16-8 : 驕り
“紅の騎士だった何か”たちを振り落とす間もなく、カースと“森の民”たちの周囲が、再び炎で包まれる。
“支天の大樹”の近場の枝葉には、もう逃げ場はなかった。“紅の騎士だった何か”たちの特攻によって、樹上はカースたちの見渡す限り、燃えさかる炎一色となっていた。
「くっ……!」
忌々しそうに顔を歪めながら、カースがフィィィーと口笛を吹いた。その笛の音を聞いた“森の民”たちが、炎から逃れるように高い樹上から一斉に飛び降りて、猫のように身体のバネを利かせて地面に着地する。
最後にカースが地面に降り立って、壊滅状態となった明けの国騎士団“踏査部隊”の野営陣地を見渡した。
野営陣地には、“溶鉄蛭”によって鎧を喰われ、腐食性ヘドロを浴びてドロドロに溶けた人間の肉の塊が無数に転がっていた。ヘドロでグシャグシャになった地面の上を、そのヘドロを求めて集まってきた無数の“誘鳥虫”たちが埋め尽くしている。
それはまさに地獄絵図、悪夢の光景、そのものだった。
樹上で激しく燃える炎に照らされた陣地の一角に、カースが目を向ける。その目が見る先は、“支天の大樹”に火を放った狂騎士、“烈血のニールヴェルト”が立っていた場所だった。今は狂騎士の姿は見えず、代わりにニールヴェルトを庇って折り重なった紅の騎士たちの溶けたものが 一塊になって、山のように盛り上がっているだけだった。
「“仕え主”様への蛮行……お前の死体だけは、ただでは地に還さん……」
フィィィー、と、カースが口笛を吹くと、“森の民”たちが紅の騎士たちの溶けた山を棍棒のようなもので突いて、解体を始めた。その溶けた肉の下に横たわっているであろう、ニールヴェルトの死体を求めて。
――プクッ。
自らの生まれ故郷でもある“暴蝕の森”の中で、地の利を活かすカースたちに打ち勝つことは、“森”の外の者には至難のわざである。
――プクッ。
そのことは、カース自身が、1番よく知っていた。
――プクプクッ。
カースは、“暴蝕の森”の生態と地形を完全に把握している。それは“森”の中を主戦場とするカースにとって、絶対の自信となっていた。
――プクプクプクッ。
そしてその、本来言葉を解さぬ種族に宿った知性がもたらした、“驕り”という感情が、カースにとって、致命的なものとなる。
――プクプクプクッ。
理性ある人間が、そんなことをするはずがないという、“驕り”。
――チャプッ。
自分なら絶対に、そんな馬鹿な真似はしないという、“驕り”。
――ザバッ。
カースには、想像もできなかった――“森”に住むカースでさえも嫌悪を感じる腐敗沼のその泥の中に、ニールヴェルトが頭の先までその身を沈めて、じっと機を伺っていようなどとは、全く考えに浮かばなかった。
フィィィー……ィ……。
カースの吹く口笛が、背後から伸びてきた泥まみれの手で塞がれて、途絶えた。
「……っ!」
カースは一瞬何が起きたか理解できず、目を驚きに見開いた。
――ドスッ。
「……ゴホッ……!?」
カースは、横腹の背に鋭い熱を感じた。そして次に、カースは血が喉の中を上ってきて、息が詰まる感覚を覚えた。肺に血が流れ込んだ苦しさに咳き込むと、泥まみれの手で塞がれた口元から、ゴボリと血が溢れ出た。
「……よぉ……かくれんぼは、俺の勝ちだなぁ……カースぅ……」
カースの口元を背後から塞ぎながら、腐敗沼の腐った水と泥を全身に被ったニールヴェルトが、不気味な嗤いを含んだ声で囁いた。
「……ぎ……ざ……ま゛……っ」
“カースと呼ばれた女”が、溺れるような声で言葉を発した。カースの口を塞ぐニールヴェルトの手の隙間から、紫色の吐血がボタボタと滴り落ちる。
「……ひははっ……」
ニールヴェルトが嗤いながら手首を返すと、背後からカースの脇腹を貫いたダガーが体内でグルリと回転して、内蔵をねじり上げた。
「グブッ!? ア゛……ガ……っ!」
更に多量の紫色の血が、カースの口から噴き出した。
自身の血に溺れて呼吸ができなくなっているカースを、ぐっと引き寄せて、泥まみれの頬が触れるまで顔を近づけて、ニールヴェルトがカースの耳元で囁いた。
