【第百七十七話】その男、崇められる
日常の変化とはそう易々と起きるものではないと、一喜は経験則で理解していた。
仕事、食事、容姿、周囲への評価。別人にならなければ劇的な変化など起きよう筈もなく、そんなことが起きるのは精々がドラマや漫画の中の話ばかり。
自分が実は金持ちの隠し子だった、自分の中には人を凌駕する力があった。
そういった話は本の中で幾らでも見ることがあったが、では己の身に降り掛かることがあるのかと問われれば――当然否だ。
しかし、彼は異世界を知った。それは正に青天の霹靂であると言え、驚天動地を彼に与えている。
日常は劇的に変わることもあるのだと、彼は知った。そして、さながら漫画やドラマの中の世界のように物事はどんどんと予想外の方向に現在は転がっている。
当初の目的は既に果たせない。果たそうとすればこれまでの一切を捨てることになり、そうなれば今の繋がりが彼を殺すだろう。
勿論、彼に逃げる気は無い。逃げたところで意味が無いのだと解っていれば、立ち向かうのが正道であると顔を上げている。
けれどもと、彼は頭を抱えていた。とある修復されたビルの一室で、何も置かれていない室内にパイプ椅子を置いてそこに座り込んでいた。
外では賑やかな声が響いている。大人も子供も老いも若いも関係無しに、彼等は外で大声を発していた。
それは怒声ではない。憎悪の籠った恨み節でもなく、ましてや助けを請う懇願でもない。
純粋な喜びを声を大にして告げているのだ。他でもない、この拠点に対して。
「ほんと、どうしてこうなった……」
「演出の所為ですよ、どう考えても」
溜息の宿った言葉に入り口から返事が飛んでくる。
のろのろと抱えた頭を持ち上げれば、呆れた顔を隠しもしない望愛が立っていた。
「あの日から一日、食事は通常通りに与えてあります。 寝床も予定通りに壁として使っているビル群を宛がいました。 仕事についてはまだ伝えていません」
「お、おお。 ありがとな、糸口」
「本当でしたら前に出て指揮を取ってもらいたいんですが……あんなことが起きた後では迂闊に前に出れませんね」
弱弱しい声に望愛は溜息を零し、昨日の様相を思い出す。
一喜を中心として傍に望愛を置いたメイドの軍団。軍団といっても酷く小規模な集まりだが、荒野に現れた純白の衣装はどのような種類であれ人々に神々しさを与える。
実際、食事を貰っていた多くの群衆にはメイド達が天使に見えていた。彼女達は物騒な銃を持ちながらも理性的に並び、中心に居る二人を守ろうとしていたのだ。
その中心に居る男も堂々としていて、ただの悪漢ではないのは清潔な身形と真剣な顔から解らされてしまう。
加えて、望愛が美人過ぎたのも影響としては強かった。彼女は一喜を目立たせる為に空気を装ったのだが、それでもなお望愛の美貌は輝いている。
そんな刺激物満載なモノをいきなり見せられ、結果的に群衆の脳は焼かれた。
流石に神とまではいかないまでも、救世主のような扱いを一喜はされたのである。それはもう熱烈に。狂信的に。
誰もが跪く光景は異様そのものであった。中には一喜に胡散臭い目を向ける者も居たが、そういった者達は残らず周りの人々に強制的に頭を下げさせられた。
何も解っていない子供でも例外ではない。母親や父親は優しく、しかし有無を言わせない勢いで子供達に跪くことを強要した。
子供からすれば突然の親の暴挙である。反発しようと藻掻き、けれども親達の力の前では子供は無力だった。
「連中、一気に面が変わったな。 最初の覇気の無い姿はなんだったんだ」
「神みたいな存在が救いに現れたから、ではないでしょうか。 実際に神は居ないと解っていても、あそこに居るのはもう祈るしか方法がない集団です。 その祈りが天に届き、こうして救いを差し伸ばしたのであれば」
