15-1 : 開戦、その時
――。
――魔族領“宵の国”、東方国境地帯。“イヅの大平原”。
遮蔽物のない広大な平原のただ中に、城壁を持たない城塞がぽつんと建っている。
空は青く晴れ渡り、心地よい風が大平原の草花を揺らす。鷹のような鳥が1羽、姿を見せずに鳴いている。
それは、とても穏やかな光景だった。
「……」
平穏な色に満ちた平原のただ中に、不釣り合いな黒色を放つ集団があった。高く飛んだ鳥が平原を俯瞰すれば、その漆黒の集団の影は、調和のとれた大平原にぽっかりと開いた虫食い穴のように見えたかもしれない。
「……全騎、陣形を維持したまま待機」
漆黒の集団を構成するは、魔族最高位、東の四大主、“魔剣のゴーダ”の軍勢、“イヅの騎兵隊”である。
漆黒の甲冑を纏い、他では見られない特異な形状をした“刀”と呼ばれる片刃剣を、腰に吊した鞘に収め、盾を持たない黒い騎士たちが、指揮官に対して無言を返答とした。
正方形状の陣形を形作っている兵の総数は、105名。その内訳は、指揮官を先頭に、刀を帯刀した歩兵が70名。刀と、もう一振り刀より長大な太刀をぶら下げ、装甲鎧を全身に着けた黒馬に跨がる騎馬兵が35騎。
昼夜交代制で国境を監視する“イヅの城塞”は、通常では昼勤53名、夜勤52名で運用されている。それが今、陽の昇った“イヅの大平原”に、その総兵力が結集していた。
通常ではない対応。非定常の布陣。非常事態。
「警戒を怠るな……国境線を1歩でも侵せば、即時開戦と心得えなさい」
「御意」
明けの国との国境線をじっと見つめながら、黒馬に跨がった鷹の目の黒騎士が、指揮官の命に言葉を返した。
国境線を挟んだ“向こう側”――明けの国の領土上に、いつだったか“明星のシェルミア”が“魔剣のゴーダ”に一騎打ちを申し込んだときと、同じ光景が広がっている。
平原上に、銀色の甲冑が陽の光を反射する煌めきが、ずらりと立ち並んでいた。
「……あちらの兵力はどれほどでしょうか」
指揮官が、馬上の鷹の目の黒騎士を見上げて問うた。
鷹の目の黒騎士が、無言のまま首を右から左へと巡らせる。その目線の大きな動きを見ているだけで、明けの国側の展開規模の大きさが窺い知れた。
「前回の“一騎打ち”のときより更に増えています」
「そんなことは百も承知……数は?」
指揮官が、手癖のように腰元の鞘に収まっている刀の鍔を親指で弾き上げ、鋭利な刀身をわずかに覗かせた。
鷹の目の黒騎士ほどの目を持たない指揮官にも、それが“これまでで最大の展開規模である”ことはひと目で分かっていた。知りたいのは、その詳細な数。それだけだった。
明けの国の兵数を数え終えた鷹の目の騎士が、指揮官に目をやって口を開く。
「概算ですが……展開数はおよそ8000」
「……なるほど……」
鷹の目の黒騎士の報告を受けて、指揮官が淡々とした口調で言った。しばらくの沈黙があり、やがて意を決したように、指揮官が刀の鍔を指で先ほどとは反対方向に弾いて、刀身が鞘におさまるカチンッという軽快な音がした。
「ならば、1人が80人を斬り伏せればよいだけのこと……“問題ない”」
そして指揮官が振り返り、後方に控える104名の漆黒の騎士たちに向けて、口を開く。
「各騎、聞け。これはこれまでのような防衛戦とは違う。“淵王”陛下より勅命を賜った“国守り”と心得よ。この場で斃れること、この場を護り切れぬことは、“淵王”陛下への不忠と知れ。そして何よりも――」
空気が、ぴんと張りつめる。
「――そして何よりも、我らが主、ゴーダ様への忠義を示せ。“イヅの騎兵隊”の名にかけて」
兜の陰の向こうから、紫色の眼光を火のように光らせて、ゴーダから指揮権を任されたベルクトが、覇気の籠もった声音で言った。
