【第百三十二話】その侍従、変化に驚嘆する
「先輩……」
望愛は驚きの籠った声を無意識に口から出した。
それは予想外だったからで、一喜であれば断固として断ると思っていたのだ。
彼は約束を守ってほしいと願う男である。約束を守ること自体は当然と言えば当然であるが、それが中々叶えられないと彼は解っている。
社会の中では記録に残る形でなければ約束は果たされぬし、記録があっても抜け道を事前に用意して破ることもある。
時には行方を眩ませて有耶無耶にすることもあるのだから、人間の決まりを守る能力は想像よりも低い。
だからこそ、彼は決まりを破れば容赦はしない。それは過去の出来事で望愛も理解している。
だからこそ彼女は迷った。迷って、けれど兄を捨てるつもりではあったのだ。
それを彼は拾うことにした。望愛に行くよう促し、約束を破ることを良しとしたのである。
そこに感情的な何某かがあるのは間違いない。けれども、それ以外の打算的な部分があるのも事実だ。
「ど、どうしてでしょうか?」
「理由なんて簡単だ。 これで自棄になって情報を拡散されても困る」
綱吉の気力が減れば、必然的にその理由を探る人間が現れる。
そこで望愛が家出をしている事実だけを知るのならまだマシだが、綱吉自身が口を滑らせて異世界についてを語ったら最悪だ。
中々そんな情報を鵜呑みにする人間は出てこないと一喜も思っている。思ってはいるも、人生何が起きるか解らないものだ。
一部の好奇心旺盛な人間が調査する可能性を考えたら、綱吉には油断を見せない姿勢を貫いてもらいたい。
そうなってもらう上で何が一番手っ取り早いかと言えば、やはり望愛と会うことである。
「あれは俺達の詳しい情報を知っている。 秘匿そのものはアイツ自身も解っているだろうが、余裕が無くなっている今では何をやらかすか不明だ。 俺はアイツの能力を特に知っている訳じゃないからな。 優秀だとしても、それが仕事に特化しているのなら不安だ」
人間に与えられる優秀の評価とは、別に全方面に優れている訳ではない。
綱吉が優秀であることに関しては仕事についてしか出てこず、プライベートと呼ぶべき前回の出来事は流石に立ち回りが下手に過ぎた。
何もかもが出来る人間なんて居ない。それはつまり、綱吉には大きな付け入る隙があるということだ。
その穴を僅かでも埋める為であれば、一喜は前回の約束を破ることも決めている。
「糸口。 俺は別に会ったとしても構わない。 それで此処から居なくなったとして、お前自身に何か文句も有りはしない。 まだ明確に何が必要かを決めていないからな」
「それは……居ても居なくても一緒だと?」
「言葉は悪いがな。 色々話し合ってくれてはいるが、別にお前としかあの話が出来ない訳じゃない。 拠点については寧ろ向こうの人間と話した方がスムーズに進むだろうさ」
淡々と一喜は望愛が離れても大丈夫な理由を語っていく。
望愛自身は戦力という面では絶対に要らない存在ではないが、同時に明確に必要であると決まってもいない。
あの世界の人間がベルトを使えるのならそちらの方が都合が良く、戦力展開も順当に進められる。勿論裏切られる可能性を考えておいそれとベルトを渡すことは出来ないが。強固な縛りを付ければ貸すくらいは視野に入れられるだろう。
彼は実に何てことはないように言葉を続けていく。その様を望愛は黙って聞き、沢田は少々信じられないような眼差しで見つめていた。
沢田と一喜の間にある繋がりは約束であり、契約だ。
それを破ろうとする行為は即ち関係の断絶で、望愛との再会を望めないことに繋がる。
望愛はこの話が出る前まではまったく綱吉に会う気は無かっただろう。それは話の最初の時点で解っている。
けれども、それでも沢田にとって綱吉は恩人のようなものだ。助けられるなら助けておきたいし、家族が家族としての形に戻るのならば戻ってほしい。
父親や母親は輪の中に居なくても良いのだ。あれを家族であると認めるには、流石の沢田も我慢が出来ない。
