29-1 : 終わりと始まり
「……」
朝日が昇ると同時に、彼はそこへと辿り着いた。
視界は、霧で真っ白に塗り潰れている。
何日も何日も歩き続けて、人間を遙かに凌駕する魔族の肉体すら、今や悲鳴を上げている。足の感覚がなくなったのは昨日や今日のことではない。足甲の内側では豆が潰れ、足首は何万回と擦れたことで皮膚が削れて血塗れになっている。
道中の数日間通った、昼夜を問わず薄暗かった森――あれは“暴蝕の森”だったかと、彼は今更のように思い出す。
彼はたった1人、ただひたすら東に向けて歩き続けた。“宵の国”の西の果てから、愚かしいほど真っ直ぐに。
山谷を越え、河を渡り、森を抜け、渇いた風を一身に受け、襲いかかってくる魔物たちを撥ね除けて。
甲冑は強行軍で汚れに汚れ、魔物の爪傷が至るところに刻まれている。
刀の鞘は、足を滑らせ深い谷底に落ちかけた際に失くしてしまっていた。魔物との戦闘を何百回と続け、その間も禄に手入れをせずに雨晒しにし続けた刀身はボロボロに刃こぼれし、修復不可能な亀裂も走り始めている。
固形物を口に入れなくなったのが、数日前。昨日からは、水を飲むのもやめていた。そのせいだろうか、甲冑が少しダブつくようにも感じている。
自暴自棄――今の彼を言い表すのに、これ以上的確な言葉はない。
その刃で自らの首を掻き切れば、あっけなくケリがつくことは知っている。たとえ刃こぼれした刃でも、その清算手段に出れば十分な釣りが返ってくるだろう。
そう、もういつだったかも忘れた遙か昔……異界のマンションの屋上で、「もうどうでもいいや」と全てを諦め、受け入れたときのように。
しかし、その“諦めの良さ”を持っていたのは、“合田竜矢”という名だった人間である。
彼には――“ゴーダ”には、そういう潔さはなかった。
ただ、往生際悪く足掻いてやろうと思った。
今日まで鍛えたこの技と力で以て、この手が、この世界のどこまで届くか――その果てを見届けるぐらいのことはしなくては、納得ができなかった。
「無駄に長生きした」というだけで終わらせるには、この人生は長過ぎた。数奇なものと絡まり過ぎた。
自分の手でそれに終止符を打つことだけは、それこそ死んでも御免だった。
……。
あるいは、それは怒りだったのかもしれない。自分を取り巻いた、余りに理不尽な境遇への怒り。気の遠くなる研鑽の末、女1人支えてやることすらできなかった、無力な自分への怒り。
その激情で両の目に紫炎を燃え滾らせて、そして彼は1つの国の端から端までを歩ききったのだった。
……。
濃い霧をたゆたわして、風が吹く。草花の揺れるサヤサヤという音が聞こえる。
「……」
ひびの入った兜を脱ぎ捨てる。かさつく肌とごわついた髪が絡まった。
汗と鉄と、血の臭い。それらが眼前から取り払われる。冷たく湿った空気を深くゆっくりと吸い込むと、淀んでいた肺が洗われていくようだった。
頬は、少しばかり痩せこけている。眠らないまま、陽が昇るのを三度見たところまでは数えていた。
「……」
ゆっくりと、吸い込んだときよりも輪を掛けてゆっくりと、息を吐き出す。疲弊していた筈の身体に血が巡り、全身に力が湧いてくる。脚にはわずかな震えもない。
……。
ここが、終着点――それをとっくに理解していたゴーダの肉体が、その内に残る全てを燃やして、己を奮い立たせていた。
ゆらり。片時も緩めず柄を握り続けてきた拳に改めて力を籠め、ボロボロの剣先を霧の向こうの虚空へ向ける。
「……」
ただ、真っ直ぐに。
「……名もさえない……純然たる災厄、か」
ただ、ぽつりと言い零す。
「“果て”と呼ぶのなら……この場所が相応しい……」
ただ、それを見届ける為。
……。
ただ、それを求めて。
……。
