30-1 : 黒い剣
それは何の前触れもなしに……唐突に、忽然と、そこに存在していた。
誰かの手によって持ち込まれたという訳ではない。
例えば天から降ってきたであるとか、地中から生えてきたというのでもない。
最初からそこに在ったなどということも、当然有り得ない。
ならばその黒い剣は、どのようにしてこの場へと至ったのかと言えば……まるで理解が及ばなかった。
そんな簡単なことさえ、何も分からなかった。
ただ、分厚く垂れ込める雲間から差し込む陽光も、ガランの起こした紅蓮の炎も、一切の光を反射させない真の闇を湛えた両刃の剣が、“イヅの大平原”に突き立っている――その事実以外に、あらゆる情報が存在していなかった。
ギョロリ……と、剣の柄に開いた昏い瞳が1つ、ゴーダたちをじっと覗き込んでいる。
剣の瞳の虹彩には一切の色がなく、星明かりの潰えた夜空のように、それは途方もない深みへと続いていた。
「……ローマリア」
治癒の魔法書によって傷を癒やしたばかりのゴーダが、借りていた魔女の肩から離れてボソリと言った。
“忘名の愚者”との死闘で凹みだらけになっている甲冑を揺らして、黒い剣とローマリアとの間に立つ。
「ゴーダ……貴方……」
離れていく彼の背中を呼び戻そうと、魔女が手を伸ばす。
「行け、ローマリア……ガランの下へ」
兜を失った素顔のままで、ゴーダが横目を向けて呟く。
「……ゴーダ、貴方お一人では……“あれ”は……――」
そこまで言って、ローマリアが考え込むように自分の口へ手をやった。
その存在を形容する言葉を見つけようと、翡翠色の左目が左右に泳ぐ。
つ。と、魔女の白い頬に一筋の汗が流れた。
……何も。
“星海の物見台”の蔵書全てを記憶している魔女の知識と記憶を以てしても――何も、言葉が見つからない。
「……いけませんわ……“あれ”に、近づいては」
ただ、そうと警告することしか。
「それはまた、女の勘という奴か?」
ゴーダが静かな声で尋ねる。
「違います。違いますわ、そんなものでは……『女の勘』だなんて言葉で、片付けていいものではありません。……安易に、言葉や意味を与えて良いものではありません、“あれ”に……。貴方も感じているでしょう?」
「分かっている。形容し難い……この気配は」
「そうなのでしたら――」
ゴーダの背中へ一歩進みかけたローマリアを、ゴーダの挙げた手が押し留める。
「分かっているからこそだ。ガランの治療を、ローマリア……いざとなれば、“いつでも逃げられる準備を、頼む”」
少ない会話の中でただならぬものへの警戒を共有して……ローマリアは瞳を閉じて、ゆっくりと頷いてみせた。
「早まった真似はしないことですわ、ゴーダ」
「心得ている。探りを入れるだけだ……背中は預けるぞ」
「ええ」
その言葉を最後に、ゴーダの背後でローマリアの気配がふっと消失した。一切の前兆を示さずに魔女が転位魔法を行使したのを確かめてから、暗黒騎士は振り返ることもせずにそのまま歩を前へと運ぶ。
黒い剣は、“ユミーリアの花”が垂れ流した汚液と“火の粉のガラン”の爆炎、それと倒壊した“イヅの城塞”の瓦礫が散らばる大地にただ突き立っている。
依然として、ただそれだけである。
ギョロリと向いた、剣にあるまじき瞳が呪物めいてこそいるが、特に何か危害を加えてくる様子もない。
“三つ瞳の魔女ローマリア”の警告通り、近づかず、このまま無視してしまえば良いようにも思えた――この東の地を蹂躙した元凶、“忘名の愚者”と“災禍の娘ユミーリア”の脅威は去ったのだ。漆黒の騎士ベルクトと、“イヅの騎兵隊”……今はただ、損なわれてしまった部下たちのことを想うべき段階の筈である。
が、“魔剣のゴーダ”は、どうしてもそうすることができないでいた。
黒い剣が漂わす気配が。「存在してはならないもの」を目前にしているという直感が。紫血に宿る、太古から受け継がれてきた本能と使命が。「魔族」と「人間」という種族の、存在理由が。
