16-7 : 怖気立つ景色
ごうごうと炎が燃え盛る“支天の大樹”の枝の間で、“森の民”たちが上げる無数の威嚇するような声が聞こえる。それは、火に怯える野生動物が上げる鳴き声、そのものだった。
「所詮は人間でも魔族でも、魔物でもないただの獣だなぁ! 獣は火が怖いってぇ、相場が決まってるよなぁ! はははぁっ!」
ニールヴェルトが高笑いして、カースを挑発するように言った。
「ニールヴェルト! 奴らを不要に煽るな! さっさと追い払うか、全て始末するかしろ!」
銀の騎士たちが“溶鉄蛭”に苦戦している中、紅の騎士たちの円陣に護られているアランゲイルが、イラついた口調で声を荒らげた。
「……あぁ? 殿下ぁ。殿下の方こそ、いらないこと言わないで下さいよぉ……死人みたいに黙ってろっつっただろうが……萎えるんだよ、お前の舐めた口聞いてると……」
顔を不機嫌に引き攣らせたニールヴェルトが、アランゲイルに向かって冷徹な視線と言葉を送る。
「っ……!」
ニールヴェルトに睨みつけられ、アランゲイルは思わず口を噤んだ。反射的にそうしてしまったことが腹立たしく、王子は拳を固く握った。
……そのことが、火矢を放って以来カースの姿を捕らえ続けていたニールヴェルトの視線が逸れたことが、状況を動かすこととなる。
アランゲイルを黙り込ませ、ニールヴェルトはすぐさま樹上に視線を戻した。が、燃え盛る炎で照らし出された枝葉の間には、カースの姿も“森の民”たちの影もなかった。
「……人間……私は四大主“蝕みのカース”……我が名と、“淵王リザリア”陛下と、“仕え主”様……それ以外に覚えておかねばならぬ名など、何もない……」
ニールヴェルトの直上、まだ火の燃え移っていない“支天の大樹”の枝陰から、カースの冷淡な声が聞こえた。
フィィィー、と、カースが夜明け前の闇の中で口笛を吹いた。
そして、闇に溶け込んだ枝葉の上で、“森の民”たちが一斉に身体を上下に揺らし始める。
ボトリ、ボトリ。“森の民”たちが激しく揺らす樹上から、何かが降ってくる。
ボトリ、ボトリ……ブクブク……。
それは、肉と骨を溶かす、腐食性ヘドロだった。
“支天の大樹”の枝先に密集する、数え切れない“梢宿り”が、ガサガサと揺れる枝葉にへばりついていられなくなり、腐食性ヘドロの雨となって野営陣地に降り注いだのだった。
「ぎやあぁぁぁ!」
「あ、脚が……脚が溶けるぅ……!」
「ニールヴェルト隊長ぉ……! アランゲイル様ぁ……!」
野営陣地の至る所から、腐食性ヘドロに触れてしまった銀の騎士たちの悲鳴が上がった。
腐食性ヘドロの雨を浴びながら、地面に倒れ助けを求めて手を伸ばす騎士は、甲冑の中身が溶けて、ブリキ人形のようにガラガラと崩れてバラバラになった。“溶鉄蛭”に甲冑の一部を喰われて胴体が露出している別の騎士は、ヘドロの塊の直撃を受けて、腹に大きな穴が空いて向こう側の景色が穴越しに見えた。
腐食性ヘドロの雨が降り注ぐ、野営陣地の中央部に構えていた騎士たちは、ほぼ壊滅状態であった。辛うじて被害を免れたのは、野営陣地外周部にいた少数の騎士たちだけだった。
……そんな中、腐食性ヘドロが降り続ける野営陣地の真っ直中にいた、ニールヴェルトとアランゲイルは……。
「ひははっ、くそったれがぁ……えげつないことしやがるぜぇ……」
動物的な直感で、腐食性ヘドロが落下してくる直前に危機を感じ取ったニールヴェルトは、一瞬の躊躇いもなく、足下を這っていた1匹の“溶鉄蛭”を担ぎ上げて、己の肉の盾とした。
ニールヴェルトの身代わりとなって腐食性ヘドロを浴びた“溶鉄蛭”の体が、ブクブクと溶解していく。
“溶鉄蛭”を盾とすることで、自身の身体が溶け落ちるのを防いだニールヴェルトだったが、“溶鉄蛭”を担ぎ上げて、そのヌメった体表に触れている部分の甲冑が、ジュワジュワと発泡音を立てて見る見る内にグズグズに分解されつつあった。
