【第百四話】その女、ついに対面する
身近に無数の建物が見える風景は望愛にとって慣れたものだ。
実家は東京。大小様々なビルが群れとなって並ぶ風景を幼い頃から見て、そして実際にタワマンの一室を住居としていた。
故に彼女からはこの建物が密集している様は壁にはあまり思えない。息苦しさも然程覚えず、しかしコンクリートジャングルに慣れ親しんでいない者からすれば巨大な建物が集まっている中は狭苦しさを覚えるだろう。
狭苦しさを覚えるのなら、当然彼等が生活出来る私的空間も狭い。
近い順に建物を運んだことで空間はまちまちであるが、それでも彼女が見た限りにおいては大人数が固まることが出来る部屋など片手で数える程度。
一喜の居るアパート周辺が元々商業施設のある場所ではなかったことも災いしている。
お蔭で一人だけで暮らしていく分のスペースはあるが、仲の良い者達が一緒で暮らしていくことは半ば不可能になった。
「どんだけ集まってくれるかなぁ」
望愛は商業区に赴き、台車を見つけてはその上に使えそうな物を乗せていた。
静かになった街中では徐々に徐々にと人が出現し始めている。元から近くには潜んでいたのだろうが、彼等は彼女の姿に僅かにせよ欲情の色を灯した。
痩せておらず、服の破れも無く、美しい顔の持ち主。
男からすればそれは着込んでいても色気があって、しかし同時に手を出すなと理性が最大限の警鐘を鳴らす存在である。
色情があっても外見が整った者に手を出してはならない。そういった者達は総じて、本人か背後に強大な存在が居るのだから。
負け組だからこその危機感知だ。死への道を辿りたくなくとも辿ってしまうが故に、鼻先を掠める死臭に敏感になってしまう。
「――これは、相当だね」
望愛は彼等の視線に気づいている。
作業をしながら独り言を呟き、彼等が明確に手出しをしない理由を覚った。
獣欲は身を滅ぼす。それを知るが故に、彼女に手を出す人間は同種以外に無い。望愛自身は自分を人間だと定義しているが、彼等にとっては彼女もまた化け物の仲間のようなものだ。
特に此処では最近になって建物の急な移動が行われている。轟音が鳴り響き、収まった後に出て来る見知らぬ女など警戒をして当然だ。
この分では勧誘をするのも難しいだろう。諦めを投げ捨てられる程に生への本能を刺激してやらねば、最早彼等が動くことはない。
その手っ取り早い方法が危機を助けるか、手厚い保護を行うかだ。
望愛は実際に目にすることでどれだけこの世界の人間が終わっているかを理解した。
この街の人間の考え方が世界の全てではないにせよ、怪物に飼い慣らされている人間は皆似たような思考を続けている。
抗う意思はとうに無く、かといって死ぬことを完全に受け入れている訳でもない。
実に中途半端。努力を否定し、何もせずに運命の日が訪れることを待つだけの愚者の群れだ。
それは望愛にとって苛立ちを与えるも、同時に致し方ないことだと理性は訴えた。
誰も彼もが頑張って何かを成し遂げられるのなら、彼女の周りにだって成功者は多く居た筈だ。
媚び諂う真似をせず、確りと信念を胸に己の道を駆け抜ける。
それが社会で生きる上では枷にしかならず、曲げることで得る益が多いから人は外道に身を浸していく。
最後には破滅を起こすことになるだろうに、甘美な悦楽の前では足下の地雷も見えてはいないのだ。
だが、そもそもそう言えるのは彼女自身が真っ直ぐ前を向ける土台を用意されたからである。
新たに購入した深緑のジャケットの内側に潜むベルトがあればこそ、彼女は目前の人間達を愚者だと言い切ることが出来る。逆にそれが無ければ、彼女もまた遠からず彼等と同じ末路を辿っただろう。
