【第二百九話】老人の持論
「俺にとって、言葉とはあまり興味の無い部類のもの」
老人は言葉を選びつつ、伝わるように彼女に告げた。
「古来より人は言葉を交わすことで関係を構築したと言われているが、言葉によって関係が悪化した例も枚挙に暇がない。 それは解るじゃろう?」
『ええ、よく』
「うむ。 俺も人間だった頃、可能な限り友好的であることを目指した。 そうすることが関係を円滑に進むと信じていたし、ある時点までは実際にそうではあった。 だから会話そのものを否定する気は俺にはない。 けれども、な」
言って、老人は過去を思い返して疲れる息を吐く。
「どんなに会話をしても、どんなに気配りをしてみせても、根本の人間性が合わなければ争いは避けられない。 それが口論であろうが喧嘩であろうが、納得することの出来ない両者には最早関係を構築する意義が無いのだ」
老人の語る言葉は、他のどんな人間であっても思い当たる事の多い話だった。
人は己の生きた環境を通して他者を見る。幸せだった者は幸福を奪う者を嫌悪し、幸福でなかった者は幸福な者を嫌悪するのだ。
これは単純な例だが、聖人であろうと人格者であろうと人と人が接する限りにおいて敵対者は必ず出現する。
そこで互いに歩み寄れることが出来ればまた違う道を歩けるのだろうが、そんなことにならないのが世の常。
嫌悪した関係はそのままに悪化を辿り、やがては行き着く場所まで行き着く。
「俺は理解した。 俺は納得をした。 どんな風に振る舞ったとて、一定数の敵対者は必ず湧く。 そんな気は無かったとどれだけ語ったとて、相手からすればそんなものは関係無い。 既にお前は敵対者。 ならばお前の話を聞く必要が何処にある」
探せば、或いは話を聞いてもらえる者も居ただろう。
そしてどちらが悪いかを明確化し、お互いが納得する形での終りを迎えることも出来たかもしれない。
けれど、人は大体において自分が悪いと認めたくないものだ。何処からどう見ても自分が悪いと解っていても、それでも何とか責任の矛先を逸らそうとする。
老人はそれを見た。そして体験もした。故に人の根底にあるのは悪性であり、言葉を交わすことは元来非効率的なのだと覚っている。
肌の合う人間同士で組み、合わぬ者とは言葉を交わさず、争いになれば剣を抜くのみ。
「お前は人の中身を理解することが出来る。 他の阿呆のように無意味な反逆や服従をせず、己の頭で選ぶべき道を定めている。 ――道を決めている奴は大体が厄介なくらい強いもんだ」
がっはっはっはと老人は呵々大笑と笑い声を発する。
軟弱な人間になど最早老人は一部も構いたくはない。語るべき相手は強者のみ。弱き者に差し伸べる手は老人には無く、伸ばされれば彼はその手に剣を突き刺すだろう。
そして、この老人は弱い人物に強くなることを願っていない。
実力そのものを物差しにしている訳でもない。彼が話をしようと思う基準は、一重に思想にどれだけ純粋でいられるか。
『存外、狂っているのね』
「かはッ、何言ってやがる」
――バケモンに正気を求めんなよ。
老人の目は赤かった。血のように純粋な赤は無数の光を反射した宝石のようで、しかし間違っても美しいとは思えぬ輝きだ。
あれは誰かの血、誰かの命、誰かの想い。殺していった無数の名の知らぬ誰かの意志が老人の目に集まっている。
犬歯どころか全てが鋭く尖る歯を見せながら老人は彼女を評価して、されど不意に彼は不気味な気配を内に収めて表情を戻す。
漂う不穏さは彼が戻っていくに合わせて引いていき、一度杖が地面を叩いた瞬間に完全に空気に溶けていった。
くるりと老人は振り返り、ただの老人としてゆっくりゆっくり歩いていく。
その背中は隙だらけのようで――それでも望愛は手を出そうとは思わなかった。
『戦う気は、無いの?』
