【第二百四十九話】誰もが求めた人
稔の言葉は、怪物によって歪められた道を歩んだ者の悲嘆だった。
幸も不幸も紙一重。天国があれば地獄があるように、安穏とした生活の影には常にそれを奪い取る影もある。
多くを望まねば、或いは割り切っていれば、影の脅威も然程強くはなかっただろう。
彼は望み、手にしたからこそ地獄に足を踏み出したのだ。例えその道を選ぶつもりがなかったにせよ、他者の人生を奪う選択をした時点で真っ当な道には戻れない。
涙を流す男の感性はまともなままだ。
理性が常人であることを求めた結果として、多くを殺していながら善の面をまだ強く保っている。
故に人望は潰えない。慕う人間も増えていき、大黒柱を支える支柱たらんと彼の周りに集まっていく。
「――言いたいことは、それで全部か」
徐々に徐々にと増していく敵視の目。
吹き出さんとする憎悪が一喜達に集中するのを知っていながら、老人は真剣な面持ちで稔を見る。
「おめぇの絶望は解ったよ。 俺の影響がどんだけ大変な事態を招いたのかを知って、おめぇが今にも狂いそうになっていることもわかった。 ……だがな、その上で敢えて言わせてもらうぜ」
老人の気配もまた変化していく。
鞘に収まった剣が引き抜かれ、喉元に向けられる感覚。誰もが恐怖する怪物の敵意が現実として現れ、多くの人間を飲み込む。
「――責任を全部俺に擦り付けるんじゃねぇ」
一歩。老人が足を一つ進ませる。
怪物としての気質を露にして進む姿は正にこの街のトラウマだ。嘗て沖縄をこんな世界に変えた脅威が今一度牙を剥き、眼前の人間諸共に多くを屠ろうとしている。
如何な覚悟、如何な精神を有していても、人間である限りは怖れが湧き出てしまう。
否応無しに無惨となった自身の末路を脳裏に想起し、自然と人々の身体に震えを走らせた。
これは老婆とて例外ではない。支配者だからといって――否、支配者だからこそ怪物の恐ろしさを最も理解している。
努力をしているか否かを真向から否定する者。理外の獣。万象の悪魔。
数多の人間を飲み込む怪物を前にして平静でいられる者など最早人の道理からは外れている。
そして、なればこそ。
「……」
冷静に事態の流れを見やる一喜は尋常の者ではなかった。
それがこの世界の人間が知る由も無い理由を有しているからだとしても、無差別に振り撒かれた敵意の刃を浴びて平然としていられるなど普通ではない。
彼は今、老人と稔の双方に共感していた。
稔には不条理な境遇を。老人には関係の無い部分まで責められる理不尽を。
どちらにも悪い部分があって、しかしどちらにも全ての責任が有る訳ではない。
物事の根本を突き詰めれば老人の方が悪く見えるが、稔の発言は己の行った所業すらも怪物の所為にしようとしている。
より良い未来の為に多くを扇動しては大切な人間を含めて殺した。
これが稔以外の支配者が始めた戦いであればまだ味方をしても良いと思えたが、この街で惨事を引き起こしたのは稔である。
その点についてだけは彼は老人を責められるものではないし、一喜が巻き込まれた一市民であればどちらも一緒だ。
大儀があろうがなかろうが、それで殺しを許す環境を用意した時点で稔は怪物に近付いたのである。
「俺はこの街に手を出さなかった。 何かが起きていたとしても無視を決め込み、したいようにさせた。 だからこうしておめぇさん達は他よりも楽な暮らしが出来ている」
「……」
「人間の悪い部分が出たな。 安心を覚えたら直ぐに欲に引っ張られる。 おめぇさんはおめぇさんなりにこの街のことを考えたつもりだろうが――――実際のところ、おめぇさんにとって都合の良い街にしたかっただけなんじゃねぇのか?」
「……黙れ」
「これまでが苦しいばかりだったんだ。 これからも苦しい日々は送りたくないもんなぁ? 余計な奴が余計な真似をする前に潰すってのは世の中当たり前の話だ」
「黙れ!」
老人の言葉に確信は無い。
全てが推測。全てが憶測。当時の稔が実際にどのように考えていたかは解らないが、強ち完全に外しているとも言えないだろうと老人は考えていた。
