17-1 : “翡翠のローマリア”
――“宵の国”、西方。
――430年前。
――“大断壁”、“螺旋の塔”。
手元で魔法書が“ボッ”と一瞬激しく燃えて、黒い塵に変わり果てて、ポロポロと指先から零れ落ちていった。
「……あら、まぁ」
目をぱちくりとさせながら、彼女が独り、呟いた。開いた魔法書を乗せていた左手には、今は燃え尽きた書物の灰しかない。右手は、驚きに開かれた口元を隠すように、指先が唇に当てられていた。
「あらあら……どうしましょう。灰になってしまいましたわ」
「ローマリアぁ!」
巨大な螺旋階段の遙か階下で、彼女の名を呼ぶ声がした。
「吾が輩は見ていたぞ! また魔法書を燃やしたな!」
ローマリアが下を見下ろすと、ローブを纏った魔族の魔法使いが1人、血相を変えて螺旋階段を駆け上がってくるところだった。
「どうやらそのようですわ。ごめんあそばせ?」
ローマリアが首を横に倒して、にこりと自然な笑みを浮かべて詫びた。
「愛嬌を振りまいても許さんぞ! あぁっ……また書き起こし直さねば……だからぬしは治癒魔法の書棚に近づくなと言ったではないか!」
魔法使いが、足下に散り散りになった魔法書の塵を見て、じれったそうに言った。
「ぬしの魔力の波動は偏り過ぎておる! 治癒魔法はぬしと最も縁遠い系統だと何度言ったら分かるのか!」
「あらあら、そのようにお怒りにならないでくださいまし、長老。えぇ、長老の仰ることは分かっておりますわ。ですけれど、わたくし、治癒魔法にとても興味がありますの」
膨大な数の治癒の魔法書が納められた書棚を見上げながら、ローマリアが長老に語りかけるように呟く。
「傷を塞ぎ、病を癒やし、壊れてしまった物を修復する……嗚呼、とても素敵な魔法ですわ。わたくし、治癒魔法の使い手をとても尊敬しておりますし、憧れてもおりますのよ? ふふっ」
ローマリアは、治癒魔法への思い入れを長老に語り、口元を手で隠して、優雅に笑って見せた。
「で、あるから! ぬしの魔力の波動は、治癒魔法のそれと完全に逆位相なのだと何度言わせる!? ぬしの魔力は、治癒魔法と干渉して、互いを減衰させとるのだ。その結果がこれであろう」
長老が足下の塵になった魔法書を指さしながら、ガミガミと苦言を呈した。
「……魔法書を開くことも許されないだなんて、魔法の探求者の1人として、とてもとても、残念に思いますわ」
ローマリアが、心の底から残念そうに、「ふぅ」と落胆の溜め息をついた。
「う、うぅむ……まぁ、その、何だ。ともすれば、あるいは、ぬしが手にしても燃えぬ治癒の魔法書もあるやもしれんが……やめておけ。“焼失”常習犯のぬしは、これまで“運良く”、魔法書を燃やしてしまうだけで済んでおるが、減衰し合う魔力がぬしの方へ跳ね返ってくるやもしれん。さすればぬしが“こう”なりかねんからな」
長老が、心配しているような表情を一瞬浮かべて、ローマリアの目を見ながら言った。
「ふふっ、お心遣い感謝いたしますわ、長老」
ローマリアが、会釈をしながら可憐に笑った。
「ふむ、今後は気をつけるように。さて、では燃え滓を片づけねば――」
長老が一瞬足下に目をやって、次に顔を上げたときには、ローマリアの姿はそこにはなかった。
「ふふっ、申し訳ありませんけれど、後はよろしくお願いいたしますわ、長老」
長老が首を上に上げると、“螺旋の塔”内部に延々と延びる階段の遙か上方から、ローマリアが顔を覗かせていた。
「わたくしが後片づけをすると、却って仕事が増えてしまいそうですので」
「むっ、待たんか! ローマリ――」
「ふふっ、それでは、ごめんくださいませ」
そして見上げているその視界の中で、長老が瞬きをした瞬間、ローマリアの姿が消失した。魔女の存在の痕跡は、“螺旋の塔”の巨大な内部構造に響く声の残響だけだった。
「……省略詠唱も、術式動作も、予兆さえ見せずに、この足場の悪い塔の中で躊躇もなしに転位するか……まるで呼吸をするようにやってのけよる……。ぬしほど転位魔法の波長と寸分違わず位相が噛み合っている者を、吾が輩は知らぬよ、“翡翠のローマリア”……」
――。
「わたくしは……傷ついて悲しい思いをしている方を、癒やして差し上げたいだけですのに……」
“螺旋の塔”上層部に位置する研究室の中で、机の上に身体を伏せたローマリアが、思い悩んだように溜め息をついた。
翡翠色をした美しい2つの瞳が見つめる先には、治癒の魔法書と減衰し合って跳ね返った魔力に灼かれた、紫の血の滲む手があった。




