29-8 : 訪ね旅の記憶と
――250年前……正確には、彼が西方から姿を消して2年後。
季節はちょうど二巡して、その日も朝冷えのする晴天だった。
濃い霧越しに、太陽の真円がぽっかりと空に穴を空けているように見える。
朝露には若葉の匂いが溶け込んでいて、煤の臭いの染み込んだ身体にはそれが余計に爽やかなものに感じられた。
陽の光が霧によって散乱して、辺りは雪に埋もれたように真っ白な光景が続いている。
ガシャリ、ガシャリ……と、何かの揺れる軽快な音がする。
白単色で塗り潰された世界に、丸い人影がぼんやりと浮かび上がっていく。
ガシャリ、ガシャリ……それは鉄で打たれた食器の立てる音だった。
鍋、フライパン、カップ……そういった物が人影の歩調に合わせて揺れる音。
人影が随分とずんぐりとした形に見えるのは、食器をぶら下げた背嚢のせいである。大きな大きな背嚢が、本来の人物の輪郭を上書きしていた。
濃霧の白と、そこにぽつんと現れた黒い人影。それと、パチリと爆ぜて舞い上がる真っ赤な火の粉。
「……風の噂を伝え聞いてはきたものの……ほんにこんなとこにおるんかのう……」
“火の粉のガラン”が、小さな声で独り言を零した。
「たわけが……勝手にいなくなりおって……。ようやく折り合いを付けて、お主は野垂れ死んだんじゃと、自分を納得させとったのに……今更当てにもならん噂話に化けよって……」
ズビリと鼻を啜る。彼女の表情は悲しみに暮れていて、堪える涙で口許はへの字に曲がり、押し殺す嗚咽にふるふると震えていた。
「魔女の奴も、あれっきりじゃ……魔族軍を壊滅させたっきり、“塔”の中がどうなっとんかすら誰にも分からん……」
朝冷えの中、暖を取る為に灯していた体内の火が、その感情に揺れて弱々しくなる。小さな角から上がる火柱も、頼りなくチロチロと燻っていた。
「ゴーダも、ローマリアも……ワシだけ置いてけぼりにして2人とも消えてしまいおって……っ。大馬鹿もんがーい!」
――ばかもんがーい……もんがーい……がーい……――。
霧に隠れた遙か彼方の山脈へ、ガランの大声が木霊した。
その後に続く痛いほどの沈黙が、彼女の胸に空いた穴に沈み込んでいく。
堪えきれず滲んだ涙を、悔しそうに褐色の腕でぐしぐしと拭った。
……。
……。
……。
「……ガラン……?」
ふと、霧の向こうから声が聞こえた。
「その声、ガランか?」
彼岸から聞こえる遠い幻聴などではない。それはあっけないほど近くから、はっきりした肉声として彼女の耳へ届く。
「……ぇ……?」
口と眉をわなわなと震わせながら、ガランが顔を横へ向けた。
……。
「ああ……やっぱりそうか……」
……。
「世捨て人を気取ってはみたものの……あんたの怒鳴り声は忘れようがないよ」
……。
「久しいな、ガラン――いや、生粋の魔族のあんたにとっては、そうでもないか」
ガランの立っている場所から5歩と離れていない所に、彼が立っていた。魔族兵の鎧も、刀も携えていない、彼女が「ぺーぺー」呼ばわりしていた頃の丸腰の青年の姿で。
――“宵の国”、東の果て……国境外、“空白地帯”。
それは彼女が思い描いていたどんなものとも違う、呆気のない、何でもない再会だった。
……。
「……ふぐ……っ」
右腕で目許を拭った。
「……ぐすっ……」
入れ替えて、左腕でも涙を擦る。
「……うぅ……っ」
両腕を交互に何度押し当てても、零れるものは止まらなかった。
「……1発……ぶん殴らせい゛っ……!」
大きな背嚢をその場に放り捨てて、しゃくり上げながら詰め寄る。
――ポカリ。
ふにゃりとした拳が、彼の胸元に触れた。
「……痛くないぞ、ガラン」
……。
「……ええんじゃいっ……」
……。
「ぶっ飛ばしてやる気も起こらん……っ」
……。
……。
……。
「生きとんなら、生きとると……早う言わんかい! ゴーダの……たわけぇ!」
――。
――。
――。
……。
……。
……
――。
――。
――。
――現在。ボルキノフ制圧下、“イヅの大平原”。
「きゃぁああぁぁぁぁぁぁぁあっ!!!!」
“ユミーリアの花”が、それまでの鯨のような重静かな歌声から一変して、ヒステリーを起こしたように泣き叫んだ。
肉の幹がドクリと脈打ち、内部を循環する体液の圧力に押しやられて、巨大な眼球の1つが眼孔から飛び出した。太い視神経が露わになり、それが振り子のように零れた眼球を揺らす。
