37.養蜂箱
ルークは玄関を出て研究室までアーサーを迎えに行く。
研究棟の扉を開け、廊下の先にある昨日の研究室に入ると、机の上に上半身を突っ伏して寝ているアーサーが見えた。
時々見る光景なので驚くこともない。
今日の姿はかなり良い方だ。
今回の寝落ちは、寝不足が続いていたためだろう。
研究を始めると夢中になって時間の感覚が失われてしまうようで、ベッドまで辿り着けず廊下で寝落ちしている時もあれば、上半身だけベッドに体を預け足を投げ出した状態で寝ていて、最初見つけた時は驚いていた。
中でも一番驚いたのは、王都の研究部屋の扉の前で血だらけで倒れていた時か。
部屋に戻るため、内開きの扉を少し開けたところで意識が夢の中へ旅立ったらしい。戸の角に頭をしこたまぶつけ蝶番側に体が傾いて倒れ込んだのだが、体の重さで扉が閉まり、アーサーの体がつっかえ棒の役割を果たしてしまったのだ。
ぶつけた頭からはしばらく血がどくどく出た状態で、そのまま翌朝を迎えたのだ。この時が一番驚いた。
そんなことになってるとは知らず、アイリスが呼びに行くとアーサーの体が扉を塞いでいてほとんど開かない。ちょっと空いた隙間から見えた床には固まった血が見えたのでアイリスは大慌ての大騒ぎ。
研究部屋の窓から確認するため外に回ると、窓から見えるのは、血溜まりと倒れた夫、その周囲の血飛沫で、まるで殺人現場の様な現場だったのだ。
アイリスに手を引かれリビングに入って来たアーサーは頭から出た血で顔の半面に赤黒い血がついており、前髪は上がった状態で固まっているし、肩から腕にかけても血が付着し、まるでゾンビの様だった。
頭は少し切れただけでも血が噴き出るので、それだけでも周囲はとても驚くのだが、部屋の方も大惨事。噴き出た血は、扉と壁と床に散っていたので掃除も大変だった様だ。
アイリスはとても怖かったらしく、泣きながら掃除をしていた。
そんなわけで、机に突っ伏して寝ているだけなんて、可愛いものなのだ。今回も頭から、というか顔からダイブしたようだが、怪我はない様だ。痛くならないように倒れ込むスキルが磨かれているのかもしれない。
今回は、顔にペンの跡と思われる箇所が気になる程度だ。
王宮の仕事は定時で終えるので、この寝不足はルークの事に関してなのだろう。少し申し訳ない気もするが、頑張ってもらおう。
よろしくお願いしまーす!
「父さん、お昼だよ。食べないなら俺が全部食べちゃうよー。」
「食べます!起きます!」
ガバリと起き上がったが、目が開いていない。
「じゃあダイニングに行きましょうねぇー。」
と声をかけ、手を繋いで誘導を開始する。
壁や扉にぶつからないように手を引いていく。アーサーは機械仕掛けの人形のような動きで付いてくる。外に出て玄関に来る頃には目が開き、
「ルーク、ありがとう」
とめっちゃ良い笑顔でお礼を言われた。顔のペンの跡は少し薄くなっている。
どういたしまして。
リビングに到着すると、アイリスが二人分の手拭きをそれぞれに渡してくれたので、手をよく拭って着席する。
アーサーは手を拭いた後の手拭きで顔を拭いていた。
それ、ジジイがやるやつ。
みんなが揃ったところで各々食事が始まる。
食べ始めたところで、なんとなく思っていたことを聞いてみる。
「ねぇ、食べる前と食べ終わる時の挨拶ってこっちの星にはないの?」
「え?ないけど、前世ではあったの?」
「うん。食べる前は『いただきます』これは命あるものを食べるよ。いただくよの意味と、作ってくれた人への感謝を込めた挨拶。食べた後は『ごちそうさま』とか『ごちそうさまでした。』沢山の命をごちそうになりました。と、材料を集めてくれた人、作ってくれた人、料理を作ってくれたに対する感謝の気持ちの言葉。だったと思う。」
「「「「「「それ採用!」」」」」」
え。採用早くない?
「感謝を忘れないためにも良い言葉だな。」
「当たり前になっちゃダメってことよね。何事も。」
「命に感謝する専用の言葉があるのはいいな。」
「誰一人欠けても、今日のこの料理は食べられなかったってことだもんな。」
「ありがたいわぁ。」
色々と思うところがあったっぽい。言って良かった。ずっと気になっていたので、一人心の中で言っていた言葉だ。
「じゃあ仕切り直しましょう!みんな揃って!」
「「「「「「「いただきます!」」」」」」」
声を揃えて感謝を述べる。
ありがとう!!
今日も美味しくいただきます!
食後のデザートは枇杷のゼリーだった。
これは、デイジーばあちゃんだな。きっと。
後で大量にカゴに入れて湖に持っていくのだろう。
と思っていたら、
やっぱり枇杷ゼリーが入ったカゴと、枇杷のカップケーキの入ったカゴが準備された。
それぞれカゴ二つ。量が多い。
自分たちの飲み物とコップもカゴに入れて持参する。長い時間湖にいる気満々だ。
デイジーのテンションがどれほど高いかが伺える。
全員揃って湖に向かう。
精霊白カエルちゃんの棲家に行くのだ。行かないという選択肢はない。
誰一人として欠席するものはおらず、緊張している者もいない。
全員がウキウキしっぱなしである。
デイジーに至ってはスキップせんばかりだ。
男性たちは先に幌馬車の準備をしに、女性たちはカゴを往復して運ぶ。その間ルークは洗い場に置いた“枇杷の子供“を迎えに行った。
水に浸かった“枇杷の子“を水からあげると、それを掴んで戻り、大人たちと合流した。
厩から出て準備万端の馬はブルルルと鼻を鳴らす。
ルークは湖まで行ったことがないので、ジェイクと共に御者席に座らせてもらった。
ずっと御者席に乗りたいと思ってきたが、小さいので落ちはしないかと心配されて乗せてもらえずにいたのだ。今回やっと、一人で乗っても大丈夫だと判断してもらえたのだ。嬉しい!
