【第二百三十四話】女の未来について
なんだこれは、と一喜は思わずにはいられなかった。
「どうですか?」
「うん? ……ああ、美味いよ」
「ッ、そうですか!」
窓の傍の壁にくっつける形で設置された机の上には普段はパソコンだけが置かれていた。
食べ物なんて五分十分もあれば食べ切るには十分で、ましてや数もコンビニ弁当一つくらい。
それが今、ノートパソコンが机の端に移動していた。広々となった机には二枚の白い楕円形の皿が置かれ、中に望愛手製のカレーが大盛に入っている。
一喜からすればカレーの量は問題無い。普段はもう少し抑えているが、それは何時でも動けるようにと備えていただけだ。
本当に何もしない日であればもっと食べられるくらいである。彼の身体の線は細いものの、食まではまったく細くなかった。
新たに椅子も一脚増え、そこには年下の少女が一喜の感想に素直な喜びを露にしていた。
普段から浮かべる微笑と比べれば幼い印象を齎し、見る人が見れば成人を通り過ぎた女性だとは思えないだろう。
彼女は室内からか、今は白いシャツに黒のショートパンツのみの恰好をしていた。
サイズを大きくすることでスタイルを隠しているが、そもそもからして男性の部屋に居るにしては薄着に過ぎる。
近年は女性への扱いも殊更慎重になっていた。男が女に対して馬鹿な真似をすれば社会的な死は避けられない。
如何に鈍感な一喜とて常識は捨ててはいなかった。
なるべく彼女の顔を見ることのみに努め、身体の生理的な反応を意志力のみで封印する。
襲い掛かった末路を想像して心底に湧き立つ熱を冷却し、普段通りに振る舞うことで自分は彼女に対して獣にはならないと言外に宣言していた。
望愛はそんな一喜の様子に内心では半目を向けるも、それもそうかと文句を言いそうになる口を噤んだ。
今は一喜のしている方が正しく、薄着である自分の方がおかしいのだ。勿論、おかしいと解った上で狙っていたのだが。
「普段から料理を?」
「いえ、実はそんなに出来る訳じゃないんです。 友達の家に居た頃に初めて料理を学んで、最初のうちは友達に叫ばれていました」
「……まぁ、お嬢様だしな」
「友達もそれなりに資産家の家系なんですけど」
「その友達は随分と珍しい趣味を持っているみたいだな」
料理の話をしていると過去を思い出したのか、望愛は天井に視線を向ける。
彼女にとって頼れる友人は、本当に富裕者層の中では真っ当だった。他者を蹴落とすでもなく、己に明確な芯を持ち、誰かの荷物になろうとすることを嫌っていた。
そのクセ頼られれば嫌な内容でもない限り手伝うのだから、実に人格者的な人間だったのだろう。
だからこそ望愛は頼った。頼って、そして友達から普通を知った。
所作をあまり気にする必要が無いことも、食べ物の質が彼女が知るよりも良いとは言い切れないことも、日々節制や仕事に苦心していることも。
半ば以上箱入りの娘だった己は普通の社会を知り、如何に自身が恵まれていることも自覚させられた。
数少ない絶望的な知識が正しかったと知った瞬間には不安を覚えたものだが、お蔭で心の強度は加速度的に増している。
音速的な速度で増した要因は異世界であるも、それまでの心身の成長には間違いなく友達の尽力があった。
故に、彼女は友達に恩を感じている。何時かはそれを返したいとも考えている。本人に言えば強く拒絶されるだろうが、それでも感謝は送りたいのだ。
「友達には随分と迷惑を掛けました。 機会があれば何か贈り物をあげたいのですが、今の私が近付いてよからぬ噂を立てたくはありません」
「話を聞く限りだと本人は気にしないだろうが……」
「こういう出来事に本人の意志はさほど重要ではないですからね」
彼女の今の境遇はかなり不安定だ。
一歩間違えれば破滅が待ち構えている以上、どうしたって迂闊な行動には出られない。
