【第百五十六話】その男、最後の説得を受ける
「――お待ちください、大藤様」
再度の沈黙が広がる室内にその声はよく響いた。
誰もが声のする入り口に顔を向けると、声を発した人物は揺らがぬ強き瞳を持って一喜の下へと歩き出す。
多数のメイドが居る中において、その人物は燕尾服を纏っていた。
黒髪を短くしている麗人。それは美しいと評されるメイド達の更に上を行き、気品ある姿勢には最早宝石の言葉すらも陳腐に感じさせる。
一喜は彼女を知っていた。この事態を引き起こした一番の原因なのだから、寧ろ知らない方がおかしいだろう。
「何か用か、沢田さん」
「……流石に多少は驚いてくれるかと思いましたが、どうやら解っていたようですね」
「当然だろ」
一喜は彼女の登場に対して驚愕を胸に抱くことはなかった。
望愛を護衛するメイド部隊。綱吉が恐らくは行ったであろう部隊設立は、当たり前であるが望愛が指揮するものではない。
勿論指示をすることは彼女にも出来るが、やはり専門家に任せる方が無難だ。
そして現状、望愛が信頼出来るメイド部隊のリーダーともなれば――必然的に沢田しか残されてはいない。
望愛も沢田が率いてくれるからメイド達に異世界を教えても問題無いと判断し、そして実際に何某かの方法を用いてこの拠点に自身の持ち込んだ設備を設置することに成功している。
「多くをやるなら事前準備が必要だ。 だが、望愛にはそれをするだけの時間は無かった。 あの男が何かをしようと企むのなら、お前を頭に据えるのは自然だろうさ」
「思考速度は相変わらずのようで。 ……でしたら、理性は依然として健在のままなのですね」
言外に一喜の判断をとち狂っていると沢田は告げているが、それを察しながらも彼は鼻を鳴らして笑い飛ばす。
「怒って我を忘れるのは慣れてなくてな。 どうしてもそこまで怒れないんだよ」
「成程、理性の強い方だ――ですが、今回はあまりにも性急です」
メイドの一人が椅子を運び、一喜の横に置く。
その椅子に失礼と沢田が座り、余計な雑談を一切抜いて本題を語り出す。
「先ず、御二方の間で如何様な約束があったのかを此方は存じ上げておりません。 具体的な書類も無い以上、口約束だけでは何の拘束力も無いのは明らかです。 我々がそれは嘘だと断じてしまえば、約束は無かったことになります」
用意されていく紅茶の様子を視線で見やりつつ、客観的な事実を最初に沢田は語った。
二人の間にある約束は具体的な形となって存在している訳ではない。保証の対象となるのは双方の記憶のみであり、社会的に見ればそれは無いも同然だ。
言葉一つで嘘と真を変えることが出来る世の中ではやはり形ある情報が求められ、証明書や契約書がその類の代表例となるだろう。
必然、客観的に事実を証明出来なければ約束に反したところで問題は無い。個人間での関係は悪化するだろうが、社会的に見ればそもそも約束に対する保証を用意しなかったことが悪だ。
「それはつまり、止められるだけの理由は無いと?」
「少なくとも我々の間に権利による繋がりは皆無です。 強制させたいのならば一度追い出した後に封鎖するしかありません。 ……されど、貴方にそれは出来ないでしょう」
沢田の確信の込められた問いに一喜は呻る。
望愛を追い出したとて、玄関扉は異世界に繋がったまま。入口が解っている以上は彼女達の力で強引に通ることは可能である。
不法侵入ではあるものの、その事実を一喜は警察に伝えることが出来ない。非日常的な情報を例え信じなくとも警察に伝えたくないのだ。
何かの切っ掛けでオカルトを信じている警察の誰かが来るかもしれない。それが妄想の類であったとしても、一度有り得ると考えてしまえば一喜の足は途端に鈍る。
よって残る道は完全な閉鎖。扉を閉め、幾重も鍵を掛けた上で何かしらの素材でもって入り口を覆い隠す。
それで異世界への道は閉ざされ、彼女達も彼も行き来は困難を極めるだろう。
しかし、それでは一喜にとって都合が悪過ぎる。
現状の優位が出来ているのは一喜が物を持ち込めているからだ。もしも二度と元の世界に戻れないとなれば、新たに物資を持ち込むことは不可能となる。
そうなれば必然的に異世界で全てを調達せねばならないが、超技術と化したベルトや武器を用意するのは一喜の平凡な頭では無理だ。
どうしたって完成品を元の世界から持ち込まねばならず、故に扉を閉鎖することは実質的に論外であると決めるしかない。
「流石にバックが強力だと厄介だな。 脅されては従うしか方法が無いじゃないか」
「御戯れを。 向こうでなら兎も角、此方では貴方に手出しは出来ませんよ」
「寝込みでも襲えば俺なんて一発さ。 ――で、また俺だけ割を食う訳だ」
沢田の冷静な声が一喜の熱を滾らせる。
吐き捨てる言葉の全てが熱く、しかし激昂はせずに嘲笑を送るだけだ。
力がある奴はやることが決まっていて、弱者はそれに抗えない。何時如何なる時でも能力の優れた個人や集団こそが安穏とした生活を送り、従うだけの負け組がどれだけ吠えようとも厳しい生活からは逃れられない。
一喜の怒りで海は蒸発しないのだ。だからこそ普通に生きる人々は必死になって学力や技能といった船を作って渡ろうとする。
「この契約を飲めば損をすることはありません。 少なくとも、貴方の日々の生活に邪魔を入れるつもりは此方にはありませんとも」
