17-16 : 悪意そのもの
「あらあら……? まあ、まあまあ……」
全身を硬直させたローマリアが、表情までも固まらせて、感心した声を出した。
「これは……影縫いの術式ですか? 何てことでしょう……全く動けませんわね」
「貴様の影、頂いた……」
魔法使いの長の3人目の弟子、影使いが低い声で言った。酷く病弱に見える影使いの、陽光に照らされるその足下には、自身の影がなかった。
「我が影縫いの術式は、何人も逃さぬ封印魔法……詠唱に時間を要し、動作も鈍重ゆえ、戦場向きではなかったが……兄弟子2人が時を作ってくださった……。最早逃げられぬぞ、魔女よ……」
そう呟く影使いの口元は、その手応えに笑っていたが、額には汗が噴き出して、足下はふらついておぼつかなかった。
「ええ、存じておりますわ……影縫いの術式は、第1級の封印術式……。ですがそれは、本来自己とは不可分の存在であるはずの“影”を使役する魔法」
身動き1つ、表情1つ動かすことのできなくなったローマリアが、辛うじて口だけを動かして言葉を続けた。
「貴方……御自身の命を削って、お次は何をなさいますの?」
影使いが、強く光り続ける“魔力連結の指輪”を見やって、青くなった唇をニヤリと広げた。
「私は……“何もせぬ”……。それが……この術式しか使えぬ私の、我が生涯最大の使命であり……今生最後の、役割……」
「よくぞ、魔女を封じてくれた……よくぞ……」
魔法使いの長が、影使いの肩に手を置いて、慈しむように声をかける。
長の周囲には、ただならぬ魔力のオーラが漂っていた。
「……恨んでくれても、構わんぞ……」
長が、押し殺した声で呟いた。
「何を仰います……誇ることはあっても、恨むことがありましょうか」
肩で息をしながら、影使いが弱々しい声で続けた。
「……我ら魔法の求道者を照らす、天の光の御許で……お待ちしております……父上……」
魔法使いの長が、影縫いの術式に命を削り刻一刻と弱っていく我が子を背に、嗚咽を噛み殺す気配があった。
「……先に……待っておれよ……!」
長が、螺旋階段から歩を進め、虚空に足を伸ばした。長のその1歩は虚空を踏みしめ、老魔法使いの身体を宙に浮き上がらせる。
「覚悟せい……災いの魔女よ……!」
影縫いの術式によって動きを完全に封じられたローマリアの目前に、魔法使いの長がふわりと浮遊した。その手に握られた杖には、暗く、それと同時に輝いているようにも見える、闇とも光とも判別のつかない形容し難い魔力の束が渦巻いていた。
「嗚呼……そのための……時間稼ぎ……。我が子を犠牲にしてまで、そうまでしてそれを成す理由は、何ですの? 御老体……?」
500人の魔法使いの魔力を束ねて練り上げた大魔法。その気配を目の前にして、ローマリアがただ純粋に尋ねた。
「明けの国の為……魔導の理を保つ為……ただ、ぬしを滅する為……」
魔法使いの長の気迫を前に、ローマリアの右目がぴくりと僅かに動きを見せる――。
「させぬ」
衰弱していく影使いが追加詠唱を唱えると、封じられたローマリアの足下に落ちる影の中から、十数本の影の腕が伸び出た。それらは魔女を逃がすものかと折り重なり、“三つ瞳の魔女”の異名たる右目を覆い隠した。
その影の腕と、魔法使いの長の気迫、そしてそこに流れる500人の魔法使いたちの“巨人の魔力”に執念を認めた西の四大主、ローマリアは――。
「……アはっ……アははっ」
身体の自由を封じられ、転位することも叶わず、“右目”をさえ塞がれた、“三つ瞳の魔女”は――
「――アはははははははははははははははははははははっ」
封印の影の中で、ただ狂おしく、嘲笑った。
「重力の檻の中で、識りすぎた己の末路を笑うがいい、四大主……!」
魔法使いの長が、杖に込めた大魔法を放った。
声高に嘲笑い続けるローマリアの周囲が、空間そのものが、膨張し、収縮し、鼓動するように変形を始める。
――フッ。
そして、影と魔女の姿が、それらの含まれていた空間そのものが、突如、消滅した。
それと同時に、バタリっ、と、影使いの骸が螺旋階段の上に倒れ込んだ。
虚空に浮遊する魔法使いの長の呟きだけが、静寂の中に響く。
「重力崩壊の術式……空間ごと、無限に潰れ続ける、第1級消滅術式よ……」
……。
……。
……。
「……ふふっ……うふふっ……」
数え切れない騎士たちの犠牲と、己の命と魔力を削った魔法使いたち、そして我が子を贄とまでした長の覚悟。それほどまでの人の意志を、覚悟を前にして――。
「……嗚呼……素晴らしいですわ……」
“三つ瞳の魔女ローマリア”は、それらを前にして、ただ、嘲笑を浮かべて、そこに立っていた。
「……馬……鹿な……」
虚空の中に浮遊している魔法使いの長が、重力崩壊によって消滅した螺旋階段のすぐ真横に無傷で立つ魔女の姿を目にして、顔を青ざめさせた。
「馬鹿な……馬鹿な……!」
老魔法使いが狼狽えたのは、ローマリアを消滅させることに失敗した現実を目の当たりにしたから“だけではなかった”。
