【第百五十五話】その男、全てを否定する
鈍い音が鳴った。
鈍器が地面を叩くような音は荷物を運ぶメイド達の手を止め、説明の場となっている然程大きくもない机に視線を向けさせる。
地面には液晶の割れたタブレットがあった。薄い保護カバーによって本体そのものが破損することはなかったが、それでも液晶が割れたと同時に動画の音も完全に停止している。
望愛に侍っていた一人のメイドが投げ捨てられたタブレットを小走りで回収して電源を押してみた。
しかし液晶に光が灯ることはなく、起動音もバイブの一つも反応しない。
音で聞いていた限り、動画はほぼ終了していた。後は綱吉自身の個人的な話をするだけで動画は勝手に終わっていただろう。
それを遮ってでも終了させたのは、耐え切れなくなった嚇怒を爆発させた一喜だ。
「……糸口」
世良も十黄も突然の彼の行動に驚くと同時、その顔に怖気が走った。
一喜の表情は二人の見た事がないものだ。低い声音自体はメタルヴァンガード時には聞こえていたものだが、その時には顔を覆うマスクによって表情までは視認出来ていなかった。
鬼の形相。怒髪天。急速に蓄積された怒りの感情は表情を歪ませ、その主犯たる望愛に全て向けられる。
殺意にまで変化を始めてしまいそうな感情を彼女は真正面から見て――胸中に溢れ出す恐怖を顔に出さないよう必死に感情を隠し続ける。
傍目からは冷静に見える彼女の顔は一喜と対極的で、故にこそ余計に彼の怒りを買うことになった。
「勝手な真似はするなと、俺は言ったな」
「はい。 以前の注意事項は全て覚えています」
「その上でしたのか。 俺が激怒することを解った上で」
「はい」
互いに顔を見合わせ、一喜の詰問めいた言葉に望愛は肯定する。
彼女が此処で彼の手伝いをすることを許されたのは、一重に一喜側が許容したからだ。
本当はしたくなかったことを望愛の必死な言葉と漏洩を考慮して許したのであって、それを彼女の側が守れないのであれば信用度を大きく削ることになる。
勿論、綱吉の提案自体は一喜には有利だ。一番の問題だった食料を解決することが出来るのであれば懐の負担は格段に低下する。
資金を貯蓄に回すことが出来ればいざという場面で高額な買い物が可能であるし、その際にも綱吉が支援してくれる可能性が浮上するだろう。
――だが、一喜は綱吉のことを嫌悪している。
まだたった一回であれ、嘗てのトラウマを刺激するような行為は断じて許されてはならない。
それをすることを選ぶ人間と付き合いたいとは思わないのは当然であり、この話にも当たり前であるが裏を考えずにはいられなかった。
そして、そういった自身の世界のあれこれを考えることそのものが一喜にとって無駄な負担なのである。
誰かがどう動くか。そういった思考は数が増えれば増える程に予測の側面が際立ち、まったく未来を想像することが出来ない。
動くべき人間は最小で、同時に把握可能な範囲に留めるのが一喜の最良だった。
そういった意味ではこの街で自身の拠点を作って大規模な人間を集めることは予測の面を際立たせる行為になるのではないかと考える者が出るだろうが、この世界の人間は一喜の世界よりも人間の思考が解り易い。
生きる為にすべきこと。今を維持する為に必要なこと。
生存に焦点を置いた思考は予想がし易く、そして手を差し伸べれば二通りの対応は彼等は行う。
即ち感謝するか、差し伸べた手に噛み付いて全てを奪おうとするか。
感謝するのであれば無難に返事をすれば良いし、噛み付くなら最悪殺せば良い。法も倫理も無いこの世界では単純な方法こそが尊ばれ、故に大規模な人間が集まったところで誘導も容易だ。
彼等は救いを求めている。ならばそれが嘘であれ、救いの姿勢を見せれば比較的従順になってくれるのだ。
「なら、お前は此処で終わりだ。 荷物を纏めて元の世界に帰れ。 メイド達もだ」
一喜の思考はこの世界の人を下に見た傲慢なものだが、しかし一番的を射ている。
なればこそ、一喜が恐れるのは自身の制御を離れる存在。時にルールを破り、時に内側を勝手に弄ろうとする者こそが彼の真の敵だ。
この部分に関して言えば、ポシビリーズはただの敵に過ぎない。最初から味方ではないのだから潰すことを考えるだけで良いのである。
一喜の言葉でメイド達の気配も険吞なものに変わった。
彼女達は望愛の為の存在である。まだまだ小さかった頃から望愛に接し、彼女達なりの優しさや愛でもって支えてきた主だ。
この話も彼女がそうしたいと願ったから出来上がったのであり、その願いを無下にする行いを彼女達は許容出来ない。
「――先輩、先輩は将来をどれだけ見据えていますか?」
沈黙の帳が降りる中、望愛は真剣に一喜に語り掛ける。
恐怖が背筋を冷やしても、彼女は毅然としてそこに座り続けた。黒のカーディガンは揺れず、服の擦れる音もこの空間には無い。