――“これ”がこの世界に在ることを許しては、断じてならないと……そう語りかけて止まなかった。
「……」
得体の知れない胸騒ぎに襲われながら、ゴーダは足下に転がる瓦礫の小片を拾い上げる。
「……何だと、いうのだ……?」
直感と本能がこれほど明瞭に言葉を紡いでくることなど、彼の永い戦士としての経験上でもなかったことである。
ともかく、それが一体何であるかを知らなければどう出るという訳にもいかない。十分な距離――自らの剣の間合いからも遥かに離れた絶対安全圏から、いつでも後退に転じれるよう身構えまでして、そしてゴーダは握っていた瓦礫の小片を黒い剣へ向けて投擲した。
緩やかに放物線を描いて、狙い澄まされた石の欠片は吸い込まれるように真っ黒な剣身へ――。
……。
……。
……。
――ゾンッ。
……。
……。
……。
■■■――■■■■■――■■――。
……。
……。
……。
「――■■……何だと、いうのだ……?」
自らの剣の間合いからも遥かに離れた絶対安全圏から、“イヅの大平原”に突き立つ黒い剣を見やって、ゴーダが怪訝な表情で呟いていた。
その手の中には、散乱する瓦礫から拾い上げた小片が握り締められている。
「……」
ともかく、それが一体何であるかを知らなければどう出るという訳にもいかない。
そしてゴーダは、握っていた瓦礫の小片を黒い剣へ向けて投擲しようと――。
……。
……ボロリ。
「……?」
ガランの紅蓮に灼かれたからなのか、それともゴーダの暴発させた“魔剣”で既に細切れになっていたのか……“小片は黒い剣へ向かって投擲されるより前に、彼の手の中で粉々に砕けていた”。
「……」
砂粒の残る自分の手のひらを見下ろしながら、ゴーダが眉をひそめる。
うっかり、焼き固まった泥でも掴んでしまっていたらしかった。治療を受けたとはいえ、判断力が鈍っていることを改めて自覚する。ならばと、先の戦いで“忘名の愚者”が振るった、折れた無銘の刀を手にすると、ゴーダはそれを投げナイフの要領で黒い剣へ飛ばした。
……。
……。
……。
■■■――■■――■■■■――。
……。
……。
……。
■■――うっかり、焼き固まった泥でも掴んでしまっていたらしかった。
ならばと、ゴーダは“イヅの城塞”の瓦礫から覗く刀の柄に目を向ける。
それは先の戦いで“忘名の愚者”が振るった刀――銘刀“蒼鬼・真打ち”との打ち合いで叩き折れた刀である。
ガランの打ったその無銘の一振りを乱雑に扱うことには気が引けたが、「折れてしまった刀は既に刀としての役割を終えている」、「それよりも今はあの気味の悪い黒い剣について探ることが先決だ」と自分に言い聞かせて、ゴーダは瓦礫の中からそれを引き摺り出した。
……。
瓦礫の中から、“鞘に収まったままの、見事な刀が現れた”。
「……何……?」
そのことに違和感を覚えたゴーダが、ゆっくりと無銘の刀身を鞘から抜いていく。
……。
鞘の中から、“叩き折れても愚者の血にも濡れていない、美しい刀身が姿を現した”。
まるで、ここにくるまで一度も抜かれてなどいなかったかのように。
黒い剣に向けて投げナイフのようにむやみに放るには、惜しい一振りである。
「……」
そこにきて、ゴーダは手のひらを額に押し当てた。
嫌な汗が浮いている。
目眩のようなものを感じる。
血を流しすぎたからというのではない。外傷的なものからくるふらつきとは、明らかに異なる感覚。
「……」
白昼夢を見ているような、意識の混濁だった。
デジャブ――強烈な既視感。
1つである筈の記憶が枝分かれして、それぞれに全く別の情報と結びついているような、形容し難い不一致感。
致命的な、ズレ。
……。
「……気の、せいか……?」
……。
「……“ついさっきも……これと似たことがあったか……?”」