「勿論。 お前さんもそうだが、そこで寝ている男も俺にとっては大事な客だ。 どうせ殺し合うなら万全の状態で戦いたいんだよ」
『大事な客?』
「あ? あー、また変な言葉になっちまったか。 まぁ、深い意味はねぇよ。 ただ単純に御馳走だってだけさ。 ……そうだ」
歩き去る老人は足を止めた。
首だけを望愛へと向け、縁側で日向ぼっこに勤しんでいる顔で良い思い付きだと提案を投げ掛ける。
「俺ぁこの付近に住んでるんだけどよ、任された領地って奴が沖縄にあるんだ。 俺は管理が頗る嫌いだが、まぁ好きにやる為の対価だ。 今度そこに招待してやるよ」
『なぜ? 貴方にメリットは無いと思うけど?』
「んなもんは関係ねぇよ。 折角の客を歓迎するのに、態々損得を持ち込むなんて興覚めさ。 適当にデカい花火を上げてくれりゃあ迎えに行くから、まぁ好きな機会に呼んでくれや」
言って、今度こそ老人は望愛の視界から姿を消した。
残るは完全に廃墟となった街と男女が一人ずつ。
突然に現れた怪物に望愛の背筋は死体の如くに冷めていた。手足は痙攣を起こし、心臓の鼓動が酷く騒々しい。
呼吸も細く、気付いた瞬間に彼女は頭痛を自覚した。
意識的に大きく呼吸を繰り返してはセンサーに目を向け続け、五分が経過しても何も反応が無いことで一先ずの安堵を抱いた。
『狂ってる人ってのは嫌になるくらい見てきたけど……』
ぽつりと独り言が漏れる。
ブースターを吹かす気も出ずに足は静かに廃墟の外を目指し、望愛は自身の経験がやはりぬるま湯の中から脱していないことを理解させられた。
恐ろしい人間。それは望愛の人生に幾人も登場している。
美しい言葉の中に紛れる棘。何の躊躇も無しに出現する暴力。権利や地位を利用した交渉。
糸口・望愛を嬲る為に、陥れる為に、辱める為に行われる様々な悪意は、彼女の中から希望を奪うには十分な材料だった。
彼等は非常に欲求に素直で、それが許されるだけの力を持っている。
望愛自身にもそれはあるにはあったが、公然と頼れる人間は限られてしまって満足には出来なかった。
だから、まともな人間との差異を望愛は静かに観察したのだ。
上に行く程に人は冷静さを失った。逆に下に行き過ぎても人は冷静さを失った。
まともだったのは、まともであろうと努力する一部の人間だけだ。本能に押されることを良しと定めた時点で、人間の理性は途端に狂気に舵を取っていく。
狂いに狂い、殺人鬼と化した人間と相対したこともあった。その時はまだ相手が殺人鬼だとも気付かずに普通に会話していたが、後に警察に見つかって連れて行かれたと知った際には生命の危機に体調を崩したのを望愛は覚えている。
今回相対した相手も、多くの人間を殺した悪鬼だ。
しかし狂気の深度が違う。質が違う。老人と比較すれば、これまで出会った狂人は残らず塵芥だ。
あれは理性を持っている。狂気の海を悠々と泳ぎ、呼吸も出来ない中で人間の真理の一つを掴んだ。
解り合いに言葉は不要。共生に細かな制約など要らない。
肌が合えば共に生きて、肌に合わねば別れて生きる。譲れぬ部分があれば呼吸をするように剣を突き付け、殺した上で相手のことなど碌に覚えもしない。
行き着いた果て。一種の境地に到達した人間だからこそ、その様は人間らしさとは無縁だった。
そうまでなるには多くの悪意を見て、受け、嚇怒に震えた筈だ。
法を恨み、倫理に唾を吐き、しかしどうにもならぬ社会に絶望を覚えながら本当なら死んでいたのだろう。
だが、運命は彼に機会を与えた。今一度全てを変えるチャンスを彼は掴み、怪物になり果てたことで夢を叶えている。
今の生活に老人は満足している。満足して――なればこそ人と怪物の差など欠片も気にしていない。
いや、この表現は違う。彼は気にしていないのではない。
『……』
望愛もまたそうなれると、老人は期待していたのだ。