ただ、彼は“それ”に挑むのだった。
……。
……。
……。
「……さぁ、始めようか……“終わり”を……」
……。
……。
……。
――“宵の国”東方の果て……国境外。
――“空白地帯”。
……。
それは、250年前の記憶……。
***
――“宵の国”、東方。“イヅの大平原”。
――時は流れて、現在。
「――――」
視界を真っ白に塗り潰す濃い霧の向こうから、鯨の歌声に似た旋律が空気を震わせ続けている。
“災禍の娘ユミーリア”――300年前、母親と同じ不治の病に冒され、そのまま静かに息を引き取る筈だった少女。“明けの国”最後の、転位魔法の研究者。その成れの果てが唄っている。
人間の辿るべき運命から彼女を逸脱させたのは、かつてその病床の傍にいた3人の男たちの想い。
ボルキノフ――彼女の父親。私を置いて逝かないでくれと祈り、彼は己の命と引き換えに血を捧げた。
“狐目のサリシス”――彼女にかつての恋人を重ねた男。不治の病に“彼女”を2度も奪わせはしないと誓い、彼は“石の種”と呼ばれる禁忌に手を伸ばした。
そして、名も残っていない小男――父親の血に塗れ変質した“石の種”に犯された彼女へ、信仰を見出した者。彼は暗い地の底に、彼女とともに潜み暮らすことを選択した。
彼女と添い遂げる為、己の身にも“石の種”を植え付けて。
300年。その時の重みは小男を静かに押し潰し、彼女とは異なる成れの果てへと変容させた。その“忘名の愚者”は、夢と現実を入れ替えて、自らを“ボルキノフ”と名乗った。
「……」
――“イヅの城塞”。
半壊し、霧の中に映り込む輪郭までも変えてしまった、その建造物の一室。
崩れ落ちた壁際に佇む“忘名の愚者ボルキノフ”が、“愛娘”の幻聴に耳を傾ける。
――《『お父様』》
「ああ、聞こえているよ、ユミーリア」
――《『ここは、とても静かで、とても綺麗な場所ですね。ユミーリアは、この場所がとても好きになりました』》
「そうだろう。そうだろうとも。ずっとずっと、暗い地の底で待ち侘びていたのだからね……人間と魔族を争わせて、ようやく辿り着いた、私たちの理想郷なのだからね」
――バサリッ。
霧の向こうで、彼女が――無尽蔵に肥大と増殖と腐敗を繰り返し、醜い肉の幹へと膨張した“ユミーリアの花”が、翼を広げる。
それは彼に、最初の啓示をもたらした翼。“石の種”に蝕まれながら、まだ人であった頃のユミーリアが、この世の生を呪う悲鳴とともに成した、天使の姿。
が、それは彼の目に焼き付いたかつての光景の再現には至らない。
再び示されたのは、翼だけ。あの美しい叫びを上げた娘の姿は、粘液塗れの青白い肉に埋もれ、見る影もない。
――あの姿を、もう1度……。
――《『お父様。ここが私とお父様の理想郷なのなら、きっと、お父様の願いも叶います』》
“ユミーリアの花”が腐肉を崩落させ、粘膜を突き破り新たな異形の腕を生やす。歪な形の目を無数に実らせ、ウジュウジュと濃緑色の汁を垂れ流す。
そんなおぞましい水音も、ボルキノフの耳には美しい娘の声として届く。
――《『楽園に相応しい、お父様の夢見た天使の器を、もう1度、私に』》
「ああ、もうすぐ手に入れてみせるよ、ユミーリア。お前の為の新しい器を……新しい“石の種”を」
……。
「その為の理想郷だ……“石の種”を実らせる神秘の樹は、ここにある……」
……。
「呼び覚ますのだ……この地に眠る“それ”を」
そしてボルキノフが、霧の向こうにじっと目を向ける。
「だから、邪魔はさせないよ……君には、楽園の最後の扉を開く鍵になってもらわなければ――“魔剣のゴーダ”」
虚空に両手を広げて、ボルキノフが恍惚とする。
「……さぁ、全て終わらせよう……ここからが、“始まり”だ……」




