【第百八十一話】その男、敗北する
「よう、さっき振り」
時間は刻々と経過している。
無駄な時間など無いと彼はビルの屋上に足を進め、そこからメタルヴァンガードによる飛行能力で魚街近くの別のビルの屋上に降り立った。
その屋上にはメイドが数人と、同じくメタルヴァンガードを纏った望愛の姿。
一枚しか存在しないカードを反則によって複数揃えたことで双方共に独自に空を動き回ることができ、上で監視されていなければ他人が彼等を認識するのは不可能だろう。
着装を共に解除し、一喜は軽く言葉を送る。
眼下で起きていた世良達の動きを見ていたことで彼の機嫌は頗る良かった。
元の世界ではあまり見ることのない風景は心を躍らせ、嘗ては無いと思っていた希望を感じて仕方がない。
これが実現出来た過程で望愛の手を借りることになってしまった事実だけが彼の中で複雑な点となっているが、そちらはなるべく意識しないようにしていた。
反面、それが解っている望愛としてはあまり気分が良いものではない。
着装を解除した彼女の表情も明るいとは到底言い難く、表面には不満がありありと浮かび上がっている。
他の人間の前であれば彼女はいくらでも顔面を取り繕えるが、一喜の前ではどうしても素の自分を隠せない。隠したくないというのが本音だ。
「機嫌が良いですね、先輩」
「そりゃな。 状況は間違いなく好転している。 癪だが、お前達のお蔭だ」
唇を尖らせた彼女の言葉に、珍しく一喜は肯定を示した。
常に一喜側の世界の住人に対して厳しい態度を取っていただけに、メイドを含めて望愛は一瞬だけ呆けた表情を浮かべる。
別に彼が彼女を褒めなかったことが無かった訳ではない。ただ最近のやらかしによって信用が失墜していたから厳しい態度を取っていただけだ。
主観を無視した上で客観的に結果を見た時、状況が良い方向に動いた原因は間違いなく彼女達にある。
それを一喜は示したのみであるのだが、こうして伝えた時点で彼には他に選択肢が無かったと望愛には解った。
それでも彼女の胸中に広がるのは喜びだ。思わず頬を緩めることを避けられず、なんだかチョロいと自分自身に呆れてしまう。
心から褒められることは彼女の人生の中で然程多くはなかった。嘗てであれば殆ど全てを兄や数少ない友人から言われ、しかしどうしても心から喜べなかったのである。
親は彼女に能力があるとは言わず、顔を合わせる両親の商談相手達も対等に接してくれた訳でもない。本来であれば自己肯定感を高めてくれる兄の言葉は、周囲から認められている者からの上から目線の台詞のようにも聞こえていた。
こればっかりは彼女自身の卑下が問題ではある。環境がそうしたとはいえ、彼女の兄に含むところがなかったのは事実だ。
友人達も彼女を馬鹿にする意図は無く、今ではそれが嘘だと望愛も思わない。
それでも彼の言葉が特に響いたのは、兄達の優しさとは無縁の悔しさが含まれていたからだ。
取り繕うことが出来ないくらいには彼女達の成した結果は素晴らしい。
一喜が口にした言葉は敗北宣言そのものであり、なれば彼女の心に直に届くのも自然。
胸中に巣食う悪感情が纏めて吹き飛び、逆に燦々とした気持ちが心を満たした。
不機嫌な表情も満面の笑みに彩られ、横目でそれを見た一喜は眉を寄せて歩き出した。
屋上から階段を使って降りていく彼を望愛は優しく見つめつつ付いて行き、魚街の近くまで到達しても変わることはない。
双方の間に言葉は無い。一喜に話す気はなく、望愛は話をしなくても良いと寧ろこの時間を存分に楽しんだ。
今だけは周りにメイド以外居ないのだ。なれば静かに歩くこともそれはそれで良いものである。
「ん? ――あ」
魚街の入り口には当然だが見張り番が居る。
