30-19 : 空の果てへと
暗い雲を掻き分けて、“イヅの騎兵隊”――黒竜たちの群れが天上へと突き抜けた。
そこは何ものよりも高い場所。風の音だけが聞こえる領域。果てしなく広がる、蒼穹の世界。
『空を征くのは、250年振りです。ゴーダ様』
ゴーダを背に乗せた“古き東の主ベルクト”が、風の感触を懐かしむように言った。
「ああ、羽を伸ばすといい。言葉の意味そのままに」
ゴーダが“蒼鬼・真打ち”を握ったままの右手でベルクトの漆黒の鱗に覆われた首筋を撫でると、黒竜は気持ちよさそうに光り輝く2対4枚の翼を一振りした。長い尾の先端に生えたもう1対の翼を器用に動かし、気流を御す。
尚も鋭く天を昇っていく先頭の仕草に合わせて、V字編隊を組んだ104騎の黒竜たちも風を切る。一糸乱れぬそれはまるで、1つの巨大な光の鏃のように美しい光景。
それは最後の戦いの最中にあって、束の間の、穏やかで親密なひととき。
『とても、懐かしい感触です。風の音。雲の匂い。空の色。貴方をこの背に乗せる温もり……』
「よく覚えているな。お前の背に乗せて貰ったのは、ほんの数えるほどのことだったろうに」
『はい、昨日のことのように覚えています。最後にゴーダ様と飛んだのは、貴方の“魔剣”に我らの身を捧げる前の晩。今日のように雲の厚い、月の綺麗な夜でした』
「参ったな……さすがにそこまで細かくは覚えていないぞ」
誰の邪魔も入らない大空に、ゴーダが困ったように笑う。
『貴方とともに、この先の生を魔族として全うしようと心に決めた日のことです。私にとっては、3番目に特別な記憶。全てこの胸の内に刻み込んでおります』
身体のほとんどが無機物でできているベルクトは、呼吸を必要としない。そんな竜の口から言葉が紡がれる毎に、光の粒が流れてゴーダの身体を優しく撫でていく。
「私は、そうだな……お前たちと初めて、あの霧の中で出会ったときに感じた、底冷えのする殺気の方を寧ろよく覚えているよ」
『永く空白を空白と知らなかった我らの下に、貴方が終わりを求めてやってきた日のことですね……我らに、「竜」と、初めて名を与えてくれた日。2番目に大切な記憶です。その日のことも、全て覚えています』
「律儀な奴だよ、つくづく」
ゴーダが零すと、ベルクトは長い首をきょとんと傾げる。
『? はぁ……そういうものでしょうか? 胸の奥が温かくなった日のことは、忘れたくないと考えているだけなのですが』
「ああ、お前はそれでいい……それがお前らしいよ」
『?? そうですか、ありがとうございます』
自分の感情に酷く理解の薄いその言い様は、姿は変わってもベルクトがベルクトであるということを何よりもはっきりと物語る。
永い……永い永い時の中、その存在はただ心に空白を抱いて生きてきたのだ。ゴーダが250年前に「竜」と初めてそのものたちを呼んだとき、そこにようやく感情の種が蒔かれたと言って良い。
それからたった、250年……「竜」たちは、まだ生まれて間もない赤子のようなもの。
「もっと、高く飛ぼう……」
“運命剣リーム”を握る左手で竜の首元を叩き、合図を送ると、ゴーダは空の果てを見る。
「もっとずっと、高く高く……」
『はい、ゴーダ様』
光の帯が、更に加速していく。105騎の黒竜たちが、遮るものの何もない青空に真っ直ぐな軌跡をどこまでもどこまでも描いていく。そこに美しい螺旋を巻いて、自らも翼を生やした“封魔盾フリィカ”が傍らを飛んでいく。
「もっと……もっと、もっと……」
もっと高く。もっと速く。誰も触れたことのない、空の果てへ。
それはほんの数十秒の出来事にすぎない。けれども彼らは、その何百倍もの体感時間の中で、自由を感じる。
何の恐れもない。
何の悩みも、しがらみもない。
痛みも、悲しみも、孤独もない。
蒼穹に、溶けていく。
心の底から、歓びを感じる。
世界はこんなにも、美しい。
「ああ……今なら、はっきりと言える」
黒竜たちの零す光の粒に包まれて、そしてゴーダは微睡むように目を閉じた。
「今まで、生きてきて……本当によかった」
……。
『ゴーダ様……私にとって1番の宝物《記憶》、何のことかお分かりですか』
穏やかな声で、ベルクトが尋ねた。黒竜はその背に乗せた主と同じように、いつの間にか瞳を閉じて飛んでいる。
「ああ、分かるよ。“あのとき”は、私も当事者だったからな。随分悩まされたのは、本当に昨日のことのようによく覚えている」
『そうですか……――』
そして、ゴーダの穏やかな声を聞いた“古き東の主”は、言葉を継いで。
『――“嬉しいです”』
黒竜は、幸せそうに笑った。
……。
……。
……。
「ホロホロホロ……」
空の果てから見下ろす、遥か下方。まるで大地のように広がる雲海を割って、黒竜たちとゴーダを追う“黄昏の魔”が、姿を見せた。
蒼の波動と竜の一閃に斬り崩された邪悪な身体は、未だ再生の過程にある。
雲間に羽ばたいているその巨体は、ずっと離れた高空を飛ぶゴーダたちの目には豆粒のように小さく映る。
“黄昏の魔”の額に開いた、第七の目。これほど距離を開けていても、その巨眼に座した“改竄剣リザリア”の湛える昏い闇だけは、はっきりと見えた。
光の筋となって上昇を続けていた“イヅの騎兵隊”が急反転し、音もなく翼を広げて天にぴたりと静止する。
無限に広がる天界に、光と闇が対峙して。
……。
――そして。
……。
「……帰ろう、“ベルクト”。全て終わらせて、故郷へ。人間と、魔族のいる世界へ」
黒竜にとって、1番の宝物――「ベルクト」と、ゴーダ自身が名付け親となって贈った、世界にたった一つの己の名を、もう一度噛み締めて。
『はい、帰りましょう。柔らかな緑の風吹く、“イヅの大平原”へ』
そして、“翼”が解放された。




