【第百二十三話】博士、本当の悪を知る
博士は歩いていた。
ゆっくりと、ただ若い男の後ろに付いて。胸には未だにこれで良いのかという疑問が過るも、博士の中にある生存への本能がこれを良しと定めていた。
死ぬことも怖くないと思った矢先の心変わりに内心で自身に呆れつつ、街灯が目立つようになっていった街中を歩む。
商店街を抜けて、住宅地の中に入り込み、その奥の薄汚れているような区画に。
周囲を見渡せば団地が犇めき、何処からか何かを殴る音と子供や女の泣き声が聞こえてくる。
道の端にはゴミがそのまま放置され、元は生物だったのだろう塊が変色して腐敗臭を垂れ流していた。その周りには蛆や蠅が集り、新たな繁殖の為の餌として食い尽くされようとしている。
この風景を眺めて、とても治安が良いとは博士は思えない。寧ろ逆に、此処にこそ犯罪者が大量に住んでいるようだ。
「……驚きました?」
「ええ、まぁ……」
「ははは、でしょうね。 この近辺じゃ一番治安が悪い所なんですよ、此処は。 そのお蔭で色々安くはありますけど」
男にとって周りの風景は当の昔に慣れたもの。
博士の不安の声に朗らかに返し、ついに二人は目的地としていた場所に到着する。
男の足がその家の前で足を止め、次いで博士も足を止めた。男が玄関の鍵を開ける鍵をポケットから取り出す中、博士はその嫌に綺麗な一軒家に視線を向ける。
所謂一世帯向けの一軒家は、男が語るように大きかった。外側だけでも数人は住めてしまいそうなサイズの家の周りには鉄の西洋風の柵が置かれ、窓という窓には全てシャッターが降りている。
鍵も二重になっているようで、物理的な鍵と指紋認証を搭載していた。
一段階目に鍵を差し、二段階目に親指をノブに取り付けられた認証機器に当て、軽快な音と共に扉は開かれる。
先へどうぞと男は道を譲り、博士は失礼しますと律儀に口にしながら一瞬だけ目を玄関扉に向けた。
見た限りの材質は金属。木を使っている部分もあるが、扉自体は非常に頑丈だ。
加えて玄関扉の下には空白が無い。余白の許さぬ丁度のサイズは、即ち下から何か物を入れられたくないからこその特別設計なのだろう。
それらを質問することも無しに博士は靴を脱いで、廊下へと足を付けた。
季節は秋。そろそろ寒くなっていく影響か、廊下は冷たく感じる。誰かが居るような気配も感じ取れず、男が扉を閉めた段階で振り返った。
「あんな風景を見たからか警戒していたが、思っていたよりも綺麗にしているのですね」
「皆が皆汚いままにしている訳じゃないですよ。 時々外で家前の道路を清掃する御老人もいらっしゃいます。 それに私自身も汚い部屋というのは嫌ですよ」
「同意です。 ……それで、私はどちらに?」
「一先ずはリビングに行きましょう」
男が前を進み、博士は再度付いて行く。
家内は極めて普通の内装をしていた。豪奢なシャンデリアや価値の解らぬ画や壺があることもなく、真白の壁にフローリングの床や一般的な家具が置かれているだけだ。
ただ、家の規模と比較すると家具の類はあまりにも少なかった。それはリビングに入っても同じであり、室内の大きさと比較しては小さい椅子とテーブル・テレビ・カーペットがある。
デザインも特に凝っている訳ではない。元々が凝り性ではないのか、どうにも寂しさを感じさせるイメージを博士は抱いた。
「椅子にどうぞ。 私は別の部屋から持ってきますので」
「ああいや、私は立ったままでも」
「家に招いたのですから気にしないでください。 実家のように寛ぐことは難しいでしょうが、それでも此処は貴方が暫く滞在するかもしれない家なのですから」
遠慮は無粋である。
若い男の断言するような言葉に博士は何も言い返せず、大人しく一脚だけしかない白の椅子に腰を下ろす。
若い男もリビングから離れて別の黒い椅子を持ち運び、それを対面になる形で置いて座り込む。
