16-9 : ならざる者
それは文字通り、自殺行為だった。
突然燃え上がったニールヴェルトに怯んで、“森の民”たちの動きが一瞬止まる。
“烈血のニールヴェルト”にとって、逆襲の足がかりは、その一瞬だけで十分だった。
右手に持った斧槍を振り回し、ニールヴェルトが周囲の“森の民”を吹き飛ばす。
左手に持った“カースのショートソード”で、ニールヴェルトが“森の民”を1体ずつ刺し殺していく。
全身を炎で焼きながら、その赤い火の中で、ニールヴェルトの歪んだ影が陽炎のように揺れた。
「ひははははっ! くくくっ……あーっははははははあぁぁぁぁっ!」
身を焼く炎の中で高笑いするニールヴェルトの姿は、もはや人間とは呼べないものだった。
人間とも呼べず、獣でもなく、当然魔族でさえもない……その狂騎士を呼び表す言葉を見い出せないカースは――。
「……ニール、ヴェルト……!」
――“烈血のニールヴェルト”のその名を呼ぶ以外に、他なかった。
「ひはははっ!……カアァァスウゥゥ……」
炎が空気を燃やすごうごうという音に混じって、火だるまの中からニールヴェルトの低い声が聞こえてくる。
「もぉいいぜぇ、カアァスよぉ……。お前らのことはぁ、北の大山脈でもぉ、南部の町でもぉ、散々……さんっざん、殺したからなぁ。もおぉいいぜぇ……ほらぁ、俺……飽きっぽいからさあぁぁ! これが最後の“狩り”にしてやるよおぉぉ! あーはははははぁっ!」
左右に持った斧槍と“カースのショートソード”を振り回すニールヴェルトには、もう武術の型も、戦術も、情も、何もなかった。人間を人間らしくさせている理性も知性も捨てて、全身を炎に包み、ただ手に持つ道具を振り回し、目に映るものを殺し続ける存在に成り果てる。狂人、鬼人、魔人……その他のどんな言葉で呼んでもかまわない。少なくとも今のニールヴェルトは、およそ“人”とは呼べない者だった。
「ニール、ヴェルト……!」
吐血を繰り返しながら、カースが怯えた猛犬のように姿勢を低くして、ニールヴェルトを睨みつけた。
カースのその視線に気づいたニールヴェルトが、炎の中でぎょろりと目玉を回して、魔族ならざる者と、人ならざる者の目が合った。
「あぁ……そこで待ってろぉ、カアァスウゥゥ……すぅぐ、ぶっ殺してやるからよおぉ……ははっ、ひははっ」
――“死”。
ニールヴェルトの目を覗き込んだカースの脳裏に、そのイメージが鮮明に浮かんだ。
ドクン、ドクンと、カースの心臓が早鐘を打ち始める。深々とダガーを刺された横腹の背が熱くなり、喉を上ってきた血が口からゴボリと噴き出した。
ドクン、ドクン。
“烈血のニールヴェルト”が、瞬く間に“森の民”たちを惨殺していく。
ドッ、ドッ、ドッ。カースの鼓動が、どんどん早くなっていく。
「カアァスウゥゥ……」
殺戮を尽くし、“森の民”の死体の山を積み上げたニールヴェルトが、ゆっくりとカースに近づいてくる。
ドッドッドッドッ。余りの脈動の早さに、カースは目の前が霞んでいた。
「……。……死ねぇ……」
身動きの取れないでいるカースの目の前に立ち止まったニールヴェルトが、火だるまの手に握った“カースのショートソード”を振り上げて、一切の躊躇いもなく、それを振り下ろした。
キイィィーン……。カースの耳は、自分の心臓の音を聞き取れなくなり、朦朧とする意識と、耳鳴りだけがそこにあった。
「……キイィィィャァァァァ」
そして、“カースのショートソード”が突き立つ直前、カースの腹の中から奇声が聞こえ、“新たな南の四大主”の腹を突き破って生えてきた6本の節足が、その凶刃を弾き飛ばした。