「伽藍洞に火が灯ると? ……そいつは」
なんて単純。
そう言いそうになりながら、一喜は彼等の境遇を思い返す。
負の感情ばかりが漂う世界で、破滅しか約束されていない場所で、彼等は誰かを不幸に落とすことで少しの幸福を得ようとしていた。
その中で救世主が救いに来たと堂々たる姿勢で現れたとなれば、縋りつきたくなる気持ちも解らないでもない。
既に自分で解決出来る範疇を超えたのだ。であればこそ、誰かに救ってもらわねばどうにもならない。
救ってくれる誰かなんていないと知って、故に願った果ての理想の顕現。胸に熱いものが込み上げたとして然程不思議ではない。
「ともかく、これで彼等も多少は使い物になると思います。 勿論過信するつもりはありませんが、単純な肉体労働であれば監視付きで任せることは出来るでしょう」
「望外の収穫だったな。 代償が代償なだけに早々に落ち着いてもらいたいもんだが、それは時間に任せるとするか」
一喜の言葉に、望愛はそうですねとだけ返した。
しかし胸中では違う。望愛はもっと正確に、彼等の状態を看破している。
彼等が熱狂しているのは事実だろう。それが収まるのは速いと推測しているが、一喜達が長期間に渡って生活を支えてやれば熱狂は冷めてくれない。
むしろ加速していく一方だ。手綱を握らねば暴走しかねず、けれども暴走する彼等を抑える人員はあまりにも少ない。
これはかなり早い段階で仕事を割り振らねばなるまい。一つ一つの作業が一喜の支えになるのだと女神役である望愛が言えば、群衆は喜び勇んで作業に没頭する。
人間が前を向くには救われただけでは足りない。何かに対する達成感がなければ、強固な自信は育ちはしない。
脆い人間を望愛は望まない。彼等には今後過酷な業務を行ってもらうのだから、肉体的にも精神的にもタフでなければ困る。
それこそ化物が現れても理性を優先してもらわねば守れるものも守れなくなるのだ。――そう考えると、信仰は厄介であれども戦力化に向いているとも言える。
「一先ず先輩はこのビルから出ないでください。 何名か人を置きますので皆が寝静まった後に移動しましょう」
「了解、皆には悪いと言っておいてくれ」
「解りました」
金髪を翻して望愛はビルを降りていく。
彼が居るのは現在五階。なるべく人目に映らない高さにしたので、ビルの周りに人が集まっている様子は無い。
仮に人が集まっていたとしても入り口にはメイド部隊が居る。数は六人と少ないものの、暴徒を相手にするには十分な武器を手にしている。
「先輩の傍に二人置いて。 それ以外は私と一緒に行動してください」
「かしこまりました。 それとお嬢様、沢田様から先程連絡が参りました」
「沢田が?」
「はい、状況の説明は現地の隊員が既にしてあるとのことです」
「解ったわ。 じゃあ、さっさと次に行くよ」
四人のメイドと共に望愛が外に出る。直でそのまま群衆に言葉を投げ掛けようとしていたが、沢田が戻ったのなら合流を優先した方が良いだろう。
群衆は殆どが自身に与えられた部屋で休んでいるが、外にも出て来ている。彼等は望愛とメイドの姿を視界に収めると頭を下げて付近の壁に移動した。
別に彼等が壁に寄った程度で邪魔になる訳ではない。それでも壁に寄ったのは畏敬の念があるからだ。
望愛は彼等の生気を取り戻しつつある視線を感じつつ、にこやかに愛想を振りまいて一直線に沢田の下に向かう。
アイドルめいた行動をするのは慣れているが、それはそれとして疲れるものだ。
予定外であればなおのこと精神的疲労も重なってしまう。
「――お嬢様ッ!」
遠くから沢田の声が響いた。
声のする方向に顔を動かした望愛は、朝に別れた頃と変わらぬ状態の沢田が駆け足で近付く姿を視界に収めたのだった。