ベルクトの飛ばした檄に応えるように、“騎兵”たちの兜の奥から、ベルクトと同じように、紫の火のような眼光がぼうっと浮かび上がった。
***
――“イヅの城塞”、見張りの尖塔。
「……壮観、というべきか」
銘刀“蒼鬼”を収めた鞘を地に立てて、その柄に両手を重ねた“魔剣のゴーダ”が、見張りの尖塔の最前に、たった1人で立っていた。
見張りの尖塔から目を水平に上げると、“イヅの大平原”の果てに展開する明けの国騎士団の銀の甲冑の反射光が、広大な湖の水面のようにきらきらと揺らめいているのが見える。
そして見張りの尖塔から目を俯角に下ろすと、“イヅの騎兵隊”の黒い鎧が、漆細工のように鈍く光っているのが見えた。
105 対 8000。尖塔から自らの軍勢“イヅの騎兵隊”の置かれている状況と、その全景を見渡すと、それは今にも押し寄せようとする人間兵の大波を前にした、蟻の群れのように見えた。
その圧倒的兵力差を前にして、しかしゴーダの精神は落ち着き払っていた。目眩に視界が揺れることもなく、不快な汗が流れることもない。悠然と構えたゴーダには、頬を撫でる平原の風が心地よいとさえ思えた。
「ゴーダ? こんなとこで何をやっとんじゃ?」
ふと、背後で聞き慣れた声がした。ゴーダが振り返ったその先には、女鍛冶師“火の粉のガラン”が立っていた。
「お主、出んでもよいのか?」
「ああ……今は、ベルクトに指揮権を預けている」
ゴーダの言葉を聞いて、ガランが首を傾げた。
「? 何でじゃ?」
「まぁ、いろいろと訳はあるが――」
傍らに歩み寄ってきたガランを尻目に、大平原の情勢に視線を戻したゴーダが、ぽつぽつと言葉を漏らす。
「本来、魔族兵の統率は、根っからの魔族が取り仕切る方が適している。私のような“半端者”が指揮を執るよりな……人間には人間の兵法があり、魔族には魔族の兵法がある。これまで“騎兵隊”には、人間の兵法で動くよう、私が指揮してきた。だが、今のこの状況では、人間の兵法など役には立たん。ここからは、魔族の兵法の出番だ」
「ふーん……よく分からんが、ならばお主はどうする、ゴーダよ?」
腕を頭の後ろに回して、「ほほー」と大平原の果てに並ぶ人間兵の規模に感心した声を上げながら、ガランが問うた。
「人間には人間の兵法、魔族には魔族の兵法……そして四大主には、“四大主の兵法”というものがある」
“蒼鬼”を尖塔の床に突いた姿勢のまま、ゴーダが淡々と言った。
「それを使うべきときが来れば、そのときが私の出番だ。今は、それを待っている……本音を言えば、その番が巡ってこないことを願っている」
ゴーダが、尖塔の壁面に目をやる。そこには、真っ白に濁った魔力見の水晶球が置かれていた。
「この期に及んで、明けの国の“姫騎士”が、戦端が開くのを止めに入るかもしれないと夢見とるのか? ゴーダよ」
「そうかもしれないな」
「甘っちょろいオツムをしとるなぁ」
「知らなかったか? 私は小心者なのでね」
「ふん、四大主が言う台詞かや」
ゴーダの横に立つガランが、くすりと口元を緩めた。
「まぁ、ワシはお主のそういうところが気に入っとるから、こうしてここで刀を打っとるんじゃがな。さて……ワシは工房に戻るとするわい。やりかけの仕事があるんでな」
ガランが踵を返して、城塞内に引き揚げていく。通路を曲がっていく直前、ガランが歩を止めて、ゴーダの背中に問いかけた。
「ゴーダよ、人間の兵法とは何じゃ?」
「人間の兵法とは……攻めて可なるときは攻め、守るべきときは守り、引かなければならぬときを見逃さないことだ」
大平原を見据えたまま、ゴーダが答えた。
「ならば、魔族の兵法とは何じゃ?」
「魔族の兵法とは――」
ガランのその問いに、ゴーダがすうっと深く息を吸い込んだ。
そして、ゴーダがガランの問いに答えるより先に、大平原の彼方で、人間兵の上げるかけ声が轟いた。




