【第百二十一話】博士、黒幕と出会う
その当時、博士が飛ばされた世界は極めて平凡に日々を繰り返していた。
子供は子供らしく遊び、学生は青春を過ごし、大人は日々仕事に精を出す。博士が過ごした生活と比較すると技術水準は低いが、彼等の顔には笑顔が溢れている。
そして博士が目覚めた時、場所は砂浜だった。
時刻は夜も遅く、近くに人通りは一切無い。目覚めたばかりの博士は事故を思い出して慌てて時計型の通信端末で連絡を送るも、一時間経とうが二時間経とうが相手から連絡が返ることは無かった。
溜息を吐きながら博士は一先ずと周辺を見渡し、時空間の穴が無いことを確認してから一緒に巻き込まれたカードが全て揃っていることを確かめて歩き出す。
護身用のベルトもカードが入っているアタッシュケースの中に収められたままであり、いざとなればこれを使おうと覚悟を決めていた。
砂浜があり、海があり、そして博士自身が歩ける大地がある。
此処が何処かも解らないが、歩き出して数十分で道路を発見したことで最低限の文明が存在することを彼は喜んだ。
そのまま道路の道に合わせて歩き、足が疲れれば近くのバス停に備え付けられていたベンチで休み、今回の事故についてを推測を脳裏に描く。
とはいえ、カード絡みの現象は予測による部分が多い。既存の法則から外れた結果を多々引き起こすカード達は実に不可解で、解っている範囲も少なかった。
例えば、カード内部には膨大なエネルギーが内包されている。その量は核燃料によって生成されるエネルギーが稚児に見える程であり、如何なる計測器を用いても全てを把握し切ることは出来ない。
そのエネルギーが利用出来れば世界中のエネルギー問題が一気に解決に傾く。
故に研究は盛んに行われ、しかしカードは内部のエネルギーを外側に流すことはなかった。
唯一カード内部のエネルギーに流れが発生したのは、誰かが手に持った時。
加えて言えばその人物に大きな感情が存在する場合にエネルギーが外側へと動き、肉体へ変化を与えようとした。
手に持った際には手から腕に掛けて怪物の如き変容を見せ、カード自体も半ばまで浸食。慌てて引き抜いたことでエネルギーの流入は停止し、同時に肉体の変化も急速に元へと逆転を示した。
この出来事は実験の最中に起こっている。それ為に実験参加者全員が認識し、その上司へと報告書が渡ったことで上層部が知ることになった。
――文明の利器によるあらゆる変化は失敗に終わっている。であれば、残る可能性は文明の利器とは別のアプローチだ。
――しかしそれは、我々の組織の理念とは反する。別のアプローチとは即ち有機体を用いた実験であり、どのような結果が出るのかは不明だ。これは動物実験であろうとも変わらない。
オールドベースは人類の守護を目的とする組織。
当然ながら人を怪物に変えてしまいかねない物体は危険物として処理し、他のどんな組織に奪われることも許してはならない。
日本国政府にもその旨は伝え、カードによる専用の規則が設けられた。
世間にもこれは公表され、各国の首脳陣達にはより詳細な情報を伝えた上で軍事的にも技術的にも活用するのは核より危険と永続的封印が全会一致。
だが、その直後に悲劇が起きた。悲劇によってオールドベースには少なくない被害が発生し、短くも長い戦いが続いたのだ。
その戦いのお蔭で博士の上司であるとある技術者はカードの内情を少しずつ判明させていき、兵器転用に成功させている。
皮肉にもカードの活用法は戦いの中で生まれたのだ。そして戦いがあったからこそ、世界中でカードに対する忌避感が蔓延したのである。
それが封印処理を急がせ、無数に発生してしまったエネルギー同士の激突を放置する理由にもなった。
少し冷静になって考えれば解るであろう。莫大なエネルギー同士が激突すれば何が起きるのかは未知数であり、次元の一時的な崩壊が起きたとしても不思議な話ではない。
