【第百五十一話】その男、幸福の差を思う
「高い! 高い! 高い!」
「速いってぇ!」
空に家が浮いていた。
屋根は無く、元は二階建てだったのだろう建物は一階部分しか存在しない。強引に破壊したことで壁には罅が走っているものの、現在はまだ崩壊にまでは至っていないようだ。
家の中では世良と十黄が大声を発しながら戦々恐々とした面持ちで壁に手をついている。
床の上には数個の発砲スチロールの箱が置かれ、そのまま放置状態で誰も気にしていなかった。
そして家の下部。床を持ち上げ飛んでいるのは、当然ながらメタルヴァンガードとなった一喜だ。
速度を重視したカードで現在は普段よりもゆっくりと進み、二十階建ての建物に等しい高度で悠々と鼻歌を吹いていた。
空は元の世界と変わらない。ただ眼下の景色が荒廃しているだけで、それが直っていけば元の世界と殆ど一致するだろう。
二人の声は一喜の耳に届いている。らしくない慌てた素振りは実に年相応で、酷いとは思いながらも顔に笑みが零れた。
真面目一辺倒では疲れるだけだ。こんな命綱らしい命綱もないアトラクションでは肝を冷やすだけだろうが、その点は一喜が揺らさないようカバーすれば良い。
通照との別れの挨拶は無かった。お互いに過度に馴れ合うことを望んではいなかったし、そも直ぐに会えると双方は考えている。
一喜も通照も関係を結んだばかりで即裏切るつもりはない。仮に裏切るならばメリットが無くなった時であって、そうなる頃には今より大きな規模の集団になっている可能性はある。
今人類に求められているのは団結であり協力だ。打倒すべき巨悪を打ち倒してこそ、人類同士による諍いが起きる。
通照と一喜が争うのであれば正にその瞬間だ。どちらかが先を見据えて権益の拡充を狙えば、それが戦争の引き金になることは間違いない。
『……皮算用だな』
短く、過っていた思考を切る。
その未来は勝てばの話だ。まだまだ敗色濃厚な時勢の中では考えるべきではない。
今はまだ、上で慌てる二人の声に微笑ましさを覚えるだけで良いのだ。それらを糧として勝ちを拾い、再建を促す。
オールドベースはその再建には参加しようとするだろう。或いは、無気力な者達の中から率先して行動を起こす人間が現れるかもしれない。
唯一有り得ないのは、怪物の場所そのものだ。負け組による復讐は確かにまともな感性を備えた人間であれば同情しやすいが、少しでも考えれば復讐の対象に人類の全てを当て嵌めるのは間違いだと気付ける。
復讐する対象は常に自身の尊厳を奪う者だけの筈だ。それ以外に対してまで暴力を振るう様は、何も知らない人間からすれば狂人でしかない。
復讐すべき対象を裁いたのなら、後は普通の生活をしていけば良いのである。
それをしない時点で彼等はもう他と一緒には暮らせない。彼等は彼等の世界でのみ生活出来るのだ。
故に、人類の未来に彼等の姿は無い。出来ればそのまま素直に消えていってほしいが、彼等が何もせぬまま消えていくことはないだろう。
『――ん、見えてきたな』
高性能なカメラアイが望遠機能で街の様子を目に映す。
離れているとはいえ空から直線で進めば歩くよりも速い。近付けば近付く程に街で活動する人間の姿も小さく見えていき、一喜と望愛が移動させた建物の密集具合も明らかな異常なとして認識することが出来る。
他が崩れているにも関わらず、一喜達が移動させた建物は非常に綺麗だ。整い過ぎて場違いな感覚を抱く程であり、その範囲は蜘蛛によって今も拡大している。
とはいえ範囲が広がれば広がる程に蜘蛛の数も多く要求されるので街一つを直すには多大な時間が必要だろう。
今は先ず一喜達の陣地を整えるのが最優先。自軍を強化せずに全体の益になるような振舞いをするなど、大きく見れば損失以外のなにものでもない。
ゆっくりと高度を降ろしつつ進む。
いきなり平行だった地面が斜めに傾いたことで上二人が更に騒ぎ出すが、それらを無視して地面に向かえば自然とメタルヴァンガードのジェット音に気付く人間も現れる。
