16-2 : 樹木の覇者
――ベチャリ。
アランゲイルの頭上に差し出された腕が、間一髪のところでヘドロを受け止めた。
アランゲイルの頬に、冷たい汗が一筋流れる。
「……。……おぉっとぉ、良かったですねぇ、殿下ぁ。ギリギリセーフですよぉ……」
その様子を何もせずにじっと見ていたニールヴェルトが、口角をニヤリと吊り上げて、ヘラヘラと嗤いながら言った。
「勇敢な騎士たちにぃ、感謝ですねぇ」
鮮やかな紅色をした、特異な甲冑を身につける“紅の騎士”――宰相ボルキノフの回し者たちである“特務騎馬隊”の1人が、無言のまま片腕を差し出し、腐食性ヘドロからアランゲイルを守ったのだった。
「……ふん……。そうだ、“特務騎馬隊”、お前たちはそうして、私を守っていればいい」
アランゲイルが澄ました顔で、ヘドロを受け止めた紅の騎士の脇を通り過ぎる。
「……」
ヘドロの直撃を受けた紅の騎士は、無言のままでいたが、だからといって決して無事であるというわけではなかった。肘の関節部分に付着したヘドロが、甲冑の隙間から内部に浸入し、紅色の甲冑の内部からブクブクと肉の溶ける音が聞こえてくる。
「……っ」
……ガシャリ。それは、ヘドロを受け止めた紅の騎士の、肘から先の部分が溶け落ちた音だった。続いてボタボタと、腕の溶けた断面から赤い血が大量に滴り落ちる音がする。
その見るに堪えない重傷を負った紅の騎士の下に、救護班に所属する銀の騎士が血相を変えて駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫か……!? うっ……こ、これは酷い……! 待っていろ、せめて痛みが鈍るよう薬を――」
サッ、と、紅の騎士が無事な方の腕を上げて、銀の騎士の言葉を遮った。それから、首を横に何度か振ってみせる。
「……何だ? 何が言いたい?」
紅の騎士が何を訴えようとしているのか汲み取りきれず、銀の騎士が手をこまねいていると、“特務騎馬隊”に所属する別の紅の騎士数人が近づいてきて、負傷した紅の騎士に肩を貸してその場に立たせた。そしてそのまま救護にやってきた銀の騎士に背を向けて、ニールヴェルトたちの後を追い始める。
「……明けの国騎士団の手助けは不要だとでも言いたいのか……あのどこから来たとも知れぬ“独立部隊”は……」
アランゲイルとニールヴェルト、今や“明けの国騎士団”の総指令官と総隊長となった2人を指揮官に置いて編成された、南方攻略部隊。そこに漂う不調和の空気に不気味なものを感じて、銀の騎士はギリっと歯を噛みしめた。
***
“暴蝕の森”の突破を試みる、明けの国騎士団 南方攻略部隊の総兵力は、4000人。その内、“森”の中へ現在足を踏み入れている“踏査部隊”は500人。残りの3500人は、“森”の外周部に陣取り、“別動作戦”の準備を進めていた。
“踏査部隊”の内訳は、“明けの国騎士団”に所属する銀の騎士たちが400人。“特務騎馬隊”に籍を置く紅の騎士たちが100人という編成であった。“別動作戦部隊”には、紅の騎士は1人もいなかった。
「目標地点はぁ、“道具を持った獣”どもの集落ですぅ。そこまで到達すればぁ、“外”の連中との連携作戦が始まりますんでぇ」
“暴蝕の森”の奥へ進むにつれて、密に生い茂る木々によって陽の光が遮られる度合いが強くなり、辺りは急速に暗くなってきていた。まだ夕方にもなっていないとは信じられない暗さ。その常闇の影の向こうで蠢いているであろう、“森”の中で特異な進化を遂げた魔物たちへの警戒感で、“踏査部隊”の騎士たちは喉がカラカラになっていた。
皮袋に、飲み水は十分にある。しかしだからといって、未知なるものへの恐怖からくる渇きが癒やされるわけではない。
周囲の空気は多量の湿気を含み、淀んだ水の腐った臭いが騎士たちの肺の中に満ちていた。食欲は全く湧かず、真水を口に含むだけでも吐き気を催しそうだった。
森の地形は、“梢宿り”の群生地となっている樹林帯から、臭気に満ちた湿地帯へと変化を遂げていた。
地面を形成する粘土質の土は多量の水分を溜め込んでグズグズになっていて、少しでも気を抜くと足を滑らせて転倒しそうになる。倒木にはプツプツと小さな胞子の玉を大量につけた大きなキノコが群生していて、生理的嫌悪感を覚えるその造形は、ちらりと視界に捉えるだけで鳥肌が立った。
