【第百十話】その少女、影に会う
『……百十……百十一……』
早朝の静けさの中、周りを竹林で囲まれた緑の中で少女の声が通る。
不自然に作られた小さな広場で白い上衣に紺の袴姿の彼女は竹刀を何度も振るって素振りを続けていた。
呼気は鋭く、前を見据える目は鋭い。されど意欲があると語るには熱は強く、無感情なロボットのような表情とは正反対の彼女は毎日此処で竹刀を振るっていた。
それは暗がりの空が青くなり始める時刻になるまで行われ、丁度千を数えた段階で終わりとなる。
小振りな平石に乗せていたスポーツドリンクを一気に飲み干しては汗で濡れた額を腕で拭い、心地良い疲労に暫し浸った。
細めた目はさながら猫のようで、顎を撫でてやれば鳴き声の一つでも上げてしまうかもしれない。
日課を達成し、少女は途端に感じる背中の重さを務めて無視するように歩き出した。
何度も何度も往復したことで出来上がった獣道を進み、到着するのは古の家と呼ぶべき瓦屋根の武家屋敷だ。
一軒家が三軒も入ってしまいそうな武家屋敷の周りには灰色の塀が積み上がり、そこを越えると人工的な池がある庭が迎えてくれる。
近付いていけば数人の早足の音が聞こえ、この武家屋敷の維持をしている使用人が動き出したことを彼女に伝えた。
気鬱した気持ちを抱きつつ、彼女は順当に入り口から内部に入る。
使用人は雇い主の娘に挨拶の声も言わず、まるで透明人間かのように視線ですらも無視を貫いた。
少女にとっては今更な話だ。
彼女も気にした素振りも見せずに私室に入った。
少女は今年で十四歳だ。若い女であればそれなりにデザインにも拘るものだが、彼女の私室は酷く殺風景極まりない。
白い壁紙、アルミの簡素なベッド。衣服を仕舞い込む箪笥は明らかに年季の入った木製で、床にはカーペットの一つも無い。
私物らしい私物が見当たらず、およそ彼女のパーソナリティを判別する方法がこの部屋からは見つからなかった。
――少女に自由は無い。
彼女の親はとある田舎街の地主だ。江戸の頃より続く名家として田舎街では君臨し、市役所の人間は常に顔色を伺う大物である。
田舎街の地主は昔ながらの性格者が多いも、彼女の親は他よりも柔軟な思考を持って田舎街に常に見つめ続けていた。
田舎における最大の問題は若者離れだ。都会の未来的な技術や夢のある職種が田舎には殆ど存在せず、どうしても縁の下の力持ちめいた職に就くことになる。
それは昔の時代の人間程誇るべきことだと語るが、日々承認欲求が増大してばかりの若者には我慢出来ることではない。
職選択は自由だ。夢を語るのも自由で、その為に人生を擲つことも自由である。
彼女の親はそれを知っていて、故に夢を持ち込むことを是とした。
街内の有力者達との話し合いでイベントを定期的に開催し、テレビやネットへの露出を増やしては生活の補助をちらつかせて移住者の増加を目指す。
農地の削減や木々の伐採を加速させる真似はせず、考えに賛同出来ない者達にも寄り添って妥協案を模索して田舎らしくない喧騒を作り上げた。
『御飯は……パンがあったっけ』
ベッドに放り投げられていた学生鞄を漁り、出て来たコッペパンと蒸しパンをもそもそと少女は食べ始める。
地主の両親は確かに街の人間達に対して好意的だった。それが己の利益の為であるとしても、活性化に動き出すことは両者にとって得になる。
だが、権力者である時点で両親達にも確かに裏はあるのだ。
市長からの裏金、元々の住人に対しての秘密裏の優遇、そして住民増加を目的とした子供の獲得。
この中でも子供の獲得は何時までも消えない地主としての問題だった。
結婚のメリットを並べ、より良い男女を意図的に作り出そうと教育に口を出し、一部の男女には気に入った者にアプローチさせる機会を作る。
始まったのは彼女の祖父母の代からだが、少女が少女として生きている時代でも住人増加は頭の痛い問題だった。
そして――だからこそ彼等は選択したのだ。
