【第二百二十八話】老人と孫
如何に老人が老人としての姿を保っていたとしても、その精神は既に完全な怪物と化していた。
強く、欲深く、そして邪悪。人を殺すことに何の痛痒も覚えぬ様は世界大戦でもあれば重宝されていたことだろう。
一喜との間に結ばれた約束も所詮は口頭によるものであり、ただの人間であってもそんな約束は容易く破られる。故に、先の一喜と老人の約束は誰に対しても安心を齎すものではなかった。
安心を覚えた瞬間に襲われるかもしれない。或いは、沖縄に向かう道中か滞在中に襲われるかもしれない。
どちらにせよ襲撃は確実だと考え――――一喜以外の面々は眼前で酒を浴びるように飲む老人に警戒の眼差しを送った。
「かー、うめぇ! 随分昔に飲んだ奴とそっくりだ!!」
「だろうな。 これは文明が崩壊する前の代物だ」
一喜と老人は約束が終わった直後、その場で向かい合う形で床に座った。
服が汚れるのも厭わずに老人は自分は客人だぞと騒ぎ始め、一喜は呆れた溜息を零しながら適当な飲み物と飯を世良達に頼んだ。
突発的な状況判断に皆の思考はまるで追い付いてはいない。だが老人の急かす声でメイドの何人かは肩を跳ねさせながら大慌てで食事を取りに向かい、こうして現在の状況が出来上がったのである。
老人の表情は喜びに満ち溢れていた。誰かと戦うことを決めた時の残忍な笑みとは異なり、本当にただの老人の如き笑顔で喜んでいる。
「お前さんが別の世界の奴ってことはボスから聞いている。 だからなんかあるかとちょっと期待したが、まさかこんなのがあるとはな! 最高だ!!」
「欲しいなら仲間になれよ。 そうすりゃ樽でくれてやる」
「なに!? それは本当か!!」
用意された食事は全て酒のつまみになるような缶詰だった。
鯖に、火を通した焼き鳥に、味を変える用の調味料を幾つか。流石に夕飯の時間とまではなっていない現状、本格的な料理を出すのは難しいのでこうなったが、それでも老人は酒一つで飛び上がらんばかりの歓喜に支配されていた。
半ば冗談の如く放った一喜の提案にも過剰なまでに乗り気で、言った側が逆に呆気に取られる始末。誰がどう見ようとも飲兵衛気質だった。
「こいつが飲めるなら何でも話を聞いてやりたい! ……だがなぁ、しかしなぁ、やはり戦いもしたいのだ。 どうにかならんか?」
「いや、俺にメリットが無いから」
片手を左右に振って否を突き付ける彼に老人はだよなぁと喜びとは一転して項垂れた。
アップとダウンの差が激し過ぎる。
最早子供かと世良はツッコみたくなるのを抑え、この場の理解に頭を回す。
最後の一瞬、老人は素を露にした。温厚な化けの皮が剝がれ、怪物としての本性を表に引っ張り出された。
その時点で戦闘の一つでも起きて不思議ではなかったが、二人の間に戦いの気配はまったくとない。両者共に相手の一挙一動に視線を向けていればまだ緊張を感じ取れたものの、彼女が見る限りにおいて二人は気にしていない。
飲み屋で偶々仲良くなった者同士が卓を囲んでいる。
あの二人の状況を表すとすればこれが最適だ。しかし、前提を知っている者からすれば卓を囲んでいること自体が異常極まる。
まさか、素直に老人は約束を守ろうとしているのか。
正に予想外の展開。誰もが有り得ないと思いたくなる出来事が今此処で起きている。
「うーむ……――メリットを寄越せと言うなら、お前に良い話を一つくれてやろう」
「……なんだ?」
飲み干した缶ビールは既に十本を超えていた。
手は酒の肴を割り箸で取る以外は常にビールに伸び、飲み干された缶は簡単に拉げられた。あの分では直ぐに酒も無くなるだろうと望愛は状況を見守りつつメイドに指示を下し、良い話に耳を傾ける。
望愛の頭は既に元に戻っていた。先程の忘れていた情報に関する羞恥を含め、一旦は頭の隅に寄せることで冷静さを再構築したのだ。