外の風が入り込まない家は博士にとって随分久し振りに感じられた。
そもそも、博士にとっては家に帰ることすら稀だ。研究や修理に明け暮れた日々によって碌な睡眠時間も取れず、襲い掛かる睡魔を栄養ドリンクやエナドリで誤魔化していた。
実家のように過ごすことは難しいだろう。けれど、誰にも何も文句を言われない空間とは博士にとって魅力的である。
嫌味を口にする外部の人間との会話が無いのであれば、環境としては天国に近い。
――さて、そんな場所に辿り着いたのであればいい加減聞くべきことは聞いておかねばならないだろう。
博士は佇まいを正し、釣られるように若い男も姿勢を正した。
「改めて感謝を。 このような怪しい人間を助けてくれるなど、どれほど感謝してもしたりません」
「いえ、先にも語った通り私にまったくの打算が無い訳ではありませんでしたので。 あまり気にする必要はありませんよ」
「……その打算。 畜生ではないことを証明する理由をお聞かせいただくことは出来ますか?」
「ええ、勿論です。 ですがその前に――私は巡・回世と言います」
「……そういえば自己紹介がまだでしたね。 私は諸星・雄途です」
ああ、と二人は互いに名前を口にしてから揃って小さな笑い声を漏らした。
こんなことになっているにも関わらず、二人はそもそも自己紹介を交わしてすらいなかった。
何となく気恥ずかしい感情を双方が抱きつつ、けれどそれで場を緩ませてはならぬと博士は咳払いをする。
その咳払いを聞き、巡もまた笑い声を飲み込んで真顔となった。
「話そのものは簡単なものです。 私は少し前まで父と共に暮らしていました。 父は家族をかなり蔑ろにする性格をしていまして、私のことを一度でも愛した覚えはありません」
巡が語り始めたのは彼の過去だった。
巡が生まれてから家庭を蔑ろにする父親と、そんな父親との生活に疲れ切って他所へと癒しを求めた母親。
幼少期の巡の生活を支えたものは母親が義務的に与えた五千円だけで、その五千円札を握り締めたまま四苦八苦しながらスーパーで安い弁当を買い続けた。
まだまだ甘えるべき時分で甘える行為を禁止され、その上で声を潜めることを強制され、本人の価値を極限まで否定される生活はかなりのストレスを与えただろう。
更に言えば、父親は要らない存在に対してはあまりにも無慈悲だった。
五千円を節約して空腹に苦しむ子供を無視して、職場で嫌なことがあった時には殺さない程度に殴る。
酒を飲んで酔っ払えば罵倒ばかりを繰り返し、偶に気分が良い時は無視した上でデリヘルを頼んだ。
どうして父親が彼をそこまで要らない子扱いするのかを、巡自身は教えてもらっていない。
ただ、母親が漏らした弱音が彼に確信とも思えるもしもを残した。
父親は仕事を第一としていて、その為に徹夜をしても苦に感じない人間だ。趣味らしい趣味も存在せず、故に結婚前の父親の家は酷く無機質だった。
それを父親の両親が心配して、見合いの場を作って意図的に結婚を強制させるようにしたのだ。
父親は結婚なんてしたくなかった。母親も心から父親を愛してはいなかった。
彼等が結婚するに至った理由は、親同士の金による取引。つまりは彼等にとって関係の無い損得勘定によって、二人は家族にさせられた。
「それでも当初は仲が極端に悪くなることは無かったようです。 全ては母の愚痴からによる推測に過ぎませんが、何とか友人付き合いのような関係に収めて結婚生活をしていたと思います」
「それが崩れたのは――」
「――ええ、私を妊娠した時です」
二人の仲は互いが互いに線引きをしていたからこそ生まれたものだ。
それが継続されていれば、或いは友人同士の生活の中で心躍らせる瞬間が舞い込んでいたかもしれない。
だが、全てはそうはならなかった。彼等の関係は、やはり二人の両親達によって崩されるに至った。