二人が一つの家族として過ごせたのなら、沢田も望愛に付いていた他の侍従達も安堵する。その感情が望愛を逆撫でするとしてもだ。
故に、沢田はこの場に来るまでの間に覚悟していた。
約束を破る以上、別の何かを差し出す必要がある。金であれ、物であれ、女であれ、一喜を満足させることが出来るのならば沢田は用意するつもりだ。
綱吉に今回の件は伝えていない。全ての責任は沢田が持ち、そしてそのまま持って行く。
彼女の人生は既に救われている。他の誰もが手を差し伸ばさず、唯一の男が手を取って引き上げてくれた。
ならば、その恩に報いることの何が間違いだろうか。――いいや、何も間違いではない。
されど、そんな覚悟などまったく関係無く話は纏まろうとしている。
最初こそ拒絶されはしたものの、望愛の様子を察して一喜は会うに行くよう勧めた。
極めて打算的な理由を語り、最後には半ば不必要とでも言いたげな口調で彼女を綱吉の下に向かわせようとしている。
解決出来るならさっさと解決させよう。彼の態度からはそのような雰囲気が隠さず垂れ流され、好意らしきものは感じられなかった。
色に狂わず、未来を見据えて行動出来る。望愛程の美少女に離れたくないような態度を取られれば男は鼻を伸ばしても不思議ではないが、彼はその中で特に好意の感情そのものを信用していないようだった。
彼は若い。それは見た目から解る。そして、解るからこそ異常だ。
「倉庫街の方々はまだ了承の返事を送ってはいませんが……」
「提案はしたが、彼等は蹴りはしないだろうな。 ……異世界の食事を長い間食わせた恩義は軽くないさ」
若い身ながら遊ばず、堅実だ。
相手がどのように動くかを予想している素振りは、集団を率いる上で絶対に必要な資質だ。最初に会った頃でもそれは僅かに感じてはいたが、今は強烈に沢田に感じさせてくれる。
戦いが心身を鍛えたのだ。向こうは此処とは違って危険に過ぎるから、どうしたって年相応にはいられない。
沢田の目には望愛の方が寧ろ格下に見え始めている。彼女は例え冷遇されているとはいえ会社の令嬢なのに。
「とはいえ、蹴られらのならそこまで。 その時点で食料供給は理由をつけて停止させる。 俺達の懐的にもあれは結構キツイからな」
「――どっちに転んでも想定通りになるようにしたいのですね」
「こっちの流れは俺の本意じゃないがな。 裏切りの可能性を孕むことになる」
彼女が居なければ即座に問題になる案件は、二人の言葉から無いと判断して良いだろう。
尤も、今しかないと見ることも出来る。そしてここで今後の憂いを払えるように立ち回れば、一喜と綱吉の関係を深くすることも不可能ではない。
「まぁ、そういう訳だ。 どうするかはお前が決めて、お前が行動しろ。 大人なんだろ?」
「うッ……解りました。 さっさとあの人に会って適当に元気づけて来ます。終わったら直ぐに戻りますからね!」
「はいはい、解った解った」
頬を膨らませて宣言する様子は子供じみているが、一喜は敢えてそれを指摘しない。
大人っぽい振舞いと呼ばれるものは、子供ではいられなくなった時に身に付けていけば良い。
子供のままでいられるなら、本当はそうした方が良いのだ。大人でいなければならないなんて、そんなのはただ苦しいだけなのだから。
我慢して、相手を騙して、感情を廃する。そんなことが当たり前の如く発生する大人の生活なんて、本音で言えばクソ以外のなにものでもない。
望愛は一喜の突き放すような言葉の中に優しさを感じた。望愛の事を思っての言葉に、胸の内に暖かいものが込み上がる。
そうだとも、彼は決して冷血漢なだけの男ではない。甘いと言われるくらいには優しい側面を持つ、良い人なのだ。
そんな男に並ぶ為にもと彼女は鈍っていた脳味噌の回転を速めていく。
遅れていた分を取り返すように、仄暗い感情をエネルギーに変えてでも。
それが彼女に出来ることだと解っているから。三人の話はそのまま誰もが止めることなく流れていき、数日後に望愛は一喜とは離れて故郷の地に足を付けていた。