「ふふっ……わたくし、こんなにも胸が高鳴るのは、初めてです……」
「人間の魔法使いと、魔法で殺し合いができるだなんて、夢のようですわ……」
「嗚呼、御老体……このローマリアと、魔法の叡智“星海の物見台”を相手に、人の身でここまで届き得たこと、どうぞ誇りにお思いなさい……」
「……ふふっ」
「……うふふっ」
「ふふふっ……」
互いに身を寄せ合い、互いに指を絡ませ合い、深い深い嘲りの笑みを浮かべて、“3人のローマリアたち”が、絶望の淵にいる老魔法使いを見つめていた。
「馬鹿な……なぜ……なぜ……」
しわがれた声で呻く魔法使いの長は、完全に混乱し、息をするのも忘れてしまったようだった。
「ふふっ……嗚呼、御老体、そんなに悲しいお顔をなさらないで……?」
「貴方がたは、本当によく御健闘されましたわ……“人形たち”に打ち勝ち、1度はわたくしを窮地に追い込み、そして今、このローマリアに“禁呪”まで使わせたのですから……」
「うふふっ、さあ、御老体……今のお気持ちを、是非、お聞かせになって……?」
顔を寄せ合う“3人のローマリアたち”のその満面の笑みは、“悪意”そのものだった。
「「「……我が子を無駄死にさせたお気持ちは、如何? うふふふっ……」」」
宙に浮く老魔法使いの顔から、生気が消え失せた。弟子たちが見守る目の前で、その顔に刻まれた皺は見る見る内に深さを増し、皮膚は乾いて萎んでいった。瞳には霞がかかって灰色に濁り、髪の毛は黄ばんだ白色に変色していった。
やがて、骨と皮だけになった指先から杖が滑り落ち――絶望の淵にすべての魔力を零した魔法使いの長は、呆けて弛緩した表情のまま、奈落の底へと落ちていった。
……。
……。
……。
……パキャ。
とても脆く、弱々しい存在がへし折れて潰れる、小さな音がした。
「「「嗚呼……何て……ひ弱……」」」
“3人のローマリアたち”が、3つの翡翠の左目と、3つの濁りきった右目の冷たい視線で地を見下ろして、静かに呟いた。
取り残された魔法使いたちが、一斉に怖じ気づく気配があった。
「し、師匠……っ。そんな、そんなことが……!」
「第1級消滅魔法を……魔法院の奥義でも、適わないなど……」
「もう、無理だ……無理だ……」
その諦めと脱力は、魔法使いのみならず、騎士たちにまで伝播していった。
死人のような顔を浮かべる人間の群れを見やりながら、“3人のローマリアたち”がわざとらしく悲しむような表情をしてみせる。
「嗚呼、お可愛そうに……皆様、あんなに絶望したお顔をして……」
「とても深く、傷つかれておいでなのね……」
「その悲しみ、癒やして差し上げます……」
……。
……。
……。
「……我らの……積み重ねてきたものは、何だったのだ……」
打ちひしがれて螺旋階段に膝をついている魔法使いの背中に、ふわりとした感触があった。
「もう、いいのですよ……」
魔法使いの背中を、ローマリアがまるで母親のように、優しく包み込んでいた。
「とても、疲れたでしょう……? さあ、目を閉じて……ゆっくり、おやすみなさい……」
薄いローブ越しにローマリアの身体の柔らかさが伝わり、魔女のひんやりと心地よく冷たい頬が首筋に寄せられる。肌を撫でる美しい黒髪は絹のようにさらりとしていて、心の落ち着く甘い香りがした。
「あ……あ……」
そのまやかしの母性に包み込まれて、やがて魔法使いの肉体が、ローマリアの姿もろとも、灰色の砂となって、永遠に形を失った。
“数千人のローマリアたち”が、戦意を失った人間たち1人1人と身体を重ねた。偽りの安息に満ち足りた者たちが、抱きしめ合う魔女とともに、砂となって消えていった。
「――第3番、“禁呪書架”……霧散自壊の術式……。甘い絶望は、とてもとても、心地よいでしょう……? うふふっ……」
その禁呪は、疫病のようなものだった。
「ふふふっ……」
被術者の体内の魔力を暴走させ、肉体を自壊させる、ひとつの国をさえ滅ぼし得る、禁呪。
「……嗚呼、素敵ですわ……」
その禁呪は、絶望を糧とする。
「本当に……本当に、素晴らしいですわ……」
――ゆえに、勝利と生に執着する者だけが、この場に生き残るのだ。
「……そりゃどうも」
長剣を抜きながら、隻眼の騎士が言った。
「……」
既にその剣先をローマリアに向けて、紅の騎士が無言で構えていた。
「姉様と、約束したんだ……」
そして“左座の盾ロラン”が、風を纏い、大盾を展開した。
禁書“霧散自壊の術式”が朽ち果て、分身たちが消え失せた“星海の物見台”に、孤独な西の四大主“三つ瞳の魔女ローマリア”が立っていた。
「……アはっ」
――“明けの国”、西方攻略部隊、絶望を乗り越えた残存戦力、騎士150名、魔法使い20名。“三つ瞳の魔女ローマリア”と、対峙。
「……終わらせるよ、魔女」
「ふふっ……えぇ……終わらせましょう……うふふっ……」




