30-14 : 終焉の呼び声
「■■――!!」
はっとして、シェルミアはビクリと全身を強張らせた。
「…………?」
横に視線を感じて彼女がそちらを向くと、間近にエレンローズがいた。
守護騎士は焦った様子の主君を見つめて、何事かと不思議そうな目を向ける。
「エレン……私は……。……??」
立ち眩みに似た強烈な不快感を覚えて、シェルミアは両のこめかみを押さえつける。
ますますエレンローズは訳が分からず首を捻る。
「……。いえ、大丈夫です。何でもありません。“こんな状況”ですから、目を回していたようです」
なるほど無理もないと、エレンローズが頷き返した。
“バサリッ……バサリッ”。
“黄昏の魔”の羽ばたきが、轟音となって耳元を吹き抜ける。
2人が立っているのは――“黄昏の魔の後頭部。首の裏側”。
……。
――逃ガ、サン。
……。
■■■――ガランの陽動が“黄昏の魔”の注意を引きつけている隙に乗じて、シェルミアとエレンローズはローマリアの支援の下、巨大な7つの目の死角、魔の首の裏側へと転位していた。
……。
――繰リ、返ス。何度デモ。
……。
■■■■――作戦の立案も、示し合わせも不要。各々がただ、自らにできることを果たすのみ。
……。
――全テ、戻シタ。
……。
■■――彼ら彼女らの目的は、その始まりからたった1つ。
……。
――黒イ騎士ダケ、喰ッタママ。
……。
■――“黄昏の魔”など、正面から撃破する必要はない。
……。
――同ジ時ダケ、繰リ返ス。
……。
■■■――“改竄剣リザリア”の完全破壊――成すべきは、ただそれだけ。
……。
――“運命剣”……欲シイ、ソノチカラ。
……。
「■■――はあぁぁぁぁぁっ!」
……。
――モウ、黒イ騎士ハ、来ナイ。
……。
■――“黄昏の魔”の後頭部を駆け上がりながら、シェルミアが叫ぶ。
……。
――塗リ潰ス……真ッ昏ニ。
……。
……。
……。
“改竄剣”は、その時点で既に、“淵王”にも制御しきれない“原初の闇”の扱いを会得していた。
いや、永きに亘ってこの世の最果てに封じられてきた“原初の闇”そのものが、自らの権能を思い出したと言った方が正確かもしれない。
“改竄剣リザリア”はその絶対的な権能で以て、世界そのものを数分前へと巻き戻したのである。
シェルミアが“運命剣リーム”を振るった、その直前の時系列へ。
彼女の手で“次元の海”が開かれる瞬間へ。
“改竄剣”が唯一掌握することのできない、“未来”を支配する為に。
全てを、その昏い闇で塗り潰す為に。
過去、現在、未来……この世に、純然たる終焉を――純粋悪にとって、それが唯一絶対の存在理由。
***
……。
……。
……。
――ベシャリッ。
「――……」
何かに叩き付けられた衝撃で、ゴーダはうっすらと目を開けた。
「……ぅ……」
呻き声を漏らしたが、耳に聞こえるのはブクブクと泡の弾ける音だけ。
ドロドロの液体に半身が沈みかけていることに気付いて身を起こしたのは、それから間もなくのことだった。
「……?! 何が……どうなった……?」
よろりと立ち上がりながら、ゴーダは意識の混濁に頭を抱える。
状況の確認を試みる。
周囲には消えかけの黄昏のような、薄ぼんやりとした光だけがある。
足下は弾力のある泥か何か……おぼつかず、ズルリとぬめり気のある粘膜質で覆われている。それに足を取られて反射的に腕を伸ばすと、手が触れた先の壁面も同様の粘膜で構成されていた。
先ほど意識を失ったまま溺れかけたドロドロの液体は、不快な生暖かさと生臭さを放つ。
「どこだ……ここは……?」
思い出そうとしてみるが、違和感があるだけで何も理解できなかった。
記憶が迷走している。
外から記憶をぶつ切りにされて、前後を入れ替えた上に継ぎ接ぎだらけにされたような。
紛れもなく自分のものである筈のその記憶が、まるで突然他人のそれと中身を入れ替えられたような。
「“改竄剣”に、何かされたということか……」
