の脳裏には一喜に銃を向けた稔の存在がある。
杏子と領土を二分させていた支配者であったが、武力を基盤としている為に集まっている人間も暴力的な者が多かった。
馬鹿ばかりではないのが救いであるものの、かといって暴力の二字が背景にあるのは住民にとって恐ろしいものだ。
和を以て貴しとなす道を選べなかった。結局、彼はそうする以外を考えられなかったのである。
故に、支配者の座に居るのは杏子のみとなった。
稔は引き摺り降ろされ、一喜に怪我を負わせる要因となった者として重い罪に問われるだろう。知らなかったとはいえ直接撃ってしまった者もタダでは済まされない。
住民に白眼視されるのは当然として、何処か知らない場所で住民による私刑によって死んでしまう可能性も否めない。
撃った者が所属している組織に対しても良い印象は持たれなくなり、既に稔派の軍人は杏子の管理下に収まることを良しとしていた。
杏子は自身が全てを支配している訳ではないと語ったが、実際のところ唯一の支配者になった彼女は街の実権を全て握ったのである。これで後は彼女が後継者を定め、先導者との繋がりを強固なものにしていけば地盤は安定化していく。
「さて、この同盟を結ぶ上でメリットデメリットは既に理解しているだろう。 二度続けるのも面倒だ。 ……その上で、もう一つ追加の情報がある」
喜びの中、杏子の冷静な声が場を沈静化させた。
静まり始める周囲をゆっくりと見渡し、杏子は視線を一喜の背後に居る老人に向ける。
向けられた当人はやっとかと力強い笑みを浮かばせ、全身からは仄かな覇気が発された。強者特有の周りを圧倒する空気は、相手が怪物であると知っている人間からすれば恐ろしいものでしかない。
老人はゆっくりと一喜の背後から老婆の横に移動する。
人間と怪物が隣り合う図は異様だった。何も知らなければ老人と老婆が並んでいるだけだが、全てを知っていると歴史の教科書に載るような瞬間だと解ってしまう。
杏子は視線で老人に続きを促した。
老人は一つ頷き、怪物特有の肉体性能に任せた大声で住人に話し始める。
「色々言わなければならないことはあるが、先ずは謝罪だ――――申し訳ない」
老人は衆人の中で深々と頭を下げた。
突然の奇行に周囲には驚きが広がる。それも当然、怪物が人間に謝罪することなどある筈もない。
謝るとすれば、それはやはり強制された場合のみ。しかも形だけで中身の無いモノになり、形式上の事実以外に意味も無い。
だが老人に謝る理由も無しに謝意を示した。誰かに強制された訳でも無しに静かに頭部を人々よりも下に動かし、実に真摯な姿勢で数秒そのままにしていたのだ。
やがて彼はゆっくりと顔を上げ、真剣な表情で杏子や一喜がしていたように周りを見渡した。
「俺は沖縄を地獄に変えた。 お前達の親族、恋人、友人、知り合いを殺して殺して殺し回った。 この事実を否定する気は無い。 世が世なら幾度死刑になっても足りないくらいの極悪人だ」
老人の語る事実は皆も知るところだ。
沖縄はたった一人の怪物に変えられた。幸福を踏み躙られ、無関係であることなど関係無いと言わんばかりにどん底の更に下へと突き落とされた。
苦境に喘ぐ様を老人は助けようと考えることもしていない。ただただ、つまらないものを見るような目で一瞥しただけだ。
そんな彼を知るが故に、皆の驚愕は強い。嘗ての悪魔のような雰囲気が鳴りを潜め、まるで只人になったかの如き様相に戻ったのだ。
とはいえ、それで彼の謝罪を受け入れる気は住民にはない。特に親族や恋人、友人を奪われた者は驚愕が収まった後に嚇怒の感情に支配され始めている。
鋭い眼差しが増えていった。
プラスの感情がマイナスの感情に支配されようとしているのを感じさせた。
誰かの拳を握り締める音が響く。歯軋りが老人の耳に届き、荒い吐息すらも肉体性能に優れる怪物は正確に認識していた。
「お前さん達の怒りは正しい。 お前達は俺に復讐する権利がある。 俺みてぇな奴が生きているのは、そもそも道理が通らねぇって話だ。 真っ当な頭を持っている奴なら報復しなきゃ気が済まねぇだろうよ」
怒りを受けよう。憎悪を身に沁み込ませよう。
怪物の身体は悪感情に歓喜した。素晴らしき栄養が我が身に訪れたと、老人の意志など関係無しに咀嚼し始める。
その様に内心で老人は嫌悪した。何も感じてこなかったこの行為に、彼は正に今普通の感性でもって相対したのである。
怪物は悍ましい。そうなる過程で既にまともではないのに、そうなった後でも無数の屍を積み上げることを求めてくる。
これが老人の思う真っ当な存在だろうか――――いいや、当然そんな筈がない。
「だがその上で聞いてくれ。 これから俺は、沖縄を守る壁になる」
何を言っているのだろうか。
住民の感想としてはそんなもので、老人としてもまぁそうだろうと納得出来る類だ。
虐殺を繰り返した化物が、人でなしを体現する怪物が、人を守ると言ったところで到底信じてもらえる訳もない。
即座に罵倒が飛んだ。手に手に石を持ち、近くに杏子や一喜が居ることもお構いなしに全力で投げ飛ばす。
殆どの石は外れたものの、幾つかは老人の顔面に激突した。強烈な力で投げ飛ばされた石は常人であれば血を流しても不思議ではないが、やはりいくらぶつけられても血どころか表情一つも歪みはしない。
皆、老人に報復されることなど頭から飛んでいた。
怨嗟の炎に支配されるまま動き出す肉体に理性は宿らず、最早一種の暴動の有様へと転じている。
飛んでくる石が地面から無くなれば、次は近くの物が投げ飛ばされた。
色とりどりの生活用品、大工道具、建築用の端材の数々。持てる全てをもって死ねと叫ぶ彼等の姿は、デモ行動よりも遥かに恐ろしい。
五分か、十分か、一時間か。一ヶ所に向かって飛ぶ物体から避ける為に一喜は老婆の手を取って退避させ、老人は二人に当たることを避ける為に前に出る。
纏う服は度重なる衝突で汚れや破れが目立っていき、彼の周囲に物が集まった。
小さな山を形成していく怒涛の攻勢を老人は真正面から受け止め、己がしてしまった過ちから一切目を逸らさない。
解っている。どれだけ時間が経過したとて、彼等の憎悪が薄まることはない。
寧ろ生活が苦しくなることで憎悪は深まり、煮詰まったソレはただの悪意よりも質が悪い。
彼等の手が漸く止まったのは、それから更なる時間が経過した後だった。
今にも倒れかねない程に肩で息をしている住民は老人への眼差しの強さだけは変わらず、されど肉体は強制的な停止を行わせる。
罵倒の声も無い。嗄れる喉は水分を欲し、僅かな理性が全力で休むことを推奨していた。
本能がまだだと叫んでいる。
感情が動けと暴れている。
沸騰する血は武器を取れと囁き、抗う気を喪失させてしまう。
暴れるに足る理由が今の彼等にはある。原始的な欲求を発露し、今こそ欲に従うべきだ。
それでも彼等が限界を超える真似をしなかったのは、祈りの対象もまたこの場に居るからである。
全ては一喜の存在によって最後の一線は守られ、そうして老人の言葉はあらゆる人間に信じられずに演説が終わっていった。