「……俺には、覚悟がある……死ぬまでは、手加減抜きで生きてやるっていう覚悟がなぁ……たとえ溶けた死体の下敷きになろうが……腐りきった沼に頭の先まで潜ろうが、だ……。……言っただろぉ? 『生き残るのは、いつだって、“生き残ろう”とする奴だけだ』ってなぁ……」
ニールヴェルトが、口と目を半月型にニヤァっと歪めて不気味に嗤いながら、その歪んだ口から舌を伸ばして、顔を寄せているカースの吐血に染まった首筋を、ベロリと舐めた。
「っ!」
首筋を這うニールヴェルトの舌先の不気味な感触に激昂して、深手を負ったカースが肘鉄を打った。
肘鉄を食らったニールヴェルトはよろめいて、カースから手を離す。
「むっ……! ……っ! ……はははっ、まぁだまだ、元気あるじゃねぇかぁ、カースよぉ……」
腐敗沼の泥まみれになったニールヴェルトの不気味な嗤い顔は、もはや人間のものとは思えないものだった。
「……っ! ゴホッ……! ぐっ……ガッ……ア゛ハ……っ!」
ニールヴェルトの拘束から逃れたカースは、深手を負いながらも素早い身のこなしで跳躍して、狂騎士と距離を開けた。間合いを取った先で、むせ返りゴボゴボと血を吐き続けながらも、カースの目には獣由来の鋭い眼光が依然として宿っていた。
「ひははっ、ツイてるなぁ、カースぅ。今の拍子で俺がお前に刺したダガーを抜いてたらぁ、お前今頃、血を流しすぎて動けなくなってたぜぇ? “この前”は、こんなことなかったのになぁ。ははっ、やっぱお前が“雌”だからかなぁ? なぁんとなく、手加減しちまったのかもなぁ? 割と俺好みだぜぇ? お前。くくく……ははは……」
「……ハアー……ァ……ハアー……ァ……」
脇腹の背にダガーが突き立ったまま、カースが息の漏れるような音を立て、深くゆっくりとした呼吸を繰り返す。致命傷を負った者特有のその呼吸音を聞いて、ニールヴェルトは“狩る者”の表情で嗤い続けていた。
「……ハアー……ァ……うっ……! ゴボッ……! ……図に、乗るな……人間……ハアー……ァ……もう、逃れられん、ぞ……!」
……フィ……ィィー……と、カースが弱々しく口笛を吹いた。その音に導かれた数十体の“森の民”たちが、牙を剥き出しにして、一斉にニールヴェルトに飛びかかっていく。
それは、南部の町で“古い蝕みのカース”が、ニールヴェルにとどめをささんと配下をけしかけたのと同じ、全方位からの同時攻撃だった。
かつて、“遺骸の脂”によって“古い蝕みのカース”を含めた“森の民”を無力化させ、窮地を乗り切ったニールヴェルトだったが、今この場所に、“遺骸”はなかった。たとえそれを持っていたとしても、“森の民”以外の“森”の魔物を誘引してしまう“遺骸”をこの場で使うのは、まさに自殺行為でしかなかった。
カースは期さずして、かつてと同じ戦法でニールヴェルトを襲い、対するニールヴェルトは、かつてと同じ必勝の手を使えずにいた。
「ひはは……ひはははっ! そぉだぁ! 樹の上からまどろっこしい攻めなんてせずによぉ! そぉやってぇ、正面から束になってかかってこいぃ! もっと俺を、愉しませろよおぉぉ! ひははは、ひははははぁぁ!」
人間の表情からはかけ離れた、悪魔のような嗤い顔で顔面をグニャグニャに歪めたニールヴェルトが、飛びかかってくる“森の民”たちを迎え入れるように両手を大きく左右に広げた。
その両手には、紐に吊された油壺が握られていた。
ニールヴェルトが、油壺をぶんぶんと高速で回転させて――勢いをつけた油壺を、溶けかかっている自分の甲冑に叩きつけた。
ガシャンと壷が割れる大きな音がして、ニールヴェルトの全身が、引火性の油でベトベトになる。
そして――。
そして、樹上の大火でパチパチと跳ねた火の粉の1つが、ニールヴェルトの肩に触れた。
瞬間、ゴオォォォ、と、空気が膨張する音がして、油に濡れたニールヴェルトの全身にあっという間に火の手が回り、狂騎士を火だるまに変えた。