検証も何も出来ない所為で未だ暫定ではあるものの、けれど博士はこれが原因であると半ば以上確信していた。
世界的に不安定な空間が広がり、偶発的に全てのカードが一点に集まっているのであれば人間一人分くらいの穴は簡単に生まれる。実際は範囲までは正確に解っている訳ではないが、博士自身しか有機体が居なかった状況ではエネルギーの流れも然程大きくはないと見れる。
――であれば、元の世界に戻れる確率は非常に低い。
空間が崩壊したことで穴に落ち、そしてこの世界に来たのであれば。
元の世界に戻れる確率は低いだろう。何せ道と呼べるものが何一つとして存在していないのだから。
上下左右に何も無い広大な宇宙の中で地球を見つけるようなものだ。
不死身の肉体を持っていても発見までには何万何十万といった時間が求められる。そんな時間を博士は持ち得てはおらず、その上で帰還を目指すのであれば向こうからのアクションを期待するしかない。
少なくとも博士が出来るのはベルトを用いたエネルギーの衝突だけ。この世界の空間そのものを不安定化させて穴を作ることは出来るが、そこからの道を見つけられるかどうかは向こうの対応次第だ。
彼はそのまま、ただひたすらに歩いた。
金は無い。知り合いも居ない。加えて言えば、彼の身形もあまり普通ではない。白衣を纏った人間が歩道を歩く様は少々目を引くものだろう。
この世界が中世であれば物を売ってその金で食べ物の一つでも入手出来たかもしれない。
時間制限は直ぐそこだ。満たされない身体の状態で果たして救いを見つけることが出来るのかどうか――彼は絶望的な未来に苦く笑うしかなかった。
結局、彼が雨水を飲んだりしながら凌げたのは二週間くらいなもの。
公園のベンチでアタッシュケースを枕にして過ごし、スーパー等の試食品売り場で少しの間飢えを凌ぎ、連絡が訪れるのを日夜待ちながらも万が一の可能性を考えてカードを永続的に捨てられる場所を探した。
何処かに埋めるのは無し。燃やすのも不可能。宇宙に投棄したいが方法は無く、最後の手段としては海の底に捨てるくらい。
人道に反する方法を取れば幾らでも博士は生きていけただろう。ベルトを使ってカードの力を引き出せば、完全犯罪なんていくらでも達成出来る。
別世界の人間なのだ。此方の世界にどれだけ迷惑を掛けたとしても、元の世界には何の影響も及ぼさない。
悪魔のような囁きは時間の経過と共に強くなり、けれど彼はそれに屈さなかった。
博士は見ている。本当に勇気ある者の姿を。
困難に困難を重ねた状況でも仲間と共に生きることを諦めず、その全てを成し遂げた偉大なる人物達を。
彼は技術者として後方勤務の人間だった。だから正確に彼等の偉業を知っている訳ではない。
それでも、カードによる凄惨な出来事の殆どを防いだことは歴史に残るべき事柄だと理解している。そこに自身の上司の名もあって、部下である己も多少は関与出来ていたことは誇るべき事実だ。
なればこそ、此処でその誇りを穢すのは違う。例え誰も見ていないとしても、胸を張れぬようになったのであれば終わりだ。そんな自分なぞさっさと死ぬべきだと彼は決めている。
だから、その日を迎えた。
見るからに痩せ細った身体。適当に見つけた寂れた公園のベンチで横になり、後少しで意識すらも無くなるのだろうと夜空を見上げていた。
生きて帰れないのは悲しいが、自分は誇りを胸に死ぬことが出来る。オールドベースの他の死んでいった仲間達同様、自分もまた何の未練も持たずに世を去ることが出来るのだ。
目は死んでいなかった。これから死に逝くと解っていながら、胸には恐怖も不安もありはしない。
いざとばかりに覚悟を決め――――唐突に視界に入り込んだ明りで彼の意識は突然切り替えられた。
「どうしたのですか、こんな場所で」
優しい声が耳を伝え、脳に響く。
顔だけを動かして光の発生源を見れば、僅かに揺れる白い袋がそこにあった。




