【第二百六話】その男、奇妙な縁を得る
背後から聞こえる自慢気な声に一喜は何も返しはしなかった。
ただ手頃な椅子の縁を掴み、一度大きく息を吐く。そのまま大きく頭を後ろに引き――一切の躊躇も無しに縁へと叩き付けた。
激痛が襲い来る筈の痛みは、果たして訪れる様子は無い。
衝撃すらも彼は感じず、掌で額を触っても血が流れていることは無かった。
「ふぅ」
やっぱりか。
呟く声には安堵が込められている。椅子に座り込み、彼はただ意識を集中することに費やした。
此処は夢であると、彼は解っている。
過程の無い突然の実家に、嫌に懐かしい室内。最後に離れた頃と何一つとして変わらぬ家は不自然の塊であり、さながら時間でも停止しているのかようだ。
元の世界に時間停止の概念は無い。まだ無いだけかもしれないが、彼が知る限りの知識において時間を止めることは人の出来る範疇にはなかった。
普段使いのベルトも元の世界では玩具だ。直接超次元的な力の行使が出来ないと解っている以上、やはりこの家はただの夢でしかない。
ならば、背後で聞こえてくるものもただの声だ。それにどんな意味があるかは解らないものの、特に意識を割くような存在ではないと彼は決めた。
決めてしまえば後は簡単だ。最初から大したものではないのだから、態々そちらに思考を回すこともない。
『お前……俺をただの変な声だと思っているな?』
「…………」
『っは。 無視もするとは随分な態度じゃねぇか。 俺はお前にちょっと手を貸してやろうと思ったのによ』
相手の声に耳を傾ける気は一喜にはない。
意識を集中して、覚醒させることに全てを傾ける。此処から自分を切り捨てることを決めれば、実家の風景は朧気な蜃気楼になって最後には溶け消えた。
何もかもが存在しない暗闇が到来し、肉体は上へと上昇を開始する。紐で無理矢理引っ張られていく感覚は一喜には慣れないものだが、しかし着実に現実には戻っているのだろう。
闇ばかりの景色にも次第に光が降り注ぎ、意識も揺らぎを迎えている。
次に意識が断たれた時、きっと気絶している場所で目覚める筈だと彼は確信した。
『お前はこれを夢だと思っていやがる。 だが、そう思いたいなら好きにしな。 どうせもうじきお前さんは嫌でも向き合う筈だ。 俺っていう存在にな』
声もまた自身の言葉に確信を持っていた。
それが一喜の作り出した妄想とは思えない程に。やはり赤の他人の如き印象を声からは感じ取れるのだ。
途切れるまでの時間、彼の耳には常に笑い声が鳴っていた。不吉な予感を抱かせる声は否応無しに未来を不穏にさせ、誰しもの心に嫌な明日を想起させる。
彼が声を妄想の産物として認識していなければ、或いはこの夢はもっと長く続いていただろう。
意識が途切れる。路線を突然変更され、彼は現実へと舵を切られた。
「――目、覚めたか」
そして現実へと戻り、肉体に襲い来る極度の疲労感に苦笑する。
視界は暗く、陽の光は既に無い。夜が訪れた世界は星空によって僅かに照らされ、しかし室内に居る彼には多くは降り注がない。
手を動かそうとして、腕が震えた。足を動かそうとして、太腿が震えた。
原因不明の気持ちの悪さも訪れ、コンディションとしては最低の中で彼は頭を回す。
調子がここまで崩れることは想定の範囲内だった。勝つ為に無理を押したのだから、こうならない方が寧ろおかしい。
身体が元の調子を取り戻せるまで数日は掛かるだろう。休日分を全て寝て過ごしたとしても足りるとはとても思えない。
職場への連絡は必須だ。突然の休み宣言で店長達はシフトを考えることになるだろうが、申し訳なくともしてもらうしかない。
さて、そうなると事を順当に進めるにも早い内に回収してもらう必要がある。
予定時間は当の昔に過ぎただろう。もう一方の戦場の状況次第ではあるが、そちらが片付いているのであれば一喜から何の連絡も無い事実に望愛は焦る筈だ。
