【第百三十話】その男、元の時代でも襲われる
喫茶店と呼ばれる穏やかな空間に突如として肉同士が激突する音が鳴る。
然程大きな音ではなかったとはいえ、それを気の所為であるとスルーするには喫茶店内に漂い始めた殺気は少なくない。
鍛えたこともない素人ですら背筋が凍っていく空間に店員の誰もが動けず、僅かに居る客も発生源から目を逸らせなかった。
「……」
「……」
一直線に飛んで来た拳と、それを受け止める掌。
遊びであると判断するには軋みを上げている拳を見やりつつ、完全な意識外からの攻撃に自身が反応出来たことを一喜は内心驚いていた。
同時に、こんな場所で襲うなんてどんな奴だとも憤慨も抱く。
目立つことになるのは勿論、折角の平和な世界で争いなんて望んでいないのだ。休める時に休みたいと思うのは社会人として当然だろう。
眼光鋭く眼前の相手に視線を動かすと、その手は小さかった。腕に感じる痺れの原因とは思えない程に頼りなさそうで、しかし握られた手は白くなるほど。
更に視線を上に向けていくと、今度は目を見開かされた。
肩より上で切り揃えられた黒髪。同色の瞳にクールな印象を抱かせる秀麗な顔。
忘れる筈も無い。一度見れば羨望を抱かずにはいられない、あまりにも特徴的な女性は望愛の侍従である沢田だった。
今は燕尾服姿ではなく黒のコートで全身を隠し、ブーツまでも黒い。
季節は既に冬に入っていた。寒くなり始める中では彼女の恰好は何も不思議ではないが、しかし本来の彼女の職業を知っていると僅かに不穏なものが漂っている。
「――お久し振りです、と言うにはまだ早いでしょうか」
「……何の用だ」
あまりにも唐突な出現は一喜にはもう慣れたものだ。
いきなり勝負を挑まれることも、尾行されたこともある身では驚くことはあれど焦る程ではない。
鉄塊を何十と乗せたかの如き重量のある言葉を彼は吐き、それに対して沢田は形だけの笑みを返す。
「沢田」
二人の強烈な存在感は周辺を支配するには十分だ。
客も店員も何が起きているのかと頻りに気にしていて、望愛は周りの様子から直ぐに治めねばならぬと言葉を挟む。
とはいえ、望愛としても唐突な暴力と出現に言いたいことがある。
沢田は一喜への視線を望愛へと移し、本心からの微笑を浮かべた。クールな女性が放つ女神が如き笑みは、ただそれだけで並の男性の心を射貫くだろう。
惜しむらくは、相対する男が女の色には酔わないところか。
四人分の席が設けられた机の内、沢田は望愛の横へと座る。勝手な同席ではあるも、それを指摘出来るだけの胆力を店員は持っていない。
ただ静かに水を運び、お決まりの台詞を吐いて去るだけ。
それで良いのかと一喜は睨みたくなったが、今でさえ出禁にされかねない状況だ。
これで店員に対してクレーム染みた真似をすれば、いよいよ店長あたりから出禁を宣告されるだろう。
周囲に他に喫茶店が無い訳ではない。されど、静かで知人の目も無い場所となると此処しかないのだ。
「突然の暴挙、誠に申し訳ございません。 あの頃から一体どれほどの変化を遂げたのかと気になりまして」
「気になっただけでいきなり殴ろうとするのか。 反応が遅れたら顔面に直撃だったぞ」
「そうはならないと信じておりました。 ――お嬢様が傍に居るのですから」
対面に座った沢田は場違いな程に明るい声で軽く返した。
沢田から見て、望愛と一喜の間に不穏なものはない。遠目で見た限りでは寧ろ良好そのもので、間違いなく一喜は彼女の期待に応え続けていると確信させられた。
今の望愛は傍目からでも気合が入っていると解る。すべきことを明確に定め、その道を一直線に駆け抜けようと他を見ていない。
それは物理的な意味ではなく、精神的な意味だ。彼女は自身で決め、一喜以外の男を胸の内に入れることを強く拒絶することにしている。