***
「……」
“支天の大樹”の枝葉が焼け落ちてくる野営陣地のただ中で、ニールヴェルトは呆然として立っていた。全身に被った油はすべて燃えつき、狂騎士の身体から火の手は消えている。
§【――腐敗沼に沈殿する泥は、“不浄の泥”と呼ばれている。“溶鉄蛭”が体内に貯め込んだ金属成分もろとも腐り果てて泥化したこの物質は、極めて燃えにくく、熱を遮断する性質を持つ。この超耐熱素材は、古来より鍛冶師に珍重されている。超高硬度鋼“蒼石鋼”を溶かしうる高温に耐える炉は、この“不浄の泥”なくしては作れ得ない。だが、この“不浄の泥”は、“暴蝕の森”の深部でしか採取できない稀少物質である。命に代えてもこの素材を手に入れようとする者は、稀であろう――】
ニールヴェルトの全身を覆っていた“不浄の泥”は、炎に舐められて硬化していた。狂騎士が身体を動かすと、乾いた表面にヒビが入り、パキパキと音を立てて泥が砕け落ちていった。
「……やろう、何しやがったぁ……?」
ニールヴェルトが、顔をひくつかせながら、忌々しそうに独り言を漏らした。
「“あれ”が、“手記”にあった“カースの宿仔”かぁ? 攻撃してきたぞぉ……? “手記”にはそんな記述、なかったがぁ……」
ニールヴェルトがぶつぶつと呟いているその場に、カースの姿はなかった。
「遊びすぎたなぁ……逃がしちまったぜぇ……」
ニールヴェルトが左手に握っている“カースのショートソード”には、カースの腹から伸びてきた節足によって、3本の掻き傷がざっくりとついていた。
「まぁ、いいぜぇ……逃がしちまったもんは、見つけ出して、殺せばいいだけだからなぁ……ついでにお前らの“家”まで、案内してもらうぜぇ、カースよぉ……」
地面に点々とついたカースの血痕を見下ろしながら、ニールヴェルトがニヤリと口元と目を歪めた。
「おぉい、生き残りは返事しろぉ」
戦闘の緊張感が解け、ふぅーっと溜め息を漏らしながら、ニールヴェルトが誰に向けるわけでもなく、夜明けを迎える“森”の中に向かって言った。
「……ニールヴェルト、総隊長……」
ニールヴェルトの声に応えて、野営陣地外周部で腐食性ヘドロの雨と“溶鉄蛭”から逃れることのできた銀の騎士たちが、弱り果てた声を発するのが聞こえた。
「ははっ、よぉ、うまく生き長らえたなぁ、お前らぁ。全滅してるかと思ってたぜぇ」
生き残った銀の騎士たちの姿を見ながら、ニールヴェルトは軽い声で笑い飛ばした。
「……っ」
全身に火を放ったニールヴェルトの、人を逸脱したような闘い振りを遠目に見ていた銀の騎士たちは、ニールヴェルトのその嗤いに、不気味な寒気を感じないわけにはいかなかった。
「……あ? なぁに黙り込んでんだぁ? まぁ、いいやぁ……俺はカースを追う。お前らはぁ、“そこ”からうちの殿下を引きずり出しとけぇ」
炎上を続ける“支天の大樹”の巨大な幹を伝い歩き、“暴蝕の森”の更に深い場所へと向かっていくニールヴェルトが、振り向きもせずに親指で背中を指さした。
ニールヴェルトが指さす先には、降り注いだ腐食性ヘドロと“溶鉄蛭”の粘液によってドロドロに溶けた、“特務騎馬隊” 紅の騎士たちの折り重なった山があった。
「多分ん、まだ生きてるからよぉ。さっさと出してやれぇ。溶けた兵士の肉汁で溺れ死ぬとかぁ、マァジ笑えねぇからなぁ。ははっ」
銀の騎士たちが慌てて紅の騎士たちの溶けた山に向かう気配を背中に感じながら、ニールヴェルトが興味もなさそうに手の平をヒラヒラと振り、やがて狂騎士の姿は“森”の深い闇の中へと消えていった。




