29-21 : 大切なもの
「……」
ちらと、ゴーダが自分の脇腹へ目をやった。
激戦の中、愚者に突き立てられた刀の破片がそこには刺さったままになっている。
「……」
ズブリ。震える手でその刃を抜いて放り捨てる……深い筈の傷口からは、不気味なほど血が流れ出てこなかった。
「……。……」
さすがにこの出血は、幾ら何でもやり過ぎた――とさえ、考えることもできなかった。
ただどうしようもなく疲れ果て、ただひたすら眠いだけだった。その誘惑に抗うこともせず、ゴーダは瞼を閉じ、身体を前に倒した。
……。
……トン。
……目を閉じていても、誰が倒れかかった自分を支えたのかなど、そんなことは考えなくても、答えは分かった。
……。
霧のように真っ白なローブの、柔らかな感触。
……。
「……。……汚れ、るぞ……そんなところに、いると……」
億劫げに、ゴーダがぼそりと呟いた。
「ふふっ……言うのが、遅いですわ」
嘲笑混じりの澄んだ彼女の声が、彼の耳元に囁きかける。
「……どうにも、1人では……立っていられん、らしい……」
ゴーダの細い声が、傷と疲労の深さを物語る。
「見れば分かりますわよ、そんなこと。これで何度目と思っていて?」
声に合わせて揺れる彼女の長い黒髪に、彼は頬をくすぐられる。
「……しばらく……肩を、貸してくれ……」
ゴーダの身体から、自然と力が抜けていく。
「ふぅん……仕方、ありませんわね」
背中をぎゅっと抱き締められると、二人の距離はもっとずっと近づいて、彼の頬に彼女の眼帯が擦れた。
「……全身、ガタガタだ……そんなに、きつくしないでくれ……意識が、飛びそうだ……」
すっかり全身を預けてから、朦朧としながらゴーダは嫌みを言ってみる。
「……。はぁ……。全く相変わらず、情緒も雰囲気もない男……」
うっすらと目を開けると、彼女の翡翠の左目が、片時も離れず彼の方をじっと見つめているのが見えた。
彼女のその目は潤んで震えていたが、目の前が霞んでいる彼には、そんなことまで見分けることはできなかった。
そのようにしてゴーダを介抱する“三つ瞳の魔女ローマリア”は、彼をゆっくりと地面に横たわらせて――自分の膝に暗黒騎士の頭を乗せた。
「うふふっ……嗚呼、本当に、傷だらけですわね。これではわたくしに何をされたって、抵抗なんてできないでしょう?」
ローマリアの細くて長い指に頬を擦られ、頭を何度も撫で回される。
「……正直、言って……お前とまともに、口喧嘩も、できんよ……指の一本、もう、動かん……」
「まぁ。このわたくしが直々に看て差し上げていますのに、そんな弱気なことしか言えませんの?」
魔女が背を丸めて腰を屈めると、その顔がずいとゴーダの眼前に迫った。
そのまましばし、二人は無言で見つめ合う。「しっかりなさい」と、ローマリアの声にならない声が聞こえた気がした。
「西の守護者に、わざわざ膝枕までさせておいて、何も言わずなんて許しませんことよ。はい、ご感想は?」
「……悪く、ない……かもな……」
「悪くない? ですって? ふぅん、そぉ……ふぅーん?」
細められた翡翠の瞳に、殺意が過るのが見えた。
「……。……極上だ。このまま、眠って……しまい、そう、だ……」
事実今にも気絶しそうになりながら、ゴーダがどうにか前言を訂正した。
「……ええ、よろしくてよ。貴方はそんなふうに、素直にしているのが一番可愛いと、ずっと前から言っていますでしょう? うふふっ」
彼のその言葉でひとまず満足を得たのか、顔を上げたローマリアが傍らの地面に手を伸ばす。
ゴーダが意識を失いかけている目の前で、彼女が掲げて見せたのは――1冊の魔法書。
「……それ、は……あの、ときの……」
「ふふっ……何も、特別な術式なんて書かれてはいない魔法書ですけれどね? わたくしにとっては、どんな禁呪書よりも価値があるものですわ……。……覚えていらしたのね」
それは“星海の物見台”の、大書庫の一角に収蔵されている……ゴーダがローマリアに初めて開いて読ませた、治癒の魔法書だった。
体質的に治癒の魔法書に触れると拒絶反応を起こしてしまう彼女の指先で、チリチリと焼ける音が聞こえる。
「うふふっ、どうしようかとずっと迷っていたのですけれど……わたくしの初めてを覚えていてくれた、そんな貴方に免じて……使って差し上げましょう」
一瞬だけ、手放すのを惜しむような表情を見せてから、魔女がふぅと艶のある吐息を魔法書へ吹きかける。
治癒の魔法書は、そこに内包した術式を術式巻物のように正確に起動させると、本来の使い方ではないその行為の代償に、ボロボロの灰になって風に流れていった。