ブチブチと肉の千切れる音。空っぽになった眼孔の奥から、嘴のようなものが身を捻りながら生え出る。視神経と眼球はそれに押しやられ、樹上から遙か下方へ落下して、その過程で急速に腐敗しながらやがて地上で潰れて腐肉を飛び散らかした。
「きゃあぁぁぁあああっぁっぁああああぁぁぁっ!!」
嘴が口を広げるが、自分自身の構造をすら理解していないのか、無闇に拡張した果てにそれは自ら口角を引き裂いた。口腔には何か、未発達の得体の知れない器官が蠢いている。
「だぁらっしゃぁぁあ!!」
雄叫びを上げたガランが、がっちりと握り合わせた両手を水平に振った。全身の血管が燃え上がる。腰の入ったフルスイングが、“ユミーリアの花”の根元を捉えた。
ズンッと空気が震える。
……。
「きゃぁぁあああぁぁぁぁああっ!!」
ヒステリーに合わせて、嘴の生えた位置の真上から、何やら鱗のようなものが付いた尻尾に似た器官がズルリと生えた。ただ意味もなく、感情のままに体液を撒き散らしながらのたうち回る。それには言葉としての意味も、生物としての機能美も何もない。
「きゃぁぁああぁぁあああっ!!!!」
木の枝のように繁茂する女の腕が、一斉にガランに向かって振り下ろされる。自身の肉体を冒す病原菌を排除しようと攻撃を仕掛ける、免疫細胞のような振る舞いである。
ガランが素早く飛び退くと、巨大な拳が彼女のそれまでいた場所へ雨霰の如く降り注いだ。一面があっという間に陥没する。
「……ええい! 幾ら何でもデカすぎじゃい! びくともせんではないか!」
ガランのフルスイングは、深々と“花”の幹へめり込んでいた。纏った炎が粘膜を張る細胞を焼き、刃物のように食い込んで黒焦げにもした。
破壊力は申し分ない。
が、それにも増して“ユミーリアの花”は巨大すぎた。ガランと異形の花とでは、スケールが余りにも違いすぎた。必然、巨体に対してたった1箇所の損傷など、微々たる割合しか占めようがない。
「おまけに……うっ……! この臭い……勘弁してくれい!」
先の一撃でガランの両拳に付着した濃緑色の体液は、殺傷性こそ伴わないが、空気に触れるとものの数秒で腐敗が始まる。今は青黒く変色して、まるでヘドロのような汚臭を放っていた。
「うがあぁぁ! 辛抱堪らん!」
血管から迸る火力を瞬間的に跳ね上げて、ガランの血管が眩く光る。高火力に炙られて、彼女に付着していたヘドロは炭化して悪臭ごと消滅した。
「……ぬぉ?! 何でじゃ、まだ臭いぞ!?」
火力を落ち着けたガランが、身を捩ってスンスンと身体中を嗅ぎ回る。だがどうやら、臭いの元はそこからではないようだった。
「……ん?」
鼻が曲がりそうな強烈な臭いに胸焼けを起こしながら、どうにか我慢して発生源を追っていくと、一撃をお見舞いした“花”の根元から体液が流れ出続けているのが目に留まる。
「此奴……あの外道ほど傷の治りが早うはないのか」
その洞察は当を得ていた。混沌としたその存在をよくよく見ていくと、ガランが攻撃した箇所以外の、“花”が自ら腐り落ちた部位も傷口が覗いたままになっていて、そこから体液が噴き出している。
自己の成体としての形状を維持修復することに特化しているボルキノフの体質に対して、ユミーリアのそれは自己の損傷を法則性のない増殖と肥大化によって補っているようだった。
元より自分のあるべき姿を定義できず、ただ存在しているだけで崩壊と壊死を繰り返す……そしてそれを埋め合わせる為に節操なく臓器と器官を作り出しては、またそれが次の腐敗へと繋がる……。
300年前、“狐目のサリシス”による“石の種”の変質実験によって、ユミーリアという人間の少女へ施された“治療”。その行き着く末。
辛うじて人の形をこれまで留めてきていた“災禍の娘”の箍は、この東の地で外れ、今や周囲の環境を侵して肥え太るだけの存在となっていた。
それを理解して、ガランに怖気が走る。
「……いっそ、同情してしまうのう」
彼女の表情に影が差したが、次の瞬間にはそれも消えて、前後に脚を開いて拳を上げた格闘戦の構えを取る。
「じゃが、そういうことならば、まだやりようはある……!」
“ユミーリアの花”の無数の目と、ガランの視線とが合った。