「よぉし……“目印”、見つけたぜぇ」
紅の騎士たちを引き連れて、“踏査部隊”の先頭を歩くニールヴェルトが、後方を歩いてくるアランゲイルと銀の騎士たちに言った。
“踏査部隊”の前方には、淀んだ水を湛えた沼があった。ニールヴェルトが、沼の向こう岸に指先を向ける。
ニールヴェルトが指さす先には、年輪に似た縞模様の重なった、巨大な断層のようなものが、まさに壁のごとく視界いっぱいに屹立していた。
「……ニールヴェルト……まさか、この沼を渡って、あの崖を登るとでも言う気か?」
何度も粘土質の地面に足を取られかけ、余計な体力を消耗したアランゲイルが、小さく肩を上下させながら、うんざりしたように言った。
「半分正解でぇ、半分不正解ですねぇ、殿下ぁ」
そう言いながら、先頭に立つニールヴェルトが後ろを振り返った。
ニールヴェルトが、指を1本立てる。
「まずは1つ、正解からぁ……仰る通りぃ、俺たちはこれからぁ、この沼地を越えることになりますぅ」
そしてニールヴェルトが、2本目の指を立てる。
「そして、不正解な点が2つぅ……嬉しいことにぃ、俺らは“あれ”を登るなんて馬鹿な真似はしませんン。“あれ”に沿って歩いていけばぁ、“道具を持った獣”どもの集落に着くんですよぉ。それとぉ、“あれ”は“崖”ではありませんン」
ニールヴェルトが、親指で背後の断層のようなものをくいっと指さした。
「“あれ”はぁ……この“暴蝕の森”で1番でぇっかいぃ、“支天の大樹”とかいう名前の樹なんですよねぇ……」
§【――“暴蝕の森”を構成する樹木は、そのどれもが驚異的な樹高を誇り、枝葉を無秩序に広げて日光を遮っている。“森”の中には倒木が目立つため、どうやらその日光を遮る成長形態は、樹木たちが互いの成長を阻害する他個体を枯死させることを目的とする競争行為によって、獲得されたものと思われる。隣り合う木々を腐り倒すため、枝葉を広げて日光を遮断し、自らの生存域を死守しようとしているのだ。そしてその行為の最たるもの、“樹木の覇者”とでも呼ぶべき存在こそ、我々が“支天の大樹”と名付けたある樹木の個体である――】
アランゲイルが、途方に暮れた表情で、ニールヴェルトが樹木だと言った“崖”のようなものを上下左右に見やった。
「馬鹿な……これが……木だと……? 信じられん……」
§【――“支天の大樹”は、まさに途方もない大きさに育った樹木である。樹齢は全くの不明。樹種は、恐らく“暴蝕の森”に自生する一般的な種と同種と思われる。互いを枯らし合う樹木たちの苛烈な生存競争に勝ち抜いた個体が、これほど巨大になるとは……。我々は、この樹木の種子と思われる物を幾つか入手したが、これを我らが祖国である“明けの国”に持ち帰って研究しようと提案する者は、ついに1人もいなかった。この樹木の生命力の余りの強さは、それだけで危険過ぎると、“森”を研究する我々の動物的な勘が、そう警鐘を鳴らしていたのだ――】
§【――“支天の大樹”に近づくほどに、“森”の中は昼間でも夜と見間違えるほどに暗くなる。信じられないことだが、測量によると、“森”に広がる巨木たちの天蓋の内、その2割が“支天の大樹”ただ1本から延びた無数の枝葉からなっていると計算された……。また我々は、“支天の大樹”の幹周りの長さの測定も試みたが、幹周りに歩き続けること3日目にして、それは断念された……――】
「ずっと大昔にぃ、この“暴蝕の森”について研究した一派がいたそうでぇ、そいつらの残した“手記”によるとぉ……」
ニールヴェルトが、何やら古く分厚い書物を鞄の中から取り出して、そのページをパラパラと繰った。
§【――“支天の大樹”の幹周りに歩き続けること3日目、我々は、“大樹”の根本を1周する間近で、“彼ら”と遭遇した……――】
「“手記”を残した研究者の連中はぁ、どうやらあの“支天の大樹”を左回りに歩いて3日目にぃ、“道具を持った獣”どもの集落を見つけたようですぅ。なら俺たちはぁ、あの木を右回りに歩いていけば良いってことだなぁ」
ニールヴェルトが、“手記”をパタンと閉じながら言った。




