【第二百十一話】目覚める男、未来に嘆く
「う……」
白い病室。
リノリウムの床に光の消えた蛍光灯。ベッドは白く清潔感を持ち、内部には彼一人だけが青い病院着を着せられて横になっている。
深夜の静かな時間の中、室内で鳴るのは無機質な電子音だけ。看護師は既に見回りを終えた為に人影は無く、連絡を送る手段はナースコール一つしかない。
そんな中であるからか、彼の声は空間によく響いた。
喪失した意識を取り戻していき、彼の無意識が最初に動かしたのは先ず瞼だ。震える瞼はゆっくりと開かれ、ハイライトの無い瞳が外に露出する。
目覚めた直後は思考の回転も上手くいっていない。その為か自分が何を見ているのかも理解が及ばず、そもそもどうして自分が横になっているのかも彼には理解出来ていない。
ただ、頭を占有するのは起きろという三文字のみ。
起きて、動き出せと急かす肉体は自然と手足の神経に意識を巡らせた。
痛みは無い。手も足も違和感無く動き、試しにと動かせば拘束されている感触も無い。
上半身が持ち上がり、その場で胡坐を掻いた。
室内はエアコンの影響で一定に保たれている。お蔭で寝汗自体はあるものの、一度シャワーにでも入れば不快感も消えて快適な生活を送れるだろう。
他に異常があるとすれば、喉の渇きだ。寝ている間が長かった影響か喉は水分を欲しているようで、彼の目は周囲へと自動的に動き出した。
「何も……」
見えない。
言葉は最後まで続かず、途中で咳き込む。
照明の一つも無い室内では世界は暗闇に閉ざされている。唯一の光源は入り口ドアから差し込む廊下の僅かな光であり、それがなければ自身の手が何処にあるのかもしっかりとは解らなかった。
無言のまま辺りを見渡した彼は、漸く回転を始めた頭で思考を巡らせる。
此処が病院であるのは室内の備品を見れば明らかだ。設置されている機械達も一般の宿泊施設には存在しない物であり、これで病院でなかったとすれば実験場と想像するしかない。
とはいえ、あの世界の拠点に病院は無い。あったとしても設備は少なく、室内も清潔に保たれてはいなかっただろう。
ベッドの横にはカーテンで閉じられた窓がある。
そっと白いカーテンを横にズラして外を見れば、やはりというべきか一般的な街並みが確認することが出来た。
であるならば、己は無事に帰れたのだ。望愛の手によって。
意識を失う少し前に聞こえた砲弾が着弾するような音。それが誰かを彼は半ば確信していたが、しかし冷静に考えてみれば必ずしも望愛だったと断定出来る情報は揃っていなかった。
あの場所は随分派手な有様となっていた筈だ。他もそうなっていたことは想像するに易く、ならば更なる怪物の到来がある可能性も十分にあった。
そんな中で、一喜は望愛が来てくれたのだと確信していたのだ。あれだけ信じていないのだと心の内で言っておいて。
酷い奴だと彼は自嘲を心中に零し、それでも直ぐに気を取り直して枕元に置いてあるナースコールのボタンを押した。
自分が今どんな環境にあるのか。これを知っておかねば次の動きも考えられない。
看護師が来るまでには一分も掛からなかった。外から早歩きでドアを開けた看護師は若い女性であり、彼女は渾身の愛想笑いを浮かべて彼へと近寄る。
「おはようございます。 何か異常がありますか?」
「いえ……聞きたいことがあるんですが……その前に何か飲む物でもありますか?」
「ええ、はい、勿論。 直ぐにご用意致しますね」
看護師は一度廊下に出て、そして直ぐに一本の水を彼に差し出した。
受け取った水は一般的なペットボトルの物。病院特有の専用品ではなく、キャップを回して彼は一気に水を体内に流し込む。
肉体は水を大いに求めていた。僅かに中に入った次の瞬間には貪欲に水を欲し、最後には大部分がペットボトルから消えている。
