【第二百三十三】男と女の疑似生活
一喜もそうだが、望愛は基本的に週末を除いて長時間共に居ることはない。
彼等は恋人ではないし家族でもないのだから変な距離感を持たないようにしているのだ。
中途半端に離れれば意志疎通が破綻し、近ければ望愛が望む恋人関係ではなく兄妹的なものになってしまう。
特に近過ぎる関係に恋愛が絡んでいないことを望愛は嫌い、結果的に二人が出会って何かをする際には異世界を絡めることが多かった。
此方の日常に関する部分は短く、異世界関係を長く。
そういったある種の仕事仲間のような関係性は適切な距離感の構築に大いに役立ち、望愛が彼を呼ぶ都合の良い口実にもなっている。
しかし、そもそも望愛が望むのは一喜との恋愛関係だ。
上司と部下の間柄でもなければ、親友の間柄になりたい訳でもない。純粋な女として好いた異性と付き合いたいし、最終的にはゴールインを果たしたいのである。
少し前までであれば一喜が周りと深い付き合いをしようとしなかったことで仲の進展も起き難くなっていた。
その期間は望愛にとって黒歴史も黒歴史なものだが、同時に仲を深めない意味では安定している。
世良との付き合いも恩を与えた側と受けた側で纏まっていた。子供達は彼を好いてはいたようだが、まだまだ恋愛を知るには幼過ぎる。
あのままが続けば結局は仕事仲間が限界だっただろう。けれどもと、望愛の中にある明確な焦りが囁く。
今、彼は変わった。不信を捨て、新たに引いた線はこれまでよりも他者を受け入れる要素を取り入れていた。
自身が裏切られず、彼が好ましいと感じる人間を害さなければ、時間の経過と共に一喜は相手を受け入れていく。
それが同性である十黄や立道であれば熱き友情とでも言うべき結果に落着するだろうが、世良のような女性であれば惚れても不思議は無い。
というか、下地自体は既に出来ている。一喜を真の頂点として据えた組織は彼を特に尊敬するよう仕向けていた。
何故か新興宗教みたいな様になったのは予想の外であるものの、彼に好意的な人間が増えた事実は良い事である。
だが、彼を見る女性陣の目は日に日に怪しさを帯び始めた。
あの世界は非常に原始的な欲求を発露させやすい。律する法も最近まで機能していなかったことも鑑みると、どうしても理性的な女性が最後までそのままでいるのも難しくなる。
力が正義であるように。男がハーレムを作ることもあって、逆のパターンもある。
もしもこの世界の女が良い男の共有を良しとしていれば、何れ一喜に向かって彼女達は一斉に襲い掛かるだろう。性的な意味で。
「…………」
知らず、包丁を握る手が強まる。
彼女の眼前にある真っ赤な肉を切る腕が止まり、全身から怖気の走る気配が溢れ出す。
真白のエプロンは今の彼女にはあまりにもミスマッチだった。
瞳の光は消え、今にも彼女は包丁を肉へと突き刺したくなる衝動に駆られる。
一喜に惚れる人間が出て来るのは仕方が無い。それ自体は寧ろ望愛にとって当然の話である。
悪を嫌い、善を願い、その為に行動を起こせる人間を嫌う者は少ない。
心無い者の発言にも心折れる様子も無く、毅然と立つ姿はいっそ英雄的ですらあった。
強い人なのだ、根本的に。
彼には不信を抱く過去があったのだろう。これまでの言動から察するに、社会的なあれこれが関係していることは間違いない。
その上で彼は犯罪にも復讐にも走らなかった。絶望をそのままにただ静かに生きることを決め、一般的にあまり評価されないコンビニバイトの道を選んだ。
何も起きなければ彼はそのままの道を進んだことだろう。そして、何者にもなれずに孤独に死んでいった筈だ。
望愛も彼には興味なんて抱かず、トラブルがあっても率先して助けてはくれなかったかもしれない。
誰にも頼らず、そして誰も助けない。己の平穏のみを求める姿勢は人によっては自己中だと非難されるかもしれないが、彼は無意識の内に理解していた。
爆発すれば自身はどうなるか解らない。異世界の出来事によって彼は起爆を果たしたものの、現実で爆発を起こした場合は予想が難しい。
トラブル相手と暴力沙汰になるくらいなら優しいだろうし、計画的に罠に嵌めて地獄に落とせたのであれば良い爆発の仕方だ。
さりとて、それは反対に人を殺して警察に逮捕される可能性もあった。もっと言えば、抑え込んでいた不満が溢れ出ることで社会に対する大規模犯罪を計画する未来も有り得た。
強い人間は歩き出した道一つで容易に人生を踏み外せる。
彼が彼のままでいられた現状は、正しく奇跡なのだ。希望の光なのだ。
ならば、その光に虫が引き寄せられてしまうのも現実。望もうが望むまいが、それは避けようが無い結果なのである。
――――だが、そんな奴等が触れて良いとでも言うのか?