身内に対しても、間違いなく彼女は線引きをしているだろう。いや、身内であるからこそ望愛は自身の側に寄せ付けようとしていない。
「もし御結婚の日取りが決まりましたら是非御連絡を。 微力ではありますが力になります」
「沢田ッ!?」
雰囲気を和らげる為の言葉は望愛を赤面させるだけだった。
一喜は腕組みをして眉を顰めるだけ。ちょっとした揶揄いだというのにそこまで拒否の姿勢を見せるのはどうしてかと、沢田は不思議そうに見る。
その顔を見て、一喜は溜息を零す。どうしてそうなるのだと不満に塗れているのは明らかだ。
「結婚って――そうなる筈ないだろ」
「……どうしてでしょう? 何が起こるか解らないのが世の常だと思いますが」
「確かに人生何が起こるのかは解らない。 が、これだけは断言出来る。 俺と彼女の間で色恋沙汰は起こらない」
恋愛。結婚。
どちらも一喜にとっては縁の遠い話で、遠いままであってほしい話だ。
自分の隣に伴侶が居る姿が想像出来ないのは勿論、現在の生活環境を鑑みても幸せにしてやれるなどと自惚れることはできない。
自分は一人。誰かと仕事をすることはあっても、それ以上に発展するなど有り得ない話だ。ましてやそれが望愛であるなどと――あまりにも不釣り合いだろうが。
「あの出来事が一体どのタイミングで落ち着くかはまだ不明だが、何れは静かな時間が出来る。 その時になればコイツの酔いも醒めて元に戻るさ」
「元に戻る、ですか……」
沢田は静かに視線を望愛に向けた。
彼女は今の発言を聞いて――――赤い顔を消してにこやかに笑っている。怒っている訳でも、悲しんでいる訳でもなく、一番適当とは思えぬ笑顔を浮かべていた。
沢田の目から見ても望愛が一喜に惚れているのは間違いない。あの日の発言を嘘だとは思えぬし、嘘であれば人間不信を極めてしまいそうだ。
その上で彼女の顔を見て、薄く開かれている瞳に息を呑む。
彼女の姿を見なくなってから長い時間は経っていない。成長するにしても、それは沢田の想定の範囲内に収まる筈だった。
眼前の少女を沢田は知らない。
僅かな時間で何が起きた。何を見た。ただの乙女を捨てて戦士のような目をするなど、普通の出来事ではあるまい。
見たくないものを彼女は見たのだろう。それは死体かもしれないし、破綻者かもしれないし、或いは争いそのものかもしれない。
だが、それはあの世界の様を見れば容易に予想の枠内に収まる。
望愛がそれを予期していなかったとはとても思えず、であればそれ以上の何かを彼女は実際に目にした。
そして自覚したのだ。このままでは以前の自分と同一であると。
誰かの言うことを聞いて、従い続けるだけの道具。愛玩されても何時かは捨てられる奴隷であり、そんな女が一喜の横に居て良い道理は無い。
いいや、そもそも彼の視界に入れてもいけないのだ。馬鹿は馬鹿として浪費し尽くした果てに、何処とも解らぬ場所で死んでしまえ。
甘えを許さぬ彼女の雰囲気は、沢田の知る上位者達と遜色無い。今は経験値が不足している所為で雛のようなものだが、それも直ぐに成長して怪鳥になる。
元に戻るなどととんでもない。糸口・望愛は最早、上位者としての覚醒を果たし始めている。
「沢田」
短く、彼女は侍従を呼ぶ。その言葉の持つ意味を沢田は経験によって把握し、強制的に話を切り上げるしかなかった。
「……あんな世界に居て酔いが醒めるかは私には解りませんが、どうやらお嬢様にとっては鮮烈な経験になっている御様子。 であれば、私からこれ以上の言葉はありません。 どうぞこれからも御関係を深めてください」
「なんだそれは。 ……で、本題にはそろそろ入ってくれるのか?」
一喜は望愛の変化に気付いた様子は無い。
望愛としては今はまだ隠したままにしたいのだろう。ならばと主の意向に従い、沢田は今回の接触について説明を口にした。
「綱吉様が大藤様と今一度お話ししたいとのことです」




