47.あなたという人は
それから数日、ロゼッタは再び穏やかな日々を過ごしていた。
夜会の翌日には、アバルディアたちは逃げるようにして領地に帰っていったらしい。クローヴィスの脅しが相当効いたようだ。とはいえ、今回の件は口頭注意で済ませるのではなく、セリーナから正式に抗議の文書が送付されている。公の場でロゼッタを貶めることは雇い主であるセリーナを貶めることに繋がる――というのがその理由だ。
『本当に、もっと早くに言ってくれたらよかったのに』
夜会の日までロゼッタの事情を知らなかったセリーナは、唇を尖らせながらそう言った。
『頼りないかもしれないけど、これでもわたくしはロゼッタの雇い主だもの。あなたを守るためにわたくしにだってできることがあったと思うのよ』
『セリーナ殿下……』
今後アバルディアはロゼッタに手出しはできないだろう。しても返り討ちに合うとわかっているのだから当然だ。
夜会の一件でロゼッタの事情を知ったクロエからは『どうして言ってくれなかったの!? 知っていたら、いくらでも話を聞いたし一緒に泣いたのに』と責められたりもしたが、クロエからの愛情を感じてロゼッタは嬉しかった。
そういうわけで、ロゼッタはこれまでにないほど幸せな気持ちで日々を過ごしている。このままずっと、こんな日々が続けばいいと思うほど――それは、常に変化と向上を求めてきたロゼッタにとって、とんでもなく大きな心境の変化だった。
「ねえロゼッタ、知ってた!?」
とそのとき、クロエが慌てた様子で執務室に飛び込んでくる。
「なにをですの?」
「ライノア様のことよ」
「ライノア様?」
息を切らして胸を押さえるクロエに、ロゼッタはそっと首を傾げた。
「ライノア様がどうか――」
「ライノア様、来週から隣国に留学に行っちゃうんだって! 城に来るのは今日が最後らしくて」
「…………え?」
その瞬間、ロゼッタはまるで心臓が止まるかのような心地がした。
「なんでも、王太子殿下が勧めたらしいの。隣国と文官の交換留学の話が出ているから、行ってきたほうがいいって。将来出世をしたいなら、絶対にいい経験になるからって」
「だけど……」
それでは、ロゼッタはどうなるのだろう? ――そう考えたところで、ロゼッタはハッと息を呑む。
(どうしてわたくしがそんなことを思うの?)
ライノアは婚活の対象者ではないし、はっきりと気持ちを打ち明けられたわけでもない。将来の約束も、相手を縛る権利も、隣国への留学という大事な話を打ち明けてもらうだけの関係も、なにも存在しないのだ。
(だけど――だけど!)
気づいたらロゼッタは執務室から駆け出していた。
(どうして? どうしてわたくしになにも言ってくださらなかったの?)
道すがら、無性に腹が立ってたまらなかった。手のひらに爪が食い込み、知らず知らずのうちに瞳に涙が溜まっていく。
王太子の執務室に到着してライノアを呼び出すこと数分、彼はいつもと変わらぬ雰囲気でロゼッタの前に姿を現した。
「突然どうされたんですか?」
「どうしたもこうしたもないわ! クロエからあなたが留学するって聞いたのよ」
「――ああ、そのことですか」
ライノアはそう言うと、静かに目を伏せた。
「ご報告が遅れて申し訳ございません。来週から隣国への留学が決まりまして」
「本当に遅すぎるのよ! どうしてわたくしに言ってくれなかったの?」
「何分急な話でしたし……」
ライノアはそう言って、まじまじとロゼッタを見つめる。それからためらいがちにロゼッタの手を握った。
「会えば決心が鈍りそうだったんです」
「なによそれ……」
「だって、今の僕ではあなたを心から幸せにできないでしょう?」
ライノアはそう言って、ロゼッタの涙を拭った。
「僕は王子でも資産家の領主でもない、ただの文官です。ロゼッタ嬢が求める生活を叶えられるだけの力がありません。けれど、僕はロゼッタ嬢が好きです。あなたを幸せにするのは僕でありたい。そのために必要な力を手に入れたくて、僕は隣国に行くことを決めました」
「だけど――」
「だけど、ほら。会えばやっぱり行きたくなくなった」
ライノアは困ったように笑いながら、ロゼッタのことを抱きしめた。
「あなたの周りにはクローヴィス殿下や資産家の男性はたくさんいるし、僕がいない間に新たな出会いがあるかもしれない。正直に言うと怖いんです。待っていてほしいだなんて言える立場じゃないとわかってますから。それでも、僕は行かなければなりません。今変わらなければ――」
「それじゃあ、わたくしが困るのよ」
ロゼッタはそう言ってライノアの胸に顔を埋める。ライノアは静かに目をみはった。
「嫌なの。あなたがいなくちゃ、わたくしは寂しいの! だって、わたくしの話を聞いて『仕方がないな』って笑ってくれるのはあなたぐらいなんだもの! ダメなところはダメだって言ってくれるし、それでも受け入れてくれる。ありのままのわたくしを見せられるのはライノア様だけなのよ」
ロゼッタはお金のために、たくさんの男性と交流を重ねてきた。けれど、そのせいで自分をたくさん偽って、多くの嘘をついてきた。今思い返しても、それらは必要なことだったけれど、葛藤がなかったわけではない。
ライノアはそんなロゼッタをまるごと受け入れて、愛してくれた。本当の意味で自分を見つめ直すきっかけをくれた。ライノアがいなくなれば、ロゼッタはまた自分を見失ってしまうかもしれない。そんなのは嫌だった。
「大体、あなたがわたくしに言ったのでしょう? 世の中にはお金よりも大切なものがあるって」
ロゼッタはそう言ってじっとライノアを見上げる。ライノアは「言いましたけど」と小さく笑った。
「ロゼッタ嬢からそんな言葉を聞く日が来るとは思いませんでした」
「でしょうね! わたくしが一番そう思っているもの!」
ロゼッタがムッと唇を尖らせる。ライノアはロゼッタを強く抱きしめ直した。
「――ねえ、わたくしも連れて行ってよ」
「え?」
ライノアがきょとんと目を丸くする。ロゼッタはキッとライノアを見上げた。
「ですから、わたくしも隣国へ連れて行ってください! そうすれば、すべてが丸く収まりますもの!」
「すべてって……」
「あなたは将来宰相になるための経験が積めるし、お金持ちへの道も拓ける。そうすれば『今』のわたくしも『未来』のわたくしも幸せにできる。これしかないと思うの」
ロゼッタは真剣だった。
お金を諦めたくはない。けれど、それ以外の幸せ――愛も諦めたくはない。未来の幸せのために今を手放したくもない。だから、どちらも手に入れる。ロゼッタはもう決めたのだ。
「あなたという人は……」
ライノアはそう言ってしばらく押し黙ると、声を上げて笑いはじめた。彼がこんなふうに笑うのははじめてのことで、ロゼッタは少し戸惑ってしまう。
けれど、その表情がとても嬉しそうで、とんでもなく温かかったから、一緒になって目を細める。
(――うん。これがわたくしの幸せ)
ロゼッタはライノアを抱きしめ返しながら、そう実感するのだった。




