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16.なによそれ

『すまない、ロゼッタ。本当にすまない』



 やめてよ。



『私が本当に大事なのはおまえなんだ。けれど……すまない』



 嘘つき。嘘つき。嘘つき!



 ロゼッタの瞳から涙がこぼれ落ちる。

 すまないと思うなら、最初からやらなければいい。そんな簡単なこともわからないから、あの男は負け犬だというのだ。顧みる価値など一つもないし、一生関わらないでほしい。



(どうして今更わたくしの人生に現れるの?)



 例えば『死んだ』という連絡を受けたとしても、会いに行く気など微塵もなかった。それほどまでに、彼はロゼッタにとって、絶対に許せない存在だったから。



「ロゼッタ、ねえどうしたの? 大丈夫?」



 クロエがロゼッタの名前を呼ぶ。急に様子がおかしくなったことを心配してくれているのだ。



(お願い。わたくしの名前を呼ばないで)



 名前を呼ばれて、あの男に気づかれたくない。しっかりしなくては――そう思うのに、体がいうことを聞かない。

 嫌だ。苦しい。もどかしい。



(もう――消えてしまいたい)



 ヒュッとロゼッタの喉が強く締まる。



「ロゼッタ嬢?」



 と、その瞬間、誰かがロゼッタの顔を覗き込んだ。



「あ――」


「大丈夫ですか?」



 涙のせいもあって視界が霞んでいるが、声から判断するに、それはライノアらしい。



「ライノア様! ロゼッタが……ロゼッタの様子がおかしいんです。体調が悪いんだろうけど、どういう状況なのかも聞き取れなくて。私、どうしたらいいんでしょう?」



 クロエがここぞとばかりにライノアに助けを求めている。



「まずはゆっくり休める場所に移ったほうがよさそうですね。……ロゼッタ嬢、自分で動けますか?」



 落ち着き払った声でライノアが尋ねてきた。が、ロゼッタは返事をすることすらままならない。そもそも、何を言われているかもよくわかっていないのだから、当然といえば当然なのだが。



「でしたら、少しだけ、我慢していただいてもいいですか?」


「……?」



 ふわり、とロゼッタの体が宙に浮く。クロエがきゃっ!と声を上げたのと、ライノアの顔が至近距離にある状況から、ロゼッタはようやく自分が彼に抱き上げられているのだと気付いた。



「僕に運ばれるのは嫌かもしれませんが、このままここにいるよりはマシでしょう? 『勝手に触れないでほしい』とか『放っておいてほしい』といった恨み言なら後で聞いてあげますから、今は辛抱してください」



 まるで幼子を宥めるような表情でライノアが言う。



『すまない、ロゼッタ。本当にすまない』


(――うん)



 なぜだろう? ロゼッタの胸が少しだけ温かくなった。



***



「――本当に助かりました。なんとお礼を申し上げたらいいか」


「お礼を言われるようなことはなにも。偶然通りかかっただけですし」


「世の中には、困っている人がいても見て見ぬふりをする方がたくさんいるんですよ!」



 気づいたら、ロゼッタは見慣れぬ天井をぼんやりと見上げていた。クロエとライノアの声が遠くで聞こえる。体はやわらかいシーツで包みこまれており、石鹸とお日様の優しい香りにロゼッタは思わず深呼吸をした。



(それにしても、ここはどこなのでしょう?)



 ロゼッタが横になっている寝台は、シンプルだが造りがしっかりしているし、大事に扱われていることがよくわかる。周りの調度類も品がよく、色合いも揃っていて、落ち着いた印象だ。あんな街中に、こんな形で休憩ができる場所があるとは……。



「それにしても、素敵なお住まいですね! 街から近いですし、すごくオシャレだと思います!」



 と、クロエの声が聞こえてきた。

 どうやらここはライノアの家らしい。寝室と隣の部屋が近いことから、一般的な貴族の屋敷のような大きさはない様子だ。



「無理して褒めなくていいですよ。ロゼッタ嬢たちが普段接している男性の屋敷とはかなり違っているでしょう?」


「無理なんてしてません! そりゃあ、私――というか、ロゼッタはお金持ちが大好きですけど、私はすごくいいと思います。地に足がついているというか、堅実な感じがしますし。私自身、そんなにいい生活を送っているわけじゃありませんから」



