【第二百三十六話】望愛の最後の躊躇
空高く跳ねた老人を見上げ、一喜は腰に機械を当てる。
自動でベルトが巻かれ、一枚のカードを彼はポケットから取り出した。
「それじゃ、行ってくる」
「気をつけてください。 私達はサポートすることが出来ません」
「最大限気にするが……」
「解っています」
集まった者達の中で望愛と一喜だけが言葉を交わす。
あの一日限定の同棲を過ぎた後、両者の距離は明確に縮んだ。誰が見てもと言う程に常に一緒ではないが、見る者が見れば解るくらいにはパーソナルスペースの浸食を許し合っている。
異世界で食事をする際には向かい合っていた筈なのに、今では人一人が入り込めない程の距離感で食べていた。互いに笑顔を浮かべる頻度も多く、特に固かった嘗ての一喜と比較すると極端に笑みも柔らかい。
元より二人は別世界の人間。週二日しか来れないこの状況では二人に何が起きたのかを異世界の人間は解らず、行動に起こされれば止める術もない。
彼女の心配気な眼差しには愛情があった。それは微かで直ぐに消えてしまいそうな色で、彼は彼女の感情を瞳で読み取っては苦笑する。
我儘だったのは最初からだが、今では一喜限定で頻度が増えた。
彼が彼女の甘えを比較的受け止め、更に隠す必要が無いと何度も言い続けたからだ。
時には嘗ての望愛が必要になるだろう。けれど、それでも俺の前では常に素直になっても構わない。
その言葉は望愛が求め続けていたもので、嘘だと思えない真摯な目を見ては欲求を抑え込むことも難しかった。
「本音を言えば、今でも先輩を行かせたくはありません。 責任云々は抜きにして、私自身が行けば良いと考えています」
「……」
「ですが、それで実際に荒事になれば私が生き残れる確率は極めて低い。 メイドを護衛に連れて行ってもそれは一緒でしょう。 徹頭徹尾、怪物との戦いに関しては先輩に任せるしかありません」
「糸口」
「恥ずかしい限りです。 同じ力を持っていても、私が使うには制約が多い。 破ってしまえばどれだけ楽かと思って、でも破れば先輩にも迷惑が及ぶ。 ――本当に、申し訳ありません」
一喜の静止の声を望愛は無視した。
ただひたすらに己の本音を語り、如何に自分が枷まみれで未熟であるかを皆の前で語った。
彼女は、本人が望もうが望むまいが姫の如き存在である。
彼女を傷付ければ街の維持も難しくなり、そもそもの一喜自身の生活も困難を極めていく。
どれだけ訓練をしてみても、彼女が戦うことを良しとする人間は彼の世界では存在しない。守って、守り続けて、永遠に綺麗に咲く花であることを求め続けるのだ。
望愛がもっと自己中心的であればメイドの存在を無視しただろう。
愛情をくだらないモノとして捨てれば、兄の溺愛を塵屑と断じて己の道へ突き進んだ筈だ。
他者の悪感情が解るからこそ周囲の善も解ってしまう。
そして、元来が心優しい性格の望愛は善を裏切ることを良しとしない。
故に進めず、縛られる。それは今後も変わらない。
だから恥ずかしいし、情けないとも彼女は感じている。もしも過去に戻れたのなら、幼い自分に張り手の一発でも見舞っていた。
――そんな彼女の言葉を、世良や十黄は少々の驚愕を込めた目で見つめている。
彼女は異世界に居る間は冷静だった。何か起こっても余裕を保ち、メイド達を手足の如く使って自分は用意された紅茶を飲んでいた。
お嬢様。それは正に望愛の為の言葉で、既に絶滅寸前な者の姿でもある。
世良達ではどう足掻いても届かぬ高みに居る彼女に、特に世良は嫉妬心を抱いたりもしている。
彼女は汚れる必要が無い。自分と違って、そもそも戦うことを日常としなくとも簡単に人生を生きることが出来る。
願って止まない平穏が望愛の隣人であり、求めた人との距離が現状最も近い。
望愛とは世良が思う完璧だ。美貌も権力も手にしている女が愛する者とも仲が良いなど、一体どんなお話のヒロインだろうか。