喉が潤ったことで何度か言葉を発してみるが、特に大きな問題は無い。
なら後は体調面だけだ。疲労感はまったく無いとは言えないものの、元の酷過ぎる状態を知っている所為で何処まで安全なラインに戻れたのか解らない。
「ありがとうございます。 ……それで、私はどれくらい寝ていましたか?」
「今日で四日目です。 肉体が極度の疲労状態に陥り、お医者様の言葉ではこの状態で仕事をすれば過労死になっていたかもしれないと言わていました」
「……」
看護師の口から飛び出た質問の答えは、彼でなくとも絶句するような内容だ。
まず今日で四日も寝ていたこと。人間の睡眠時間は環境によって変わるとはいえ、早々一日以上も寝ることはない。
気絶する程に仕事をしていたとしても、十時間程が限度と見るべきだ。
それを超過するとなれば、肉体の修復作業に多大な体力を投入された場合くらいしか彼には考えられない。
だが、彼にはそうなるに至る節が確かに存在していた。
思い出すのは対砲と対戦艦との間に起きたあれこれ。無理を押しての戦いをした代価として奪われた体力を思えば、既に死んでいたとしても不思議はない。
それでも死なないでいられたのは、クイーンの影響が強くある。
「疲労は解りました。 他に怪我や病気はありましたか?」
「いえ、他にはありません。 ですが身体が強く休息を欲していますので、後三日程は入院をしていただきます」
「それは……そんなに酷いのですか?」
クイーンの力で負傷は無くなっている。後遺症も確認されなかったのであれば、やはり肉体の過労だけが一喜の問題だ。
だが、彼としては疲れているだけなら入院はやり過ぎだと思っている。
寝ているだけで治るのならば病院の世話になる必要は無いし、本音を語るのであればさっさと自宅に帰りたい。
しかし、看護師は首を左右に振った。彼の質問に看護師の目は呆れたように細められ、その姿は自身を叱る教師のようだ。
「過労状態が長く続けば数多くの不調が襲い掛かります。 自覚していなくとも貴方は今もその状況から脱してはいません。 私はお医者様ではないので具体的に診断を下すことは出来ませんが、目覚めたばかりの状態で直ぐに退院をお勧めすることはまずないでしょう」
「……解りました。 申し訳ございません」
看護師の話は一喜の記憶にもあった。
無理をすれば肉体の免疫機能が著しく低下する。そこから発生する感染症で苦しむこともあれば、心不全や酷い炎症で地獄を見ることもあるだろう。
彼の中ではもう動けると思っているが、別に一喜は医者ではない。休まねばならないと医療従事者に言われたのであれば、ここは素直に休むのが一番だ。
そんな思いで一喜は真摯に謝った。看護師もまた、一喜の謝罪でこれ以上の注意を口にすることは抑えた。
場には静かな沈黙が広がり、言葉にすることが出来ない気まずさが漂う。
どちらも共に困ったような表情となり、ならばと方向転換も兼ねて彼が次に聞きたいことを口にする。
「では、一体誰が俺を此処まで運んだのでしょうか」
「此処には救急搬送で来られました。 御呼びしたのは……糸口・望愛お嬢様です」
看護師は一瞬、言葉を止めた。
だが、彼女は意味も無いのに声を潜めて続きを口にする。その声音に多くの畏怖が込められているのは明らかであり、同時に彼は覚った。
此処は間違いなく、彼女の実家が関与している施設であることを。
そして、望愛であれば彼が此処に居ることを多くの人間に伝えていることを。
今はまだ誰しもが寝静まる夜だった。訪れる客も居らず、聞き耳を立てる第三者もまたいない。
彼は周囲に視線を巡らせる。
此処が個室である理由。その意味を想像して、陽が昇ることを彼はどうしても恨まずにはいられなかった。