頭が回れば、彼女の頭脳で一喜がしていることも解る。
老人は実に素直だった。およそ現代社会では通用するとは言い難い程に。
感情豊かに一喜に接し、隠し事をしている様子は老人には無い。いやそもそも、老人は自身の基準に達する人間相手には友好的であろうとしている。
それが何れ殺し合いになると解っていながら、寧ろ僅かな関係で終わってしまうからこそ最後の晩餐は明るくしたがっていた。
それはきっと老人という年代特有の先の短さに対する思想であり、数少ない好敵手に向けた最大限の賛辞の送り方だ。
自分は隠さない。信じられぬなら、腹を掻っ捌いてでも真を見せよう。
怪物特有の後ろ向きな意志は老人には無い。老人が見ているのは今で、そして未来だけだ。
「最近、というには少し前になるか。 此処の連中の一部が実に面白いことを企んでいた」
「……面白いこと?」
「資源の独占だ。 覚えはある筈だが」
老人の語りには覚えがあった。
彼等には既に前という認識だが、一部の住民が使える品物を勝手に集めては隠していた。彼等は一喜達に対して資源を用いて権利を手にしようとしていたものの、他の多くの人間の前で脅したことで活動は完全に停止した筈だった。
しかし、老人が面白いと言うからには停止してはいないのだろう。あの時点から明確に大きな事を起こしてはおらず、監視の目から見ても大人しくしていると判断されていた筈だが、彼等は臆病な程の慎重さで這い回っていたようだ。
「あれの指示をしていたのは俺だ」
「……そういや、近くに住んでいるんだったな」
酒を飲んでいた老人は豪快に笑い、後頭部を掻きながら一喜に告げる。
唐突な黒幕発言に一喜も一瞬だけ言葉に詰まったが、近くに住んでいたことを思い出して納得した。
「いやぁ、噂になっているお前達が期待通りの奴かとちょっかいを出してみてな。 ま、結果は無惨なものよ。 下手人は揃って小物で骨が無い。 お前がちょいと小突けば途端に崩れるだろうな」
「そうか。 解っていたことではあるが――――で、次もやるのか?」
「やらんやらん」
老人は小物達にまったくと熱を上げていなかった。自分が始めたことであるのに、最早小物達に意識を向けることすら億劫なのだろう。
やる気が無くなれば、老人にとっては路傍の石も同然。成功しようが失敗しようが関係無く、こうして情報を与えるのも時間を掛けてほしくないからだ。
馬鹿に時間をかけては老人には堪らない。価値のある待機時間であったなら兎も角、小物を探して成長など望むべくもない。
ひらひらと手を振る老人に罪悪感は無かった。この件でどれだけ多くの人間が迷惑を被ったとて、老人は手間が省けた程度にしか思わない。
「散らかしたなら後片付けもしてくれよ。 子供じゃないんだから」
「えー、儂面倒」
「急に爺っぽさを出すな」
解決を押し付ける気なのは明らかだった。
ふざけた調子で頼み、自分で動く気はさらさらないのだろう。この自由奔放な様は実に害悪めいている。
しかして老人はボケ老人にランクダウンを果たしていない。ならば、少し前までの話を忘れることも有り得ない。
「協力」
二字を呟き、老人は快活な笑みが固まった。
表情は花が萎むように暗くなっていき、終いには握っていた缶をコンクリートの上に置いてしまった。
じろりと老人の目が一喜に向く。不満をありありと込めた眼差しは一般人には恐怖そのものだが、一喜にはただの拗ねた駄々っ子だ。
「約束は約束。 守れないなら折角決めた我慢も無駄になるが……」
「っく、貴様ッ」
約束の内容は物騒どころか命の危機だが、この瞬間だけは何故かほのぼのとしていた。
まるで孫と祖父。敵同士の柵はそこには無く、間違いなく世界で初めての光景がとあるビルの屋上で繰り広げられていたのである。