……。
……“改竄剣リザリア”は、“黄昏の魔がゴーダを喰らった”という事象だけを維持したまま、全ての時間を巻き戻していた。
……シェルミアと“運命剣”を汚染しきる寸前で、彼女を救出した邪魔者、“魔剣のゴーダ”をあの場面から排除する為に。
……巻き戻った“現在”から見れば“未来”である、ゴーダの状況だけを“過去”へと持ち込んだが故の、彼のその混乱であった。
……。
“改竄剣”による強引な事象改変。置かれている状況と記憶との関連性を掻き乱され、混乱した意識を抱えたままのゴーダの中にあるのは、「何か取り返しの付かない、決定的なとどめを刺されようとしている」という確かな予感だけ。
それが何なのかは“思い出せない”が、それをされてしまったが最後、この世の全存在は二度と“改竄剣”へ対抗することが叶わなくなるであろう、絶望と終焉の足音……その音だけが、確実に大きくなっているのを感じる。
「出口を……見つけなければ……」
ゴーダは“黄昏の魔”の内側――この世の終わりを歩いていく。
そこは“宵の国”も、“明けの国”もない世界。
人間も、魔族も、何者もいない世界。
争いもなく、しかし平穏もない世界。
死に絶えたのですらなく、初めから生命など存在しない世界。
変化を止めた世界。
過去と現在の区別がつかなくなった世界。
未来の消えた世界。
そこに世界があると定義することすらできない世界。
名前さえも、つけることのできない何か。
時間の概念まで消え果てて、黄昏だけがいつまでもいつまでもいつまでも続く……――「 」。
“原初の闇”がもたらさんとする、これが純然たる終焉。
“黄昏の魔”の胎内にあったのは、そんな情景だった。
「……」
気付かぬうちに。
ゴーダの足が、止まっていた。
「……っ……」
……無意味。
どんなに傷つこうが。どれほど抗おうが。どれだけ大切なものを取り返そうと叫ぼうが。
最後にやってくるのが、こんなものであるならば――。
――……何もしないのと……同じではないか……。
それまで息巻いていた熱量を押し流すほどの、虚無感。心の内に、思わずそんな言葉が零れ落ちる。
……。
たとえ損なわれ、取り返しのつかない形になってしまったとしても。
そこには確かに「思い出」が――自分たちの生きた証しがあるのだと。
それだけはこの手に取り戻さなければと、その一心で“忘名の愚者”を打ち破った。
……。
しかし……その先にやってくるのが、こんな何もない終焉なのならば……喜びも、悲しみも、苦しみもないこんな世界の、一体どこに生きた証しなどあるものか。
“黄昏の魔”の内で胎動する虚無の塊が、ゴーダを塗り潰していく。
足下がふらつき、何も考えられなくなっていく。
純粋悪が背中にずしりとのし掛かり、耳を聾する大音響で「膝をつけ」と喚き立てる。
“黄昏の魔”が創り出した胸の奥の空虚へ向かって、身体が押し潰されていく――。
……。
……。
……。
そして、崩れかけた彼の心を、握り潰すように。
……。
……。
……。
「……ゴー……ダ……さ、ま……」
この世の終わりをその目に見て、くずおれる寸前で踏み留まっていた、そのときに。
今にも消え入りそうな、聞こえないほど小さな、掠れた声がした。
「ゴー、ダ……様……」
そんな声が繰り返し、暗黒騎士の名を呼んでいた。
そこにゴーダがいると分かって、呼びかけているのではない。
ずっと、ずっと……ずっと前から、その声はゴーダの名を呼び続けていたのだ。
何百回……何千回……何万回と。
消えそうになりながら。崩れそうになりながら。それでもただ一心に、彼の名を繰り返し呼び続けていたのだ。
……。
たった1人の、主の名を。
……。
「――っ!」
“黄昏の魔”の胎内。終焉の闇の向こう側へ。ゴーダが両腕を差し伸べた。
そして彼の方も、その名を呼ぶ。
……。
……。
……。
「――ベルクトっ!!」
絶望の中で……その、漆黒の騎士の名を。




