30-5 : 泣き虫
……。
「――!」
一瞬、それは幻聴のように聞こえた。
音として……声として、認識できなかった。
祈りに没頭していた為か。それとも無意識のうちに夢を見ていたのか。
たとえそのいずれが原因であろうが、そんなことは些細なことである。
確かな肉声は、決して切れない特別な誓約で結ばれたその人は、彼女の名を、何度でも呼ぶのだから。
「エレン……! エレン!!」
ようやく意識に届いたその声へ向け、エレンローズが背中を振り返った瞬間。シェルミアが目の前へ駆け寄り、守護騎士を抱き締めていた。
突然のことに、エレンローズが両目をぱちくりとさせる。
「エレン……よかった……無事で……!」
涙を堪える素振りも見せず、エレンローズに抱きついたままシェルミアが声を震わせる。
エレンローズの方も緊張を解いて、シェルミアの肩に手をやった。
守護騎士の義手が触れる段になって、子供のように抱きついていたシェルミアはようやく我に返る。
「あっ……! ご、ごめんなさい、エレン! その……貴女の姿が見えたのが嬉しくて……つい、我を忘れてしまって……」
そこまで言って、シェルミアが自分の言葉に尚のこと困惑の表情を浮かべる。
「ち、違うのです! え、ええと……! すみません、だらしのないところを見せてしまって……っ。守護騎士が――貴女が傍にいると思うと、良い意味で緊張が解けてしまうというか……素が、出てしまうと言うか……! ああ! どうして、こんなに言葉がまとまらないのでしょうか……? すぅー、はぁー……」
エレンローズが見守る目の前で、大回廊にペタリと座り込んだシェルミアが胸に手を当て、二度三度と息を整える。
やがて、再会の喜びと自分への動揺を落ち着かせると、シェルミアは真正面からエレンローズをじっと見つめた。
「――エレンローズ。貴女にとっての決着……果たせたようですね」
「……」
主君の問いかけに、守護騎士は目を閉じて、深く、ゆっくりと、一度だけ明瞭に頷いてみせた。
シェルミアの声が返ってくるものと傾注していたエレンローズであったが、主君の言葉は何も聞こえない。
口から言葉が出るよりも先に、シェルミアの双眸からはまた涙が流れて止まらなくなっていた。
エレンローズの右手を取ってその甲へ額を押しつけると、いよいよ抑えの効かなくなったシェルミアが泣き崩れる。
シェルミアが精一杯の自制でそれに留まっているのが、エレンローズにはまるで自分のことのようにはっきりと分かる。
――シェルミア様。
強く、気高く、聡明で、常に誰よりも先頭を歩いてきた“明星のシェルミア”という人物が、その実酷く泣き虫な性格であることを、エレンローズはこの大戦を通じて知っている。
――そういうときは、我慢しなくていいんです。
今度はエレンローズの方から、声を殺して泣いているシェルミアをそっと包み込んだ。
互いにボロボロになった甲冑越しに、温もりを感じる。
――苦しいときは我慢しても、嬉しいときは、我慢しなくていいんです……貴女と同じ泣き虫の私が、保証します。
シェルミアの身体が強張る気配があったが、まるでエレンローズの二度と戻らない筈の声が聞こえでもしたように、彼女の身体から緊張が解けていく。
……。
「……わ゛ぁぁぁぁっ……う゛あ゛ぁぁぁぁぁぁっ……!」
涙だけでは出し切れないでいたものを全て吐き出すように、そうして“明星のシェルミア”は物心ついてから初めて、腹の底から号泣した。
「…………」
守護騎士である自分の前で、シェルミアが弱さも強さも曝け出してくれることが、エレンローズにとってはこの上なく誇らしいことだった。
守護騎士の腕の中で声を出して泣き続けるシェルミアの手には、エレンローズの銀髪で編まれた銀の結い紐が、固く握り締められていた。
***
シェルミアの号泣が収まったのとほぼ同時に、異変が起きた。
大回廊の足下が、グラグラと揺れ始めたのである。
「!」
「っ……これは……!」
一瞬、“淵王城”が崩壊しつつあるのかと肝を冷やした。
が、そうではないということに、2人は即座に思い至る。
足下を揺らす震動の原因は、崩壊などではなく、むしろその真逆。
大回廊が――エレンローズが放った“封魔盾フリィカ”の破魔の一撃で打ち砕かれていた無限回廊の結界術式が、急速に修復されつつある徴だった。
その証拠に、それまで見えていた大回廊の末端が徐々に霞み、それに代わって合わせ鏡の如き無限の繰り返し構造が蜃気楼のように浮かんできている。
「…………」
それを目にしたエレンローズが、その身と一体化している封魔の左義手を握り締める。
失われた彼女の左肩の付け根から先を丸々埋め合わせるように変形している“封魔盾フリィカ”の表層に、魔方陣が浮かび上がった。
が、魔方陣こそ現れるが、そこには先の狂騎士との戦闘中、無限回廊ごと全てを打ち破ってみせた、あの眩いほどの閃光はない。
残り火のように燃えていた紫炎の光が、エレンローズの灰色の瞳から消える。
エレンローズの魔人化――魔力に富んだ魔族の紫血の燃焼によってもたらされていた、封魔の力の強制解放は、たった一度きりのものだったのである。
咄嗟にそのことを理解したエレンローズがシェルミアの手を取ると、その手を介して全てを察したシェルミアの方もエレンローズの手を握り返し、短く頷き合った2人は全速力で走り出した。
無限回廊が塞がりきる前に、ここを脱出しなければ。
2人が駆け込む大回廊の終点は、みるみる内に繰り返し構造に置き換わり、幾何学の暴力を取り戻していく。
先ほどまで当たり前のように見えていた、“淵王城”の正面玄関と外へと通じる巨大な門は、霞みに消えて形が分からないほどにまで薄まってきている。
外界が消えていく速度と、2人の走る速さ……焦る気持ちの片隅で、その比較計算は実に単純なもの。
――間に合わない!
単純ゆえに、覆しようのない解がそこに導き出される。
せめてシェルミア様だけでもと、咄嗟にエレンローズが主君の背中を突き飛ばそうと構えたそのとき――。
「――……“風雷燼:禍嵐”」
2人の真隣で、嵐が吹き荒れた。
凶悪に渦を巻く旋風に、青い稲妻を無数に迸らせた災いの塊。それがシェルミアとエレンローズの道を塞ぐようにして着弾する。
……。
「ひはは……ひはははっ!」
シェルミアとエレンローズがはっと振り返ると、大回廊の奥で身を起こしている人影が目に留まった。