彼女と彼等の違いは運が良かったかどうか。人生を変える程の出会いが出来たからこそ、今彼女は諦めに浸ることを良しとはしていなかった。
「やっぱり、凄い人だよ」
台車に荷物を乗せて押しながら、彼女は感嘆とした思いを吐き出す。
鬱屈した社会の中で明らかな弱者側でありながら、その精神は極めて強固だ。本人に言えば否定はするだろうが、時折見せる底の無い熱量は容易に人の道を捻じ曲げてしまいかねない。
今はまだそれに晒された人間が少ないものの、一度でも受ければ記憶に強く刻まれてしまう。そして彼を求めて、或いは危険視する。
己の色に染め上げるという点において、一喜という男は非常に強力だ。
それが世界を変えることになると望愛は確信している。この腐った肥溜めのような空間を掃除し、人々を前に向けさせる精神的強者に変えることが出来ると信じている。
だから彼女は彼を見ることを止めず、惹かれていることを自覚させられるのだ。
彼に並ぶ女にならねばならぬ。有象無象の存在のまま、彼から意識を外されるなど断固として認められる筈がない。
もしもそうなったのなら――――望愛に一体何が残るというのか。
「……ッ、頑張らないとなぁ」
息を吐く。よっこいしょと瓦礫を避けつつ、拠点近くまで彼女は足を進めた。
不自然なまでに乱立する建物の近くまで行けば、最早そこに人影は無い。何者かの気配も無いまま無音が続き、けれど今回は朝とは明確に違っていた。
おやと、望愛は視線をそこに固定化させる。
セーラー服姿の若い女の子が建物を眺めていた。乾いた茶髪の女性は何やら眉根を寄せて考え事をしていたようだが、その右足は建物へと一歩を進めている。
十中八九とまでは呼べないものの、その女性が建物に用がある確率は高い。
望愛としては今の段階で余計な介入者が現れるのは歓迎すべき事柄ではなかった。相手が聞き分けの良い相手であれば何もしないが、最悪の場合は武力による脅迫で迫らねばならないだろう。
「お姉さん。 何か用かな?」
「――っえ!?」
荷物の乗った台車をそのままに、望愛は女性へと静かに近付いた。
真後ろから声を掛け、その声に驚いた女性は背後を振り返りながらも距離を取るように後方へ飛び退く。
これが元の世界なららしくない反射だが、此方ではそれがデフォルトだ。態々不思議に思うことも無く、望愛は努めて朗らかな笑みを形作った。
「え、っと……此処を作ったのは貴方、ですか?」
「違うね。 これを作ったのは大藤さんって人だし」
「!」
女性は目を見開く。その目が輝いているのを見て、望愛は内心関係者かと静かに確信する。
一喜が前に集団に属しているのは聞いていた。それが最終的に集団のリーダーによる疑心で別れる形で終わったことも。
彼は仕方ない話だと苦笑していたが、望愛からすればとんでもない話だ。助けてもらった恩があって、更には今後の展望も語ってくれて、全ての資材は一喜本人から出ていた。
今も食料の供給を受けている彼等は、本来ならば一喜に対して深く頭を下げるべきなのだ。それを未だせずにしている時点で、彼等の行いは無礼千万である。
「あのっ、大藤さんに会うことって出来ますか……?」
「――今は会えないね。 資材集めをしている真っ最中だから」
怒りが宿る心中を、しかし望愛は表に出さなかった。
強靭な理性で本能を縛り上げ、震える声を正して普通の言葉を返す。互いに完全な初見であるように見せかけ、女性は彼女の正体に気付きもしない。
女性が求めるのは彼との出会いである。それを全身から発する様に望愛は冷めた。
「じゃあ待つことって……」
「勝手にどうぞ? 別にこの辺りは私達だけの物って訳でもないし」
望愛は朗らかに突き放した。そのまま台車の下へ向かい、建物の中へと物を運び込んだ。