腐食性ヘドロを浴びて溶けていく“溶鉄蛭”、その“溶鉄蛭”の下で甲冑が分解されていくニールヴェルト……“溶鉄蛭”を溶かし破ったヘドロが、ニールヴェルトを直撃するのは時間の問題だった。
「くくく……ははは……あーははははぁ! やべぇ、やべぇ、やべぇ! だーいピンチだぜぇ! ひは、ひははは! “これ”だよ、“これ”ぇ!」
まさに今この瞬間、“溶鉄蛭”が溶け千切れて、腐食性ヘドロが自身を直撃するのではないかという恐怖とストレスが、ニールヴェルトの内蔵をねじくり回し、目眩を起こさせた。
生命の危機に立たされて、溶けて小さくなった“溶鉄蛭”を担ぎながら、ニールヴェルトは狂気の嗤い声を上げた。
「“死”がすぐそこにあるのが分かるぜえぇぇ! でもなぁ、俺は生きてるぅ! まだ生きてるぜえぇぇ! ここで俺は死ぬのかなぁ!? それとも生き残るのかなぁ!? 堪んねぇなぁ! この感じがよおぉぉ! あーははははぁぁぁ!」
“溶鉄蛭”が、ウネウネとした原形を完全に失い、ドロドロの液体に変わり果て、ニールヴェルトの手の平から流れ落ちていく――。
――ガシャガシャガシャガシャ。
ニールヴェルトが肉の盾を失うのと同時に、十数人の紅の騎士たちが駆けつけて、狂騎士の上に折り重なった。
紅の騎士たちの肉が溶ける、ブクブクという音が聞こえる。
その光景は、紅の騎士の円陣に護られていたアランゲイルの下でも起きていた。
ニールヴェルトとアランゲイルを庇い、降り注ぐ腐食性ヘドロを全身に浴びる紅の騎士たちは、ブクブクという溶解音の他に、苦痛の声ひとつも漏らさず無言のままだった。
***
「何だ、貴様らは……」
“梢宿り”を“支天の大樹”から落下させ、人間たちの野営陣地に腐食性ヘドロの雨を降らせながら、カースが怪訝な声で呟いた。
ニールヴェルトとアランゲイルに折り重なった者たちとは行動を別にして、数十人の紅の騎士たちが、“支天の大樹”の根本に向かって近づいてきていた。
腐食性ヘドロを浴びながら、紅の騎士たちはただ無言のまま、ズンズンと一定の歩調で歩き続ける。
全身から、ブクブクという溶解音が聞こえていたが、紅の騎士たちは、構うことなく歩き続けた。
両手の平が溶け落ちようと……腕が肩から崩れ落ちようと……腐食が骨にまで到達して、体重を支えきれなくなった脚がボロリと千切れようと……紅の騎士たちは、歩き続けた。歩けなくなった者は、ズルズルと地面を這って進んだ。
紅の騎士たちが進む先、“支天の大樹”の根本と野営陣地との間には、樹上の大火で焼け落ちた大枝が、燃えながら横たわっていた。油と木を燃料として、その炎は止めることのできない勢いで燃えさかっていた。
紅の騎士たちは、その炎に向かって一直線に歩いていく。
「気でも振れたか……? 紅い鎧の人間よ」
カースが樹上から見下ろす先で、紅の騎士たちはみるみる内に溶けて千切れていく。その上、生き残っている“溶鉄蛭”が群がってきて、動きの鈍くなった紅の騎士たちに覆い被さり、肉だけでなく、その鎧までも溶かしていった。
肉も鉄も溶けて、形の崩れていく“紅の騎士だったもの”たちは、それでも――。
ズチャリ……ズチャリ……。
――それでも、前に進むことを、止めなかった。
溶けた紅色の甲冑の中から、“何か”が這いずり出てきたが、その場所はちょうど炎の影になっていて、カースの目にはその姿が見えなかった。
ドサリ……ドサリ……。
“紅色の甲冑の中身”たちが、その身を炎の中に投じていく。パチパチと、炎の中で何かが燃えて弾ける音がした。
そして次の瞬間、その炎の中から、火の塊となった人のような形をした何かが、四つん這いになって、ガサガサと素早い動作で飛び出してきたのを、カースは確かに見た。
その“何か”たちは、火だるまの身体で“支天の大樹”に素早くよじ登り、カースたちめがけて這い上がってきた。
「貴様らは、何だ……“本当に、人間か?”」
全身を炎に包んだ“何か”たちが、一目散に足下に這い上がってくる光景を見て、カースはどうしようもなく、背筋に薄ら寒さを覚えた。