「先輩はこれまでの活躍である程度の資産を手にしました。 それがあれば暫くは現状を支えることが出来るでしょう。 オールドベースの支援もまったくの零ではありません。 この世界で貴方だけが生きていくのであれば、私が今帰ることも了承します」
上位者の家系に生まれた身として、同年代の女性よりも彼女は世界の泳ぎ方を知っている。
荒れた海を渡るにはどのような船を作るべきか。船を動かしていくには何人の人間が必要で、どれほどの物資が求められるのか。
完璧にとまでは解らずとも、富裕層の者同士との会話である程度彼女は学んでいる。
だからこそ、綱吉に放った言葉によって彼の思考が変化した時。それは彼女にとっての大きなチャンスとなった。
一喜と綱吉との接点を増やすにも、これからの異世界生活をより盤石にするにも、偶発的であれ可能となると部屋の中で落ち着いた彼女は思考したのだ。
「ですが、此処でも多くの人間を救うとするならば。 その時必要となる費用は莫大に過ぎます。 先輩は国家規模の資金を持っているのですか?」
「――――糸口」
望愛の言葉は、少なくとも彼女が一喜の全てを奪う訳ではないことを告げていた。
碧眼の輝く瞳がまったくと曇らぬ様子からも嘘ではないのは明らかで、彼女が彼女なりの方法で事態の改善を目指したのは理解に至れる。
そして現状、最も正解に近いのは望愛が用意したこの案だ。トラウマを無視すれば彼女の提案に乗るべきである。
冷静な彼女の言葉こそ、未来を見据えた賢い選択――そう思えたのならば、そもそも彼がタブレットを破壊するような真似をする筈もない。
大きく、胸の内に渦巻く昂ぶりを吐き出すように長く息が漏れていく。
喉を通る二酸化炭素は彼の感情に呼応したが如く熱を持っていた。普段ならば気にならないような熱にすら少々の苛立ちを覚えつつ、彼女の名を短く呼ぶ。
「俺が何について怒っているのか、ちゃんと理解しているか?」
「?……勿論です。 私の勝手な行いに激怒されているのですよね?」
「そうだ。 お前は俺と交わした約束を破り、最も嫌悪する者から支援を引き出した。 見返りを求めたにしてはあの男の提示したものは安かったが、それでも俺の知らぬ範疇で行動を縛りかけたんだ」
望愛の確認に一喜は肯定を示したが、その内容の全てが正解ではない。
彼にとって重要なのは、最初の取り決めを破ったこと。それが今後も発生するリスクがあると彼自身に考えさせ、動ける範囲を制限しようとしたことだ。
それは社会においては当たり前の取引ではあったのだろう。いや、この程度では生温いと表情した方が正しい。
縛ろうと思えば企業は何処までも個人の行動を制限出来る。金を、立場を、権利を、使える鎖を全て使って多くを縛鎖で捕らえるのだ。
捕まってしまえば、そこから先の人生に明確な自由は無い。人権の主張をしたところで、それが実際に効力を発揮する前にデメリットを多数抱え込むことになる。
それは金銭的な消費であったり、立場の解雇であったりと様々だ。
そんなものが彼は嫌だったのに、望愛は必要な取引だとソレを持ち出した。であれば、彼女を味方として見ることは彼には出来ない。
「俺は自由を求めている。 自由以外には要らないんだ。 向こうの社会的強者達の介入なんて、俺は求めてはいない」
「では、今後はどうするのですか。 何れ枯渇するだろう状況で、どうやって全てを用意するのですか」
「既に話はつけてある。 まだ魚限定だが、協力関係を結んで取り敢えずの形であれど消費の加速は止まった。 ……この世界の人間だって生きているんだ。 俺達の頃より昔の知識しかなくとも、専門家が生きているのであれば後は希望だけで動き出すことができる。 あの男の支援を受ける必要なんてないんだ」
自身の世界の人間を、一喜は信頼しない。
するとしたら同じ境遇の人間だけで、少なくとも望愛の家系を信頼するには背後にある闇が深過ぎた。
関わり合いにならない方が良いと誰が見ても解る状況で、それでも望愛が支援という形で兄との関りを求めたのはまだやり直せると思っているからだ。
それは個人の問題に過ぎない。そしてこの異世界においては何の関係も無い。
「勝手な都合で変な奴を余計に介入させて、俺との約束も破った。 ――なら、どうするかは最初に話したな?」
「先輩……」
「もう此処には来るな。 来たとしても、お前を無理矢理に元の世界に戻す。 俺達の関係は今日限りだ」
断じた一喜の声に迷いは無い。彼女を敵に回す結果になってでも、この繋がりは断たねばならぬと彼は決意したのである。
その姿は皮肉にも、望愛が求める正道を歩もうとする男の姿だった。違反をそのままにせず、問題は問題であると確り指摘することが出来る正の側の人間だったのだ。