気付いた人間は最初は数人程度。指を差して隣に居る者に話し掛けたり唖然とした顔で見上げる者が居るが、彼等は暫くの後に正気に戻って逃げていく。
メタルヴァンガードの強さをキャンプから来ている人間はよく解っている。逃げ切れるものではないと思いつつも、キャンプ付近での戦闘を想起して無意識に全力で走ってしまうのだ。
勿論、一喜はそれを追う気は無い。いきなり建築群に戻るのではなく、近場にある嘗てメタルヴァンガードが作ってしまった破壊跡に着陸して家を降ろす。
着装を解除して玄関扉を開けると、二人は家の壁や柱に寄り掛かって荷物をまったく気にしていなかった。
「ほら、着いたぞ」
「お、おお……やっとか」
十黄の安堵が強く出た言葉に一喜は解り易く笑ってしまう。
その顔を見て十黄は怒りの顔を浮かべるが、それよりも先に世良が玄関まで向かって一喜の肩を思いっきり叩いた。
「落ちるかと思ったよ。 次にやる時はロープか紐を用意してからだ。 いいな?」
「ああ、ああ、悪かった悪かった」
焦りも恐怖も過ぎたことで世良の表情は無になっていた。
怒りを露にするのではなく、真剣な顔をするのでもなく、ただただ一喜に対して伽藍洞じみた眼差しと顔で注意を告げている。
だがその内心が十黄然程変わらないだろうことを一喜は解っていたので笑顔を返して両手を挙げた。
今回は鮮度の関係で急いだから安全策が一つも無かった。強いて言えば家の壁がそうであるが、それが何の安全の保証にも繋がらないのは明らかである。
二人は発砲スチロールの箱を集めて持ち上げ、大地に足を付けることに静かな感動を抱いた。
やはり人は空に生きるのではないのだと再認識させられ、自分達の焦りは間違いではなかったのだと確信も持てる。
「そういや、魚を捌いた経験は?」
「あるよ。 昔にちょっとだけだけどね」
「俺は無いな。 かなり早い段階で避難施設暮らしに入っていたからな」
一喜も幾つか箱を持って歩き、自身のホームを目指す。
魚は解体されているとはいえ、子供が食べることを考えるとまだ幾つか工程を挟まなければならない。
包丁は集めた物資の中にあるし、洗う水も子供達が持ってきてくれているお蔭で不足は無い。
水道が無い所為で水を溜めねばならぬ状況は衛生的とは言えないが、背に腹を代えられる状況でもない。それよりも一番気にすべきなのは魚の中に潜む寄生虫の類だろう。
「あっちの子供達の中でも魚を捌ける人間が居るかを聞こう。 その上で生食は避けて焼くぞ」
「賛成だ。 腹を壊したら堪ったもんじゃない」
「私は経験者だけど、まぁ酷かったね。 まだ医療設備が生きていた頃だから大丈夫だったけど、今なら死んでたかも」
生の肉は論外として、生の魚を食べるには設備を整える必要がある。
代表的なのはアニサキスだろう。殺す為には冷凍するか逆に焼くか、他にも身を切ることで物理的に処理しておかねば安心出来ない。
平和である元の世界でもアニサキスによる入院はあったのだ。そこよりも質が遥かに悪い此処では容易に死に至るだろう。
世良の件は運が良かっただけだ。本人もその自覚はあるので焼き魚にすることは反対しなかった。
「あー、缶詰を除けば久し振りの魚料理だな。 これで後は醤油があれば最高なんだが……」
「贅沢言わない。 一喜も持ち込もうとは考えないように」
「はい」
何でもない雑談を交わす彼等の表情は実に明るい。
食はあらゆる人間の心を満たす。幸せが極端に少ない世界だからこそ、一食が豊かになることは大きな幸福になるのだ。
一喜の胸にも暖かい気持ちが流れ込む。一人で食事をしているよりも、意外と言うべきか皆で食事をしている方が気分が良かったのを思い出した。
出来ればこのままずっと幸福であれば。そう脳裏で願い――されど瞳は、拠点近くに居る謎の集団を捉えてしまった。