「信用出来るかよ、先に手を出してきたような奴等が。 それにこの契約は、要するに俺を犬にしたいってことだよな?」
世良は見る。十黄も見る。望愛も見る。
話が始まってから増していく一喜の圧を。加速度的に増していく圧倒的な重圧を。
心の底に沈んでいた過去の汚濁が表に噴き出る。恨みや妬みが視線となって沢田を貫き、それでも彼女は揺るがない。
解っているからだ。引けばそこでこの関係は終わる。望愛が最も望んだ未来が、此処で終幕となってしまう。
本音を言えば、一喜の言葉に否は無い。
悪いのは勝手に物事を進めた望愛側であり、交わした約束も全て真実なのだろう。
望愛が必死に否定しない時点で約束には双方同意し、彼女の側が先に破って一喜の信用を喪失させた。
であれば破った場合の条件を飲むのが筋である。これに意を唱える真似は非常識だと罵られても文句は言えない。
話し合いの時間は用意出来た筈だ。望愛が綱吉と今後の話をする過程で許可を貰う為に一喜に連絡を飛ばしていれば、或いはこの事態は避けられたかもしれない。
人はメリットとデメリットの比較だけで生きているのではないのだ。望愛が最もそれを認識していなければならなかったのに、彼女はそれを怠った。
誰が悪かったのかは明白だ。――――それでも、沢田は一喜の条件を飲まずに建設的な話に持って行こうとしていた。
「綱吉様は貴方を奴隷か何かだと考えたことはありません。 この支援は言ってしまえばお嬢様の為の支援です。 言葉は悪いですが、貴方様はついででしかありません」
「……まぁ、それはそうだろうな。 あのシスコンが俺の為に何かをするだなんて考える方がおかしい。 実際にメイド部隊も主任務は彼女の護衛で、彼女に危険が迫れば俺の出している命令も無視するんだろ?」
「それは……ええ、そうなるでしょう」
一喜の指摘に沢田は一瞬口を閉ざし、されど嘘を言う訳にはいかぬと真実を口に出す。
綱吉と一喜の関係で助けが入ると思うのはよっぽどの愚か者だけだ。望愛が歩み寄りを進めても、二人の関係が劇的に良い方向に行くにはまだまだ時間が掛かる。
この支援はなおも困難な道を進もうとする望愛を支えるものであり、望愛を最優先に据えた手厚い保護プログラムだ。
その中に一喜の存在が含まれているだけで、望愛を助ける為に一喜を見捨てなければならないとくれば最終的に彼を見捨てる方向に舵を切る。
「ただ、一つ撤回してほしい部分があります。 確かに綱吉様の中における最優先はお嬢様ですが、決して大藤様を気にしていない訳ではありません。 寧ろ、あの方は貴方を理解しようとしているのです」
「理解?」
「最初の接触時、私達は貴方のことをまるで知りませんでした。 お嬢様の傍に居るに相応しい人間かを社会的な視点で見定め、そして我々は間違えたのです。 貴方は少なくとも、悪を喜んで実行する人間ではない」
断じる沢田に迷いは感じ取れなかった。
その言葉に嘘は無いと一喜は目で理解し、先を促す為に首を動かす。
「けれども世の中は善人の方が少ない世界です。 特に貴方が異性である時点で綱吉様は過度にお嬢様を心配していた。 それが見定めるべき視点を鈍らせ、最後には二人きりで会わせた時点でお嬢様を怒らせたのです。 ――貴方は何も解っていないと」
思わず一喜の視線が望愛に移る。
見られた望愛も真っ直ぐと真剣な顔を一喜に返し、一度瞬きをして乾き始めた口を動かした。
「先輩と別れて兄さんと会った時、あの人は貴方のことを壁と言っていました。 いざという場面で盾になってくれる、堅固な壁であると」
望愛を守る盾。姫を凡俗に見せぬ城塞。
そう評した綱吉を望愛は許してはいない。一喜は壁ではないのだと、自分達とは比較にならぬ善良な人間なのだと望愛は今でも信じている。
「冗談ではありません。 貴方は人であって物ではないんです。 誰かに使われるだけの道具に見られるなんて我慢出来ません。 そんなことを言う人間など、此方から関わりたくもない。 ――けれど、こうも思うのです」
語る。
一喜と綱吉は面と向かい合って話したことがあまりにも少ない。本音もほぼ吐かず、互いの意見を叫ぶだけだった状態では仲良くなりようがないではないか。
望愛が指摘するまで綱吉は社会的な人間だった。それはそれで一見すると地位を守る当たり前の人間のように見えるが、中身は疑心に満ちた人間不信の塊だ。
誰も彼もが信じられない。そんな中で唯一信じられるのが妹で、だからこそ妹を溺愛した。
何もしなくて良い。ただ自分に真実の愛を向けてくれ。邪魔な奴が居たのなら私が排除するから。
心からそう思う兄の姿に望愛は怒った。
舐めるなと、自分はただ守られるだけの女になりたくはない。
したいことはあった。成し遂げてみたいこともあった。夢を見て、理想を考え、その為の道筋をノートに書いたことだってある。
天使のまま生を終わるなど論外だ。だからこそ――私達を見てと彼女は咆えた。
「約束を破ってごめんなさい。 勝手に物事を進めてしまってごめんなさい。 その上で、厚かましくもお願いします」
椅子から立ち上がり、望愛は一喜の目の魔で腰を折って頭を下げた。
深く、深く。下げられるならどこまでもと言わんばかりに。
「どうか、今一度。 先輩と兄さんが話をする機会をください。 私が先輩と関わる機会をください」