 どこか焦ったような声のクロエの言い訳が聞こえる。ライノアがクスリと笑った。



「本当ですって! 侍女の仕事って華やかですけど、お給料はそんなに高くありませんし。私たちが暮らしている部屋だって、狭いし古いし」


「別に、疑っているわけじゃありませんよ」



 ライノアが言う。……少しの沈黙。ロゼッタはなぜか、クロエが嬉しそうに微笑んでいる様子が想像できた。



「それにしても、ロゼッタったら、いったいどうしちゃったんだろう?」



 と、唐突に話題が移り変わる。ロゼッタは思わずシーツを上までひっかぶった。



「これまでにもこんなことが?」


「いいえ、一度も。ロゼッタって元気がありあまっているっていうか、接しているこっちの気力まで奪ってくるような人ですから」


「言えてますね」


(聞こえてますわよ……!)



 シーツの下で、ロゼッタは唇を尖らせた。



「ですから、こんなことははじめてで、私まで動転してしまって」


「……そうですか」



 ライノアが静かに返事をする。なんとなく出て行きづらい雰囲気だ。



(クロエには申し訳ないことをしてしまいましたわ)



 ロゼッタは小さくため息を吐く。

 こんなふうに倒れてしまうなんて、自分でも想像していなかった。もしもクロエが、ライノアがいなかったら、どうなっていただろう? もしもあの男――父親と顔を合わせていたら――?



「大丈夫ですよ」


「「え?」」



 ロゼッタとクロエが同時に声を上げる。どうしてそう思うのか――ライノアは少しだけ間を置くと、落ち着いた声音でこう続けた。



「なにがあったかはわかりませんが、ロゼッタ嬢なら大丈夫でしょう。少し経ったらまた、大好きなお金のためにピンヒールで走り回っている――そんな気がします」


(なによそれ……)



 聞きながら、ロゼッタの瞳にじわりと涙がたまる。


 ロゼッタは本当はそんなに強くない。嫌なことがあれば普通に凹むし、もう立ち上がれないと思うこともしばしばだ。心のなかではしょっちゅう泣き言を言いたくなるし、疲れたと、嫌だと叫びたくなる日もたくさんある。


 それでも――



「当たり前ですわ」



 ロゼッタは笑う。自分自身がキラキラしていたいから。そんな自分が好きだから。嫌なことなど一つもないといった表情でロゼッタは堂々と胸を張るのだ。



「ロゼッタ! もう体は大丈夫なの?」



 寝室から出て二人の前に顔を出すと、クロエが心配そうな表情でロゼッタを見つめる。



「ええ、もちろん」



 本当は、完全に大丈夫なわけではない。

 それでも、今のロゼッタに必要なのは、落ち込むことでも不安に苛まれることでもない。無理矢理にでも理想の自分でいることだった。

 そのことに気づいたキッカケがライノアのひと言というのは癪だが、感謝はしなければならないだろう。



「……相変わらず、元気そうですね?」


「そうでしょう?」



 そう言って互いに笑ったものの、なぜだかライノアには本当の気持ちを――虚勢だと見透かされているような気がしてくる。



(けれど、いいでしょう?)



 それがロゼッタ・クロフォードという女なのだ。

 ライノアはどこか困ったように笑った後、「ええ、ロゼッタ嬢らしいです」と満足そうに目を細める。その瞬間、ロゼッタの鼓動がトクントクンと早くなり、ロゼッタは思わず下を向く。



(なに、これ)



 おそらくは今、顔が赤くなっているに違いない。けれど、そんな状態に気づかれたくなくて――自分でも気づきたくなくて、ロゼッタは「あらそう」と素っ気なく返事をするのだった。


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