【第百五十八話】その男、大人であるが故に
朦朧とする意識の望愛に今は何を言っても聞こえはしない。
瞼を閉じて必死に脳に酸素を巡らせる様は正にギリギリで、後少しでも遅れていれば病院に運ぶ必要があっただろう。
望愛の行いは紛れも無く善だった。少なくとも、約束を破ってでもこの世界の未来に繋がる行動をしていたのだ。
そんな彼女は、けれども文句を語るのではなく真実の証明を選んだ。一喜の判断を誤りであると説得するのではなく、約束を破ってでも貴方の為になると死に繋がる証明を果たした。
この場に居る全員が、望愛の判断が正しかったとは言わないだろう。こうなった原因である一喜へとメイドは敵意を露に睨み、沢田とて睨みはしないまでも心中は穏やかではない。
穏便な解決手段があった筈なのだ。それこそ、一喜が激昂して破壊したタブレットが生きていれば綱吉の最後の言葉で心が動いたかもしれない。
「大藤様」
敵意が犇めき始める室内の中で沢田が冷静さを維持しながら口を開く。
「こうする必要があったと、貴方は御考えですか?」
「ああ、そうだな」
沢田の率直な質問に一喜は迷いを見せなかった。
瞬間、一名のメイドが銃を一喜に向ける。引き金に指を当て、されど誰もが止める声を発しない。
メイドの顔は怒りに燃えていた。不遇な少女の未来を守らんと、義憤となって炎を一喜に向けている。
「お前達風に言うなら、これは契約違反だ。 双方が納得した上で交わした約束を片方が違えたんだよ。 その時点で信頼関係は崩壊したも同然で、繋がりは断たれる筈だった」
「ですが――」
「ですがも何も無い。 何か勘違いをしているみたいだが、俺の判断はまだ優しい部類だ」
一喜の目がメイドに向けられる――その刹那、メイドは息を呑んだ。
彼の目に光は無い。希望は無く、炎も無く、あるのはただただ虚無ばかり。
人を人として正確に認識しているのかも定かではない目は、或いは人を道具のように視認していると錯覚させる。
「お前達の上役なら、契約違反が発覚した時にどうした? 笑って許すか、ちょっと損害賠償を請求してやり直そうと明るく告げるか? ――そんな筈がない」
社会の中では誰もが敵だ。味方になっても土壇場で裏切られることも当たり前で、漫画に出て来るような皆で困難を乗り越えようとする会社などありもしない。
特に昇進し、高い地位にまで至れば責任を背負い込むような真似はもっとしないだろう。
悪しきには過度な程の罰を。その中身に虚実は関係無い。
なればこそ、違反者には重い枷が嵌められる。それは社会に出れば当然のものであるが、何故か理解していない者の方が多い。
感情論で罰が緩くなるなんてのは有り得ないのだ。そんな真似をすれば損をするのは自分なのだから。
「一生を掛けて払い続ける額を請求されるかもしれない。 逮捕されて世間に晒される可能性もある。 後ろ暗いところなら殺されたって不思議じゃない。 ……それは、お前達の方がよく知っている筈だ」
「…………」
知っている、ああ勿論。
沢田な冷静な部分が一喜の言葉に同意を示す。表で出される違反者への対応は、その殆どが常識的なラインに収まっている。
例えば退職。これ以上の損失を回避する為に切り捨てる話はネット上でも転がっている話だ。
例えば逮捕。横領や脱税は規模が大きくなれば刑事罰に相当することもあるだろう。
しかし、大きな組織の中であれば表に出ない処理をされることもある。
それが一般的に時代遅れだとか嘘だろうとされる行為であっても、探してみれば極自然に見つかるものだ。
沢田は望愛の世話係として生活していたが、何もそれだけが仕事ではない。
客人への対応、現社長への言伝、そして糸口家のプライベート対応。この中で沢田自身のプライベートはあまりにも少なく、その所為で闇と呼ばれるものを断片的であれ拾うことが出来ている。