***
「……私が、言えた、口ではないが……良かったのか……? 大切な、物だったんだろう……?」
「ええ……どこかの誰かさんの思い出が、あの魔法書にはたくさん詰まっていましたわ」
「……。……その、何だ……手間を、かける……。……。悪かった……」
「うふふっ……嗚呼、もう、本当に……本当に本当に、馬鹿な人……」
……。
「――どんなに大切な思い出の品よりも、その思い出をくれた貴方の方が、ずっとずっと大事に決まっているではありませんか……女に、こんなことを言わせるものではありませんわよ」
***
「うおーい……ワシも、治してくれぇい……」
怪我の治療を終えたゴーダと、彼の頭を膝枕に乗せたままのローマリアが、しばし何も言わずに顔を見合わせていると、“イヅの大平原”から彼らを呼ぶ声が聞こえた。
炭を切らした炉のように、全身からプスプスと細い煙を上げながら、ガランがズタボロの身体を大地に投げて倒れている。
その横では、彼女の紅蓮の炎で“石の種”を爆砕された“災禍の娘”の亡骸が、グズグズに腐り溶けていく最中であった。
「動けんのんじゃあ……臭うて敵わん……ひぇぇ……。ゴーダぁ、ローマリアぁ……そんなとこでイチャついとらんで、助けてくれやぁい……」
折れた両腕では鼻を塞ぐこともできない様子で、ガランは渋い表情を浮かべて二人を呼ぶ。
「んな……っ、ガラン。だから私は、イチャついてなど……!」
咄嗟にローマリアの膝枕から身を起こして、ゴーダが反論を試みる。
「……。……。……」
「……う……」
が、目の端に、その発言に対して不満そうに口を尖らせている魔女の姿を認めてしまっては、暗黒騎士はそこから先の言葉を言うに言えなかった。
「何か仰って? ゴーダ?」
「……何でもない……何でもないということにしてくれ、頼むから……どんな顔をすればいいのか、もう私には分からん……」
クスクスと余裕の表情で嘲笑う魔女を直視できず、ゴーダは堪らず頭を抱えることしかできなかった。
「ふふっ、可愛いこと……。さあ、あれではガランが、さすがに不憫ですわ。参りましょう?」
率先して立ち上がると、ローマリアはゴーダに手を差し伸べて、彼へ肩を貸して歩き出す。
***
「そういえば……貴方、“あれ”はあのままにしておいてよろしいの?」
ガランの下へ向けて、“イヅの大平原”をゴーダと二人して歩きながら、ローマリアが何でもなさそうに尋ねた。
「あんな雑に捨て置いてしまっていたら、ガランが機嫌を悪くするのではなくて?」
「……何のことだ?」
ローマリアの言葉が何を差しているのか分からず、ゴーダは首を傾げた。
「ですから、“あれ”ですわ。ほら、あちらにある。貴方のでしょう?」
魔女に指し示された方向へ、ゴーダが目を向ける。
「……?」
……。
……ドクン。と、胸が一つ、高鳴った。
……。
「“あれ”は……。……? お前がやったんじゃないのか?」
今度は逆に、ゴーダがローマリアへ尋ねてみせる。
彼の視線が言わんとするところを汲み取って、魔女ははっきりと首を横に振った。
「何を仰っているの? わたくしではありませんわ……」
「……」
ザワリ……。
「転位魔法、か……? 誰かの……」
「いいえ? それもありえませんことよ。術式が使われたのなら、前兆があった時点で、わたくしには正確に分かります……わたくしと貴方以外、ここで転位魔法を使った者など、誰もいませんでしたわ。絶対に」
……。
……。
……。
「なら……“あれ”は、何だ……何だというのだ……」
……。
……。
……。
「……あんなもの、なかった筈だ……あんな所に、あんなもの……今の今まで……影も、形も……」
……。
……。
……。
それは黒い……どす黒い、一振りの剣であった。
陽の光の差す“イヅの大平原”に、そこだけまるで夜が具現したかのような……深淵のように、どこまでも真っ黒な剣。
暗黒騎士の鼓動が、不吉に鼓動を増していく。
……。
……。
……。
彼の直感が、はっきりと告げてきていた。
……。
……。
……。
――あれは、存在してはならないもの……悪しきものだ……。
……。
……。
……。
――純粋な……どこまでも純粋な……闇と悪、そのものだ……。
……。
……。
……。
ギョロリ……真っ黒な剣の柄がばっくりと割れ、闇の縁から彼らのことを見つめ返す、瞳があった。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
――“改竄剣リザリア”、顕現。