人は一人だと孤独に蝕まれる。孤独は不安を煽り、精神を不調にさせておかしな行動をとらせるものだ。
人間の生活とは集団での協力関係である。
多くが集まって一緒に暮らすからこそ安心を覚え、維持に頭を回して己は貢献しているのだと自己肯定感を高めていく。
稔にも理想はある筈だ。諦めたくない未来の想像図があり、許容出来る人間の範囲も定まっている。
彼から見て支配者達が許容ラインを下回っていたら不快感は大きいだろう。
稔は悲しみに浸る表情がら一転して鬼の形相に変わった。
憤怒を瞳に宿して殺意に漲る様子は納得がいっておらず、彼の認識下ではまったくの見当違いに感じているのだ。
「なんだ、都合が悪くなればキレるだけか? 周りの奴等を使ってさっさと攻撃しろよ、おい」
老人の刃は途切れる気配が無い。
護衛達が持つ銃の引き金も今にも押されてしまいそうで、今此処で戦いが起きれば周りの人間も巻き込んで多くの死傷者が出る。
それは怪物側にとっても支配者側にとっても不味いことであろうに、抑えることそのものに意識が向いていない。
誰かが間に割って入る必要がある。その役割を担えるのは、この場の中でも完全な部外者のみだ。
「――――」
息を吸う。
老人の前へと出れば完全な安全圏からは抜けることになるだろう。
勿論、約束を果たす為にも老人は未だ守るであろうが、さりとて自身から出て来た人物に対して積極的に保護に回る程優しくはない。
足を動かす。誰もが黙っていた空間で突如として動き出す者が居れば、どんな人間であれば意識をそちらに向ける。
稔も老婆も、護衛も住民も揃って二人の間にまで進んだ一喜から目を離さない。
老人に背中を向けて、彼が今話すべき相手である稔へと目を合わせた。
「突然どうした。 まさか死ぬつもりか?」
「生憎と死ぬつもりはない。 だが、互いにこのまま勝負を始めては不味いだろう。 誰も止めないのであれば仲裁する人物が必要だ」
「お前はあちら側ではないと?」
「敵同士だ。 俺はこいつのことを気に入ってないからな」
稔視点では一喜は怪物側の存在だと暫定的に決めている。
彼の発言そのものを信じる根拠は無く、まったくと信じる素振りは無い。それは他の者達も一緒だ。
「……今此処で誰を信じる信じないを争うつもりはない。 互いが互いに認識の擦り合わせを行う気が無いのであれば信用は生まれないだろう」
「信用など――」
「黙れ。 信用が出来ないのであれば、この場において優先順位をつけるのみ。 そして最優先なのは住民の安全だ」
一喜の瞳に迷いはない。
断言する様は堂々で、とても平凡な人間には見受けられない。
嘗ては一角の人物だったのではないか。もしくはこの世がこうなってから台頭した人物なのではないか。
黒の瞳は輝き、その奥には紅蓮の怒りが渦を巻いている。
遍く万象を焼き尽くさんとする感情はまだ小さいが、これが完全に表に出ては一体如何なる災害が起きるか解らない。
別の人間が間に挟まったことで稔の頭は一部が冷えた。
怒りが引くことはないものの、一喜の現実的な話の前では感情を爆発させるべきではないと理性が告げる。
実際、一喜の言葉が現状では正しい。
このまま戦いに突入させる訳にはいかず、可能であれば街の破壊を回避する方法で決着を付けるべきだ。
相手がどれだけ信じられずとも、正論の前では反論は何の意味もない。
「アンタもこれ以上煽るな。 今は予定を進めることだけに集中しろ」
「へいへい。 まぁ、こんなのに関わって万が一があっても御免だからな。 さっさと出て行きますとも」
「だから……」
一喜の言葉に老人は矛を収めた。
元より相手は価値の無い相手。死んでいようがそうでなかろうがどうでもよく、一喜に止められたのであれば直ぐに止める気であった。
一瞬にして無散していく重圧に誰も彼もが困惑を隠せない。
あの男は一体どのような人間なのかと口々に話し、されど誰も知らぬ以上は噂の範疇で留まる。
しかし、彼の行ったことは多くの者の頭に刻まれた。
人を止め、怪物を止め、事態を軟着陸させてくれる稀有な存在。――それはきっと、多くの者が求めた人間だったのかもしれない。