多額の援助を条件とした強引な結婚。嫌い合っている相手であってもその上の親同士が納得したのであれば無理矢理に結婚させる。
結婚段階でも莫大な金を与え、更に子供を作れば金を与えると言われ、見合い結婚もせずに繋がった男女は愛が無いまま子供を作ることになった。
勿論、それを全員に通達することはない。これを伝えるのは限られた人間であり、不和を生まない為にも真摯な気持ちは決して消しはしなかった。
けれども、それでも当人達が嫌悪したのであればこの制度は何れ崩壊する。
その崩壊は即ち、権力者である両親達の落伍だ。自由を謳いながらも自由ではない選択をさせるなどと憤慨して外部に漏れれば、即座にこの小さな街から人は離れていくことだろう。
祖父の代から今も続けていられたのは奇跡であり、根回しの強さがあったればこそ。
そして、彼女の親もまたその根回しの為に少女を使うことを決めた。
少女は壁に掛けられたカレンダーに目を向ける。
真っ新な数字だけが書かれている紙の一つに、唯一バツの字が強く書かれている。これが後付けであるのは言うに及ばず、その数字を見る度に少女の気持ちは暗く沈む。
政治を上手く回すには、どうしたって互いが納得する材料が必要だ。善意だけで人は動かず、常にどちらも対価を払って条件を飲み合っている。
今回は別の街の地主との繋がりを深める為、互いの子供を結婚させる政略結婚だ。
向こうの地主の息子と自身の娘が愛によって繋がり、未来の発展を目指していく――表ではそのシナリオで通っている。
だが、そのシナリオに少女は本来関わる予定は無かった。
彼女の上には姉が居る。その姉もまた以前までは彼女と似たような生活をしていて、けれども特別な手段を用いて脱することに成功した。
それは富裕層で稀に見る稽古の一つ。即ち、家の人間が不利に陥ることを回避する為に課せられた剣術において最強であること。
時代遅れ極まりなくとも、自由を目指すのならば先人の意に合わせる方が不都合は起き辛い。
最強とは、つまり他に並ぶ者が居ないこと。彼女の家における最強になれれば、様々な取り決めを武力を用いて無視することも可能となる。
規則を破り捨てられる以上、これは危険人物として指定されることにもなってしまうも、それで自由人になれるのならばやらない道理は無い。
事実彼女の姉はその手段を用いて、天武の力で全てを解決してみせた。
少女は今でも思い出せる。姉が家を出る前に家族に言ったことを、そして妹に向けた見下ろす目を。
――ばいばい、これでアンタ達と別れて自由になれるわ。あ、生贄の方は絶対に逃がさないでよ。私を連れ戻すなんて考えを持たない為にもね。
姉は妹である少女を生贄にした。
自分が助かる為にと妹を捨てたのだ。元より二人はあまり会話もせずに仲も良くはなかったが、それが逆に姉にとっては都合が良かったのだろう。
幼少の頃にそう言われた少女は、これで自分の人生が良い方向に行くことは絶対にないと解ってしまった。
解ってしまったから、小さな頃よりまったく手に付けていなかった竹刀を握って剣術を身に付けることを決めた。
その悉くに両親からの妨害が入って、ついには妹を厄介な子供程度に考えるまでになってしまったのだ。
少女はもう親の笑顔は思い出せない。そも、顔を合わせることもまるっきり無くなってしまった。
学校の行事に参加することも無く、少女の人生はついに一人になったのである。
最強であることを証明する。そうしなければ自由にはなれない。故に、幾度となく父親に挑戦しては敗北しても少女は折れることを許さなかった。
やりたいことは正直何も浮かばない。これがただの生存本能によるものに過ぎないと半ば確信しても、己の人生は自分で決めたいと彼女は願っている。
そんな少女だったからこそ、運命は訪れたのだ。彼女の自由を叶える為に。
『おや、こんな場所に可憐な少女が居るとは』
『ッ!? 誰!』
ある日、竹林並ぶ小さな広場の中で少女は出会った。男か女か、子供か老人かも解らぬ陽炎のような男と。