これまで彼女はそう思っていた。これからもそう思うだろうと考えていた。
でも今、望愛は完璧の顔を完全に潰している。一人の女として無力を嘆く様はこの世界の人間と一緒で、歪み始めた相貌に嘘を感じさせない。
「……」
初めて、親近感を覚えた。
世界の壁を越えた共感が世良と十黄に齎される。彼女の余裕は、取り繕った面でもあるのだと唐突に理解した。
この顔こそが糸口・望愛。仮面を外し、虚飾の言葉を取っ払えば、後に残るのは一人の男を想う常識的な女の姿だった。
違和感は不思議と無い。寧ろ過去を思い返せば、完璧であろうとする姿こそに世良は違和感は覚えた。
これは真実が見えたこそか。もしくは女としての共感を抱いたからこそか。
どちらにせよ、世良には今の望愛の方が好ましく映っていたのは間違いない。
「……望愛」
そっと、彼は以前の生活の中限定で発していた彼女の名を呼ぶ。
普段と違う呼び方はまだぎこちなさがあるも、笑みを浮かべる彼と合わさって付き合いたての初々しいカップルを連想させる。
彼女は歪み始める顔を必死に戻して、次に発する彼の言葉を待った。それがきっと優しいだけの言葉じゃないと期待して。
「在り来たりだが、お前にはお前の仕事がある。 その仕事は他の奴には任せられなくて、俺が変わってやることも出来ない。 どれだけお前が苦しんでいても、その仕事から君を除くことは出来ないんだ」
望愛がやる会社は彼女が居てこそ成り立つ。
彼女が居なければ綱吉の手は借りられないし、メイド達だって社員として協力してくれることはないだろう。
新しい人間を探す暇も今は無い。よしんば代わりが居たとして、その人物が果たして信用に足る人間かを探る手間が出て来る。
それに彼女自身の能力も高い。交渉なんて一喜には殆ど経験は無く、あっても最終的には武力的な脅しで終わってしまっていた。
現代の社会ではそれは孤立の一途を辿るだけ。互いに良い落し所を探って嵌めていくのは今の一喜には不可能だ。
「大変なことだらけだろう。 倒れるまで働くことになる可能性は高い。 君はメイドが止めても動く人間だから、無理を重ねる回数も一回や二回じゃない筈だ。 ――――それを戦いと言わずして、なんて言うんだ」
望愛の仕事に直接的な戦闘は無い。
なら、職場で死人が出ないなんて話があるだろうか。これまで一度だって、様々な職場で人死にが出たと報道されたことも無かったか?
いいや、そんなことはない。どんな場所でも人は死ぬ。どれだけ安全だと謳っても、やはり死ぬ人間は出る。
戦いとは、直接的なものだけではない筈だ。武器を交えることだけが戦いなら、言葉の暴力はそもそも生まれない。
戦いとは生きることだ。
陳腐であるが、一つの真理として生きることそのものが戦いだ。
ならば彼女がしていることも戦いであり、その規模はこれから一喜が向かう先よりも大きくなるかもしれない。
一喜と望愛、どちらにとっても危険はある。どちらかが安全圏に居る訳ではなく、単に死ぬまでの時間が違うだけだ。
「お前はこれから戦うんだ。 一度逃げた場所に戻って、今度は前よりも厳しい状況で戦うんだ。 なら俺とそんなに変わらない」
「それは……ッ」
「変わらないんだ。 だから、俺が思うのはただ一つだけ」
カードを機械に通す。
変身音が鳴り、彼の姿が見慣れたメタルヴァンガードになる。背中のエンジンに火を点け、彼女の反論を封じるように最後の言葉を放って飛び去った。
『頑張れ』
強烈な風圧に皆が腕で顔を隠す中、望愛はそんな素振りも見せずに上へと顔を動かす。
頑張れ。
その言葉は今此処で生きている人間に対してあまり言ってはいけないもので、努力して生きている人間が聞けば罵倒を飛ばすような代物だった。
けれど、望愛には解る。これは期待で、応援だ。残酷であろうとも、彼の言葉には一つの愛が込められていた。