拠点の最大戦力は何の誇張も無しに一喜である。その一喜からの連絡が途絶えたとなると、何が起こったのかを彼女は確実に確認するだろう。
その為であれば拠点を捨てることも覚悟している。彼は知らないが、彼女にとっての最優先は一喜なのだから。
「最悪朝までこのままだな。 敵が来ないことを祈るしかない、か」
これ以上の着装は一喜には出来ない。
腕も足も満足に動かすことが出来ない現状、まともに歩くことさえ不可能だ。
人間は限界を超えてでも動ける生物ではあるが、極端に過ぎればどうしたとて休息を優先される。
今の彼に出来るのは助けが来るのを待つか、このまま飲まず食わずで身体が動けるまで耐えることだけ。あまりの気分の悪さで空腹を感じることがないのは幸運であるが、彼にとって有難いのはそれだけである。
「……こんなに静かなのは久し振りだな」
黙り込んでいると、近頃では体感することのなかった静寂が辺りを支配した。
聞こえるのは風の音と、風によって何かが崩れる音の二つ。生き物の息遣いは聞こえず、静かな空間はいっそ不気味にも思える。
この静けさは嘗ての一喜の日常だった。
人との関りは仕事の時のみで、それが外部にまで影響を与えることはない。職場の人間とは不仲にならぬよう振る舞ってはいるが、それ自体は他の社員やバイト達とて一緒だ。
互いが互いに悪影響を齎さないが為に無言の協力関係が構築され、今日まで一切崩さずに過ごすことが出来ていた。
他に音があったとしてもパソコンから流れる類のみ。
それが無ければ室内は静かなもので、誰も訪れないアパートは中の人間ごとゆっくりと風化していただろう。
全てはあの日、あの瞬間。何の気も無しに開けた玄関扉が全てを変え、今日まで様々な面倒事に巻き込まれた。
今では納得も理解もしているが、それまでは理不尽にも感じたものである。自分がすべきことではないと何度も感じつつ結局は手を出し、果てには一組織の長を気取るまでになった。
勿論、この組織は砂上の楼閣からまだ抜け出せていない。完全に元の世界の資本に頼っている状況はどう見ても依存だ。
何れはそこから抜け出し、完全に一個の対等な組織として立つ必要がある。
否と言えることに否と答え、脅しに対して逆に脅し返すことが出来れば、紛れも無く今ある拠点は一つの大きな企業体として望愛の兄にも認められるだろう。
仮に認められなくとも、一喜は自身の行末に大した不安も抱えていなかった。
己に唯一無二の価値がなく、死んだとて仕方無いと言い切れるくらいには生への執着を持っていない。生きれる限りは生きていこうと考えてはいても、本当にどうしようもなくなってしまえば彼はやはり諦める。
矛盾してはいるが、彼の人生はどうしても直ぐには変わってくれなかった。
それは長年傍にあったのもあるし、彼が納得もしてしまっていて、他の考え方を柔軟に受け流す術を体得したから。
お前はお前、他は他。
そう定めることが出来てしまえば、自我の変革とは早々に訪れないものだ。
夜はゆっくりと過ぎていく。穏やかな時間は彼の心に平穏を与え、今だけは怪物のことや現実の問題を忘れることが出来た。
少し昔の記憶を遠い過去のように思い返して、待ち人が果たして現れるものだろうかと時々悩む。
この瞬間だけは一喜は只人であることを許されていた。一人の何でもない男として、或いは純粋な若人として。
「――――」
長く過ぎ行く時間の中、ある瞬間から遠い空より異音が届く。
何も無くなってしまった街へと一直線に向かう音は速く、数秒もしない内に直上を通過するだろう。
誰が来たのかなんて一喜には解り切っていた。慌て過ぎだと彼は苦笑し、これで大丈夫だろうと目を瞑る。
その僅か五秒後、地響きすら伴う轟音が街に響くのだった。