「…………」
止まっていた腕が動く。
メイドや沢田に教え込まれた通りの手順で肉は綺麗に切られ、古いガスコンロの上には沸騰する水の入った鍋が一つ置かれている。
安アパート特有のステレンスの台の上には大小に切られた野菜がボウル毎に積まれ、今から煮られる瞬間を待ち受けていた。
彼女が今日作るのはカレーだ。料理経験があまり深くない彼女でも作れる、男が喜ぶ料理の一つである。
彼女は一喜の部屋に行った時、何をするのかを既に決めていた。
少し離れた机から聞こえるパソコンのタイピング音。望愛やメイドが出入りするようになって整理された室内には、新しく購入した折り畳み式の椅子が机の前に置かれている。
メイドの姿は無い。此処は一喜の部屋で、望愛は此処で彼の為に料理を作っていた。
今日の仕事時間は夕方からだ。なので午前中から準備を進め、昼に完成するように今正に作業している。
一喜は手を出すことを許されていない。徹頭徹尾全てを望愛が行い、彼に旨いと言わせるのが彼女の一つ目の目的だ。
異世界では彼は他の皆と同じ物を食べている。彼だけが良い物を食べていると不満を抱かせない為だ。
今の拠点の人間にそのような不満を口する者は居ないと思うが、それでも念には念を入れての平行性のアピールである。
怪しい女の中には手料理を作って彼に渡したがる者も居たが、当然大事な男に料理を手渡す権利など与えない。
するのは望愛か、上役の誰かだけだ。故に女達と一喜の接点はさして多くはなかった。
それで良いと思うし、そうでなければならない。
崇拝するのなら遠くから眺めているだけにしろ。恋は恋のままで終わりにしろ。
愛するな、認知されたがるな、彼の時間を奪おうとするな。
彼が恋愛をする相手は己のみ。他の有象無象との恋愛など、断じて認める気など無い。
「……できた」
時間が経過し、ルーの良い匂いを漂わせながらカレーは完成を迎えた。
その頃には時間も昼を示して、彼の腹も空腹を訴え始めている。ずっと続けていた作業を彼は途中で終わらせ、鍋を持って姿を現す望愛に顔を向けた。
彼の表情はなんとも言えないものだ。
歓迎しているようでも、そうでもないように見える。料理が来たこと自体は喜ばしく感じているようだが、それはそれとして今日の望愛との接し方に多少の躊躇いを感じているようだった。
だから、望愛は満面の笑みを彼に向ける。これが二つ目の目的で、真の要求は此方だと言わんばかりに。
「持ってきましたよ、一喜さん」
「あ、ああ――待ってたよ、望愛」
望愛は普段の先輩呼びを消しての名前呼び。
一喜は一喜で普段よりも甘さのある名前呼び。
そう、今日は一つの疑似再現。家族という、結婚後の生活を再現したものを望愛は一喜に仕掛けたのだった。




