【第二百十二話】男、信じるべき時
「状態はどうですか?」
陽が昇った頃、看護師や医師が本格的に仕事を始める音を一喜は遠くに聞いていた。
彼の部屋の周囲は静かそのもので、それが普通ではないのは明らかだ。
意図的に静けさを作り出し、職務遂行以外では雑談の声すらも無い。それ故か、個室のドアを叩く音が嫌によく響く。
いや、それを嫌にと感じたのは彼が根源的な不安を覚えていたからか。
脳裏を過る数多の罵倒を意識的に無視しながら、彼は引き攣った声のままどうぞとだけ告げた。
果たして室内に入ったのは――――望愛ではなく沢田だった。
彼女はスーツ姿で片手にレジ袋を持っている。上で纏めた黒髪は艶やかな光を放ち、しかし目元には隠しようがない隈が見て取れた。
彼女なりに身形を整えたのだろうが、それでも疲労が隠してくれたなかったのだろう。
そこまで急がせたのは間違いなく一喜が原因であり、そうであるからこそこれからの未来を彼は余計に重苦しく感じた。
沢田は備え付けの椅子をベッドの横に持って行き、傍の小さな貴重品ボックスの上にレジ袋を置く。置かれた品は存外多いのか、僅かに鈍い音を立てた。
その音を聞きつつ、彼は一度も逸らさなかった視線に向き合い続ける。
ぱっと見る限り、沢田は起こっている素振りを見せていない。無言で無表情ではあるが、猛る程に冷静さを失っているようにも見受けられない。
最初の一言目にも荒々しさは無かった。感情も乗ってはいなかったが。
「……極度の疲労だ。 休んでいれば自然に治る」
「そうですか、それなら重畳です」
短い問いに彼もまた短く答えた。
それを聞き、沢田は漸く感情的に溜息を零した。
「言いたいことはありますが、その前にこの時間まで何があったのかを説明します。 同時にこの後の予定も」
「頼む。 何の問題も起きてないと良いんだが」
彼の希望的観測の含んだ言葉に沢田は答えない。
無視した上で彼女が語るのは、当然と呼ぶべきこれまでの状況だ。
此処は望愛の実家が多額の投資をしている病院であり、糸口家の人間であれば誰であれ特別待遇を受けることが出来る。
一喜は身内ではないものの、望愛の友人であることと彼女の兄である綱吉からもお願いをされたことで特別待遇を受けることになった。
入院が決定された時点で綱吉以外の関係者にはぼかした理由で彼が現在入院していることを知らされている。
コンビニの店長やオーナー達は何の含みも持たずに彼を心配し、無事に復帰するまで有給扱いにして良いと休ませることを決めてくれた。
幸いと呼ぶべきか、彼は一度も有給を消化したことがない。このまま復帰するまで休んでも次の給料には響かないだろう。
その事実に彼は内心安堵した。人間、どれだけ高尚であろうとしても金が要る。
何時自分の金が異世界で更に求められるかも解らぬ状況で金が減るのは避けたかったが、何とかなったのは素直に有難いことだ。
店長やオーナーには感謝と共に何か渡すことを誓い、そのまま話は異世界についてに移る。
「望愛様達と共に一喜様を入院させた後、あの方は直ぐに異世界に戻ってオールドベースの部隊を帰しました」
「こんな状況だ、滞在させてもメリットなんてないしな」
「メリットが無いのはそうですが、やはり貴方が知らない状況で動くことを私達は避けました」
口外を禁止し、更には脅迫も欠かさずに。
望愛は戻ってきた直後に彼等に恐怖と不安を与えたが、中身を知っている源次達からすればそこまでの恐ろしさはない。
相手方には伝わらないことを望むものの、これは恐らく無理だろうと一喜と沢田は同様の結論に至っている。
そして、主戦力を喪失した状態で連中がどう動くのかも明らかだ。
未だ望愛という抑止力が居るには居る。彼女であれば人を撃つことに躊躇いを抱くこともない。