「では出発しまーす!」
ルークが声を掛けるとジェイクが手綱を引いて出発させてくれた。
湖まで、馬車で行けば十分、ルークの足では四十五から五十分くらいで到着するようだ。
荷物を持って往復することを考えると、馬車で行くのが良さそうだ。デイジーはカエル様との時間を長く取りたいので、馬車の選択肢以外無かっただろうが。
「すごーい!良い眺めー!!」
借り受けたこの土地の周辺は祖父母たちが住む時に整備してあり、湖まで行く道もその範囲なので特にガタつかずに比較的スムーズだ。
舗装された道は大型馬車がすれ違えるほどの幅があり、こんな田舎なのに立派すぎる。
王都からここまできた道もここと同じ舗装がされているはずで、上下水道の公共事業で貰ったひと財産を使い切るためだろうが、やりすぎではなかろうか。
これで、数年に一回メンテナンスが入るそうだが、そのお金も納められているそうだ。
考えたくない金額だ。
どうも貰ったひと財産を使い切りたかっただけの様にも思える。この家の者ならやりそうだ。
両親の室内灯・街灯でもらったひと財産も同じくらいなのだろうか。
いや、上下水道より少ない気がする。
こわいこわい。
家を出て西へ向かう。ユニサス号でここまで来た道、王都に向かう道だ。
この先に分かれ道があるそうで、真っ直ぐ行くと王都方面、右へ曲がると湖に行けるそうだ。その途中に大きな花畑があるので養蜂場を作ったので寄ってくれる事になっている。
デイジーのワクワクを長引かせないために、邪魔をしない様に、ちょこっとだけ見させてもらう。
「曲がるぞー。」
大回りで右に曲がって少し行ったところで馬車を停める。
ジェイクとキースの二人が降り、ルークと一緒にビンの入ったカゴを持って養蜂箱のところまで行ってくれる事になった。
女性たちは日焼けをしないために幌馬車に残る。アーサーは馬車が動き始める頃には荷台で寝たらしい。寝不足だもんね。
眠れる時に寝てください。
養蜂場と呼んでいる花畑は本当に広く端が見えない。
チョロチョロチョロと動くネズミに似た尻尾が花の隙間から見える。白っぽい尻尾もチラリと見えたから精霊がいるのかもしれない。脚に花粉団子をつけたミツバチが沢山飛んでいるのも見える。
豊かだなぁ。
養蜂箱はあちこちに設置しており、順番に蜜をもらっているそうだ。
「ハチミツを頂きに来ましたよ」
とミツバチに声を掛けると、今回ハチミツを採取して良い養蜂箱からミツバチが飛び去っていくので、それを見つけて進んでいく。
この星の共存方法だが、やはり目の前で見ると驚いてしまう。こんな非現実が現実なのだ。
ミツバチと意思疎通が出来るなんて、ファンタジーでしょ!
今日は時間がないので、簡単にヘラで擦って取れる分だけ。また時間を作ってきちんと採取させてもらうそうだ。
「ルーク、なめてみるか?」
「え?良いの?なめたい!」
ハチミツを巣枠から直接掬ったスプーンを渡された。それをそっと口に入れる瞬間少し垂れてしまって顎についてしまう。
「あまーい!!!美味しい!」
スプーンをキースに返すと顎についたハチミツを指で救ってそれも舐める。
ハチミツは香りが良いが料理やお菓子の邪魔はしな程度の物が多いそうだ。とろりとして粘りがあるので、顎のハチミツは全部取りきれなかったが、別に良いか。ヨダレの跡よりマシだ。
ジェイクが巣枠をヘラで擦り、キースが上手にビンに詰めていく。阿吽の呼吸だ。
「二人ともすごい息が合っているね!」
「そうだな。俺たちは幼馴染でずっと一緒に育ったから、余計にな。」
「何年になるのか考えたくないな。半世紀になるか?」
「数えちゃってるじゃないか!」
あはは!と笑う。
ボケツッコミが弱いぞ!仲良しだから許すけど。
大きめのビン三つ分のハチミツをもらったところで養蜂箱を元に戻して「ありがとう。また来ます」で終了した。
飛んで行っていたミツバチが養蜂箱に帰っていく。不思議な状況だ。
使った用具とスプーン、ハチミツの詰まったビンをカゴに入れて馬車に戻る。
「また来たい!出来るなら次は手伝いたいかも!」
ルークが楽しそうに言うのを祖父たちは眩しそうに見ている。
無茶をしなければ蜂に刺されることもない。危険は少ないのでやらせてもらえるだろう。
「近いうちに来ような。ここなら歩いても来られる。」
馬車に乗り込むと、アイリスに声をかけられたので後ろを向く
「早かったのね。ハチミツだけもらってきたの?」
「多分そう。面白かった!」
良かったわね!とみんなに言われ「うん!また来る!」と行って前を向く。
湖に向かう道はのどかだ。これこそスローライフ!
ここにきてから自分の目標としているスローライフばかりで楽しくて仕方がない。
特に何があるわけでもなく、馬車で十分ほどで湖の辺りに到着することができた。