現社長の判断で死んだ人間が居た。これから死ぬだろう場所に飛ばされた人間も居た。
その悉くに沢田は同情せず、主に流すだけに留めている。何せ彼女にとって一番に大事なのは望愛だったのだから。
「この世界で活動する上で求められるのは慎重さだ。 どんな危険があるかも解らない以上、安全な場所は絶対に求められる。 決まり事を作って、物を蓄え、裏切りの可能性をなるべく潰すことが此処で生活する最低条件だ」
一喜は真剣だ。真剣に、この世界と向き合っている。
利益を追求しているのではない。正義を振りかざしているのではない。
ただ一人の人間として、この異世界における理不尽に真向から立ち向かっている。当初の頃に持てなかったその気持ちを今持てるのは、やはり傍で瘦せ衰えて消えようとする子供が居たからだ。
理不尽に嘆く者に手を伸ばさないでどうする。
泣き叫ぶ子供に頼れる背中を見せないでどうする。
世良や十黄から見れば、一喜も望愛も沢田も大人だ。大人として立っていかなければならない存在だ。
「俺一人じゃ全てを満たすのが不可能なのは解っている。 解っていて、じゃあ何もしないってのは今の俺にはきっと出来ない。 ならせめて――」
――子供が頼ってくれる大人であろう。
それは嘗てから抱いていた決意ではなく、つい最近に出来たモノだが、なればこそ青々としつつも力強い。
育ち始めたばかりの未来の大木。
この木が何れ朽ちる時に異世界が少しでもより良い方向になってくれたのであれば、何者にもなれない男にも価値があったと安堵することが出来る。
「あ、貴方はそんなことを……」
沢田は見た。虚無の瞳に灯る、穢れの無い炎を。
邪なる者には絶対に灯せぬ正義に輝く極光を。万人を等しく焼き、酔わせ、狂わせてしまう決意を。
元の世界で一喜がそれをしようとしても上手くはいかない。既に世の中は善を嘲笑う方向に舵を切り始め、中々どうして悪人を裁くことが難しい。
無償の愛で子供を育てても、子供が無償の愛で親に接してくれるとは限らない。
仕事の負担を肩代わりしても、それに対して感謝をしてくれるとは限らない。
誰だって自分を第一に。自己保身が行き過ぎているいるくらいに進んでいるからこそ、優しい人が外れを引く。
優しくない人程裕福な生活を送ることが出来るなんて酷い話だ。
それは少しでも考えれば誰でも常識的に思うことだが、さりとて生きていればそれを正す力が無い事実で動き出せない。
これを反転させたいのなら、他者に対して手を伸ばせるような状況にするしかない。
手を伸ばすことで利益を得られるように。或いは、手を伸ばさねば生きられないように。
過程は異なれど、異世界は後者の状況だ。誰かが手を伸ばさねば救われぬ小が多過ぎる。
けれど誰も積極的に助けず、怪物による機械的な管理によって最低限生き長らえているままだ。これでは悪が蔓延るのも致し方ない。
なればこそ、意志力の強い人間が救済に動けば周りの人間は影響される。
誰かを助けることを第一とすればその通りに。仮に復讐に走ってもその通りに。
大人の生き様は子供の指針となる。少しでも元の世界に近付けたくないのなら、この崩壊している時点から真っ直ぐに立つ姿を子供達に見せていかなければならない。
背負う覚悟を持て。約束の一つでも守ってみせろ。そして何より、悪を許すな。
「協力自体は感謝するし、実際に助かる。 だが利益追求の面が強いのなら、そんな支援は求めちゃいない。 ――大人が子供を搾取しちゃいけないんだよ」
断ずる。何よりも強く、狂気すら飲み込んで。
理不尽を許さぬ男は既に覚悟を持っている。流れに流れた結果とも言えるが、それでも今飢えている子供達を見て悲しみを抱いていた。
故に、彼は厳しくするのだ。望愛もまた成人を迎えて大人になっているのだから。