もしも望愛の友達に恩を返せるとなれば、それはもっと彼女の地盤が安定した時のみ。彼女が彼女として正面から全てを跳ね除けられる実力を有した時に、初めて望愛は富裕者達の前で堂々としていられるのだ。
――――なんで自分はこんなことを話しているのだろうか。
不意に冷静になった頭に、望愛は苦笑した。折角の時間を重いものにする気は無かったのに、自然と重苦しい話題が出て来てしまった。
空気を変える為に望愛はカレーを一気に食べる。一喜の前でなら絶対にしないであろう早食いの姿に彼は一瞬唖然とするも、望愛の心境を読んで自身も手早くスプーンを動かす。
そして全て食べ切った後、流し台に皿を置いた望愛は床に座り込んだ。
「あの……こういうのってどう思いますか?」
正座をして、望愛は晒した太腿を軽く叩く。
顔は一喜に向けられて、表情には少々の不安が混ざっている。
そんな様子に、彼女が何をしたいのかを一喜は察した。察してしまった。察するより他になかった。
今日の望愛が疑似的な恋愛生活を求めていることは理解している。そして余程無理でなければ受けると言った手前、彼は了承することを認めていた。
だとしても、いきなりのコレには躊躇を覚えざるを得ない。例え空気を変える目的であったとしてもだ。
「……一般的に男にとっては夢みたいな状況だな」
「一喜さんは?」
「俺は一般的な野郎だよ、望愛」
そろそろと椅子から床に移動して、静かに一喜は自身の頭を望愛の太腿に乗せた。
見下ろす望愛と視線を合わせれば、彼女の頬は酷く赤い。羞恥で染めていることは確実で、しかし一喜は今の彼女を弄る余裕は無かった。
己の人生経験の中で女性と親身になったことはない。仕事の際は誰もが職務を優先していて、少しでも遊びが出ている社員は皆の敵になっていた。
まだまだ一喜の年齢は若い方だ。本当であれば遊ぶことに意識が傾くのが自然である。真面目であることだけが人間の美徳ではないのだから、もっと遊びに精を出していればあるいは女性と付き合う未来もあったかもしれない。
視線を絡め合う両者に会話は無かった。
ただ、望愛は壊れ物を扱うかの如く彼の頭を撫でる。静かで音も出ない程ゆっくりとした動作は、真実慈しみに溢れていた。
愛情があればそれだけで他者を特別だと認識することが出来る。どんな相手にも抱ける可能性があって、反対にどんな相手にも抱けない可能性もある。
望愛にとって愛情とはよく解らないものであり、しかして不可侵の神聖的存在でもあった。
自分は誰かに対して愛を抱けるだろうか。いいや、愛し合うことが出来るだろうか。
一方的なモノは愛ではない、とは認識している。
執着も独占も過ぎれば毒であり、一喜に迷惑を与えるだけだ。けれども彼女は実に独占欲旺盛な女性に成長してしまった。
まだ彼の全てを把握して支配しようとまでは至っていないが、不安が増せばいつかそうなってしまうかもしれない。
彼に嫌われるのは駄目だ。嫌われてしまったら、もうどう生きて良いのかも解らない。
将来がこんなにも不安になることはなかった。自分一人だけだったから、自分のことだけを考えていればそれで良かったのだ。
彼女は多くと知り合った。
大切な人に出会い、部下と出会い、見知らぬ誰かと知り合いとなり、今後は組織の長になることも決まっている。
少し前であれば考えられなかった未来を彼女は迎えた。孤独に死んでいくような人生とは無縁の、けれど決して楽しいだけではない未来を。
辛いことや苦しいことを経験して人は成長すると言うが、彼女はこの年になって初めて先人の語る言葉の意味を理解した。
理解して、故に。
「あ」
「……」
彼から伸びた手が自身の頬を撫でる感触を、とても尊いのだと感じることが出来たのだった。