男女一名による二人の番人が一喜達を視認し、だらけていた体勢を途端に引き締めた。
彼等が来ることを門番は知らない。知らないが、一喜が突然に現れることくらいは既に周知の事実である。なので目前まで来た段階で道を塞ぐ愚を彼等は犯さない。
『お疲れ様です!』
揃った声に望愛はそっと一喜に視線を向けた。
魚街に住まう人間は人相が悪い。街中を歩けばチンピラかヤクザとしか認識されぬ風貌であるが故に、丁寧語を使われると極道の下っ端構成員にも見える。
それだけ痛めつけられたか、或いは敵わぬと戦わずして認識させたか。望愛の含む眼差しを受けつつも、一喜はつとめて何でもないように口を開けた。
「ああ、宗谷は居るか?」
「はい、宗谷さんは最近自宅で身体を鍛えているみたいでして」
「鍛えている?」
「あの人曰く、此処のメリットは魚と暴力だけだと」
門番の一人の会話を聞き、そうかと一喜は暫し黙る。
宗谷はこの街の長所をよく解っていた。理性が緩いからこそ、そこに住まう人間は暴力行為を働くことに迷いが無い。
今後はそれでは困るが、理性的ではない人間を従えるのは存外難しくはないのだ。
暴れる人間以上の力と、腹を満たせる餌があれば人は大なり小なり仕方ないと納得する。
それで納得しないのであれば宗谷は殺すことを選ぶ。大を守る為に小を切り捨てられる男だと一喜は宗谷を評価していた。
一方、門番の二人は望愛に姿勢を固定化していた。
一喜が連れてきた段階で普通の人間ではないとは解っているが、説明されずとも彼女の放つ雰囲気が普通とは無縁にさせている。
彼等とてこの世界の基準としてだが美人を見たことはある。だらしない恰好に何度も男に抱かれた独特の雰囲気を放つ美人だったが、眼前の女性にはだらしなさも男に抱かれた雰囲気も無い。
彼女の周りに侍るメイドも一緒だ。神聖な白と無垢であるだけではない黒の服は嘗てであればコスプレだとしか思えていなかった。
けれど世界が文字通り終わった状況では、メイドの姿はあまりにも特徴的に過ぎる。
望愛のみが愛想笑いをしている姿からメイド達は護衛として居ることも門番は察し、迂闊に話しかける真似を控えた。
人間、危険な人物には近づかないに限る。向こうからの接触であれば逃げようがないかもしれないが、明らかな厄ネタの雰囲気からは逃げるのが吉だ。
「今日はこの街の人間に報告と仕事を頼みに来た。 奴がお前達にも頼むかもしれないが、可能であれば手伝ってくれ」
「はい、番をしながらであれば幾らでもお手伝いを致します」
「宗谷さんから大藤様の言葉は俺の言葉だと思えと命令されていますので、存分にご命令ください」
「……そうか」
真っ直ぐに愚直に命令を聞く姿勢を取る二人に一喜は何ともいえない気分を抱くも、裏切らないならそれでいいかと一喜達はさっさと入り口を抜けた。
そのまま内部に進んでいくと、魚街の住民が次々に顔を出してくる。彼等の表情は歓迎的であったり拒絶的であったりと様々だ。表立っては何か言葉を口にすることはなくとも、魚街の人間が胸に意見を秘めているのは明らかである。
そのまま一直線に宗谷の家まで向かうと、家の前で当の本人が玄関から姿を出した。
近くには部下の人間が居て、その人物からの報告で顔を出したのだろう。
先程まで鍛えていた影響か肌からは多くの汗が流れ、黒髪も湿っている。薄汚れていたタオルで顔を拭くものの、それだけでは望愛の前に出るには分不相応だろう。
自然、メイド達の表情も無に近付く。文句の一つも言いたかったものの、そも突然に来たのは此方だ。現在の人類の状況も鑑みれば完璧に整えるのは不可能である。
「――よう、今日はどうした?」
髪をオールバックに掻き上げ、宗谷は一喜に笑顔を浮かべた。