が、彼女には圧倒的なまでに経験値が不足している。それも危機的状況に陥った段階からの逆転の経験だ。
模擬戦で一喜が望愛にそれを教え込むことは出来る。
しかしそれは実戦ではない。十割死ぬとは言えない状況では望愛も本気の危機を抱くとは考え難く、やはり彼女にも実戦を経験してもらうしかないだろう。
一応、それを避ける別の手段もある。望愛ではなく異世界の人間に道具を与えてやれば、週二日しかいない状況も改善される。
「一喜様の状態は既に医師より聞いております。 帰宅して以降も暫くは着装そのものは避け、拠点の拡充に力を入れるべきだと私は思います」
「……」
沢田の意見には一喜も同感だ。
本業は完全に停止させ、異世界でも激しく動くことはすべきではない。
かといって何もしないのは一喜には出来ず、さてそうなれば拠点をより便利にさせていくことに集中させた方が都合が良い。
沢田は戦力の増強を望まなかった。この状況で強化を望まないのは違和感があるが、一喜には沢田の配慮が解っている。
望愛も含め、着装した二人は揃って次を求めなかった。危険を口にし、教える気がないことを二人は常に態度で示している。
彼であれば反抗の意志がある沢田達も、望愛がそうであればやることはない。
実際、メイド達の誰しもが直接道具を用意してカードを異世界で装填することはなかった。
「午後にはお嬢様と綱吉様がいらっしゃいます。 より具体的なお話はその時にするでしょう」
「――ああ、解ってる」
「であれば、どうか今度は感謝を忘れずに。 強く言う気はありませんが、ここまで迅速に場が落ち着いているのは誰のお蔭かは明確ですので」
初めて、沢田の口から棘の混ざる言葉が出た。
それは彼女がこれまで我慢していたことで、今正に彼が弱い立場に居るからこそ吐ける不満だ。
彼自身も言いたいことは解っているし、この待遇を当然だと受け取る程に傲慢なつもりはない。
首肯で示し、感謝を彼女達に告げることを彼は沢田に約束した。
沢田はそれを聞いて幾分か明るい顔を浮かべるも、直ぐに表情を引き結んで簡単な挨拶の後に退出していく。
再度静かになった空間で彼は天井に目を移す。
脳裏に浮かぶのは、望愛との様々な過去。始めの頃は元気な娘だと思い、自分とは一切関りの無い人生を歩んでいくだろうと決めていた。
容姿が違って、能力自体も優秀で、蓋を開ければ身分も大きな開きがある。
そんなことはないと望愛であれば答えるだろうが、客観的な事実のみを列挙すれば彼と彼女は本来関わり合いになる要素が欠片も無いのだ。
それでも、現実は違った。関わり合いとなり、彼女はどうにも一喜という存在に過剰と呼ぶ程の期待を寄せている。
それはこれまでも、これからも続いていくことだろう。彼が余程の悪党にでもなれば話は違うだろうが、そうはなれないことを彼も彼女も確信している。
――そろそろ、区別は付けるべきではないか。
内心の別の自分が彼に囁く。それは心のある、打算の無い最も純粋な彼の言葉だった。
望愛に嘘は無い。彼とその他で解り易い程に線引きをし、一喜自身に多くを望みはしなかった。
綱吉を巻き込んだ事も彼を想ったからであり、でなくばメイド隊によって今頃は一喜の身柄は拘束されていた筈だ。
信じるべき者を信じる段階に彼は既に着いてしまった。日頃から誰も信じないと考えてはいても、託せる他者を用意せねばもう異世界では暮らせない。
今踏み出せぬなら、きっと未来でも踏み出せはしないだろう。ならば、今こそが決断すべき時だ。
真剣な面持ちで彼は天井を見つめ続けた。その胸に一つの覚悟を灯して。
やがて午前が過ぎ、午後になる。静まり返った病院の廊下で足音が鳴り、一喜の耳は素早く音を聞き取る。
ノックが鳴った。どうぞと口にすると、引き戸のドアがゆっくり開かれる。
現れたのは二人。私服姿の男女を視界に収め、彼の口は真一文字に引き結ばれた。




