28-16 : 銀の結い紐
運命剣の光の中で、シェルミアの身体が真紅の呪いたちのわずかな隙間を縫うように走り抜けていく。予めそこに道があることを知っていなければ、そうなる運命にあると定めることができなければ突破不可能の、針の穴を通すような奇跡を無数に積み上げて、呪いの壁の向こう側で、兄と妹が交差した。
「……っ!」
想像を超える業をやってのけたシェルミアの姿を眼前に捉えて、アランゲイルの顔が驚愕で引き攣るのが見えた。“人造呪剣ゲイル”がゆらりと揺れて、迎撃の構えを取っていく。
それもまた、“シェルミアが見てきたもの”と寸分違わない光景だった。
アランゲイルが突き出した呪剣の切っ先が、シェルミアの眼前に迫る。それを視界に捉えながら、姫騎士は瞬きも怯みもせず、更にぐっと前に出る踏み込みを強めた。
紙一重よりも、更に薄く。“人造呪剣ゲイル”の刃が頬を掠め、金色の髪をなで、黒く変色した髪を何本か宙に舞わせた。
――ブチリ。
そして頭の後ろで、長い髪を1本に束ねていた銀の結い紐の千切れる、小さな音が聞こえた。
――エレン……ごめんなさい……。
……。
――ありがとう。
“銀の結い紐が千切れる未来”――それは“運命剣リーム”の見せる、無数の未来の形が映った万華鏡の中で、シェルミアの選び取った“この場所”へと至るための道標だった。
シェルミアの柔の剣が鋭く2度疾り、交差を抜けたその先で、解けた長い髪がふわりと揺れた。それと同時に、両脚を斬りつけられて力の入らなくなったアランゲイルが膝を突くドサリという音がした。
「うっ……ぬ゛ぅっ!」
完全に動きを止めたアランゲイルの、歯を食い縛る呻き声が背中に聞こえる。それに呼応するように、呪剣から展開されていた“騎士の形の呪い”たちがドロドロに溶けて姿を消した。
「止まった……! これで……!」
兄を行かせない為に、離さない為に、追撃の手を緩めるわけにはいかない。交差の先で制動をかけたシェルミアが、身体を反転させてアランゲイルに駆け寄っていく。
そこまでが、シェルミアの見た未来だった。選択された世界の、絶対の有り様だった。
あとは、あの頭の割れるような痛みに耐えさえすればいい。走る足の運びを弱めることなく、断固とした覚悟で、シェルミアはそんな痛みなど何でもないと強く念じた。
「兄上……っ!」
兄の下に駆け寄る妹が、剣を持っていない方の手を前に伸ばした。
……。
……。
……。
――ドサリッ。
……。
……。
……。
それは、アランゲイルに手を触れるより先に、シェルミアが膝を突いて倒れ込んだ音だった。
「――……うあ゛ぁぁァ゛ああア゛あぁぁぁ゛ぁぁぁ゛あぁぁあぁっッ゛っ!!!」
シェルミアの聞くに堪えない絶叫が、玉座の間の沈黙を切り裂いた。
まるで、先の潰れた釘を眼球に突き立てられ、頭蓋骨の中に強引にそれを打ち込まれるような。少しずつ少しずつ、万力で締め付けられてきたこめかみが、とうとう耐えられなくなって粉々に砕けたような。頭の中で、細い針を無数に生やした剣山がのたうちまわっているような。筆舌に尽くし難い激痛に、シェルミアは身体を丸めて悲鳴を上げることしかできなかった。
「あ゛ッ……! ア゛っ! 痛゛い……イタ、イ゛……っ、あぁぁ゛ああ゛ああぁっ!!!!」
思わず「痛い」と口にしなければ気が触れてしまいそうなほどの、救いようのない苦痛だった。視界がグルグルと回り、平衡感覚を消失した身体が不気味な浮遊感に包まれる。冷たい汗が全身を濡らして、シェルミアは何かに縋り付くように力の入らなくなった身体を何度も床の上に叩きつけた。
グチグチと、頭の中で肉の捻れるような悍ましい音が聞こえる。左の眼球が内側から押し出されて飛び出してしまうような錯覚に襲われて、咄嗟に左眼を押さえ込んだ。
ボトボトと音を立てて、左目から真っ黒に淀んだ液体が溢れ出たのは、その直後だった。元の碧い色を失い歪な形に変形した左の瞳から、何が噴き出しているのかも分からないまま、ただ苦痛が少しずつ治まっていく感覚だけがシェルミアの意識を覆い尽くしていた。
「……っ……はぁっ……! はぁっ……! はぁっ……! うっ……」
そうしてどれだけの時間が過ぎたのか分からないまま、激痛から開放されたシェルミアがゆっくりと顔を上げた。左の頬には左眼から零れた液体で黒い筋がついていて、朦朧としている頭は、自分が何を為さなければならなかったのかを一瞬失念していた。
ゆらり。と、視界の端に影がよぎる。はっとしてそれが見えた方向に目を向けると、そこには斬りつけられて立ち上がれなくなった両脚を上半身の力だけで引き摺ったアランゲイルが、シェルミアからわずか数歩しか離れていない場所にまで近づいてきている光景があった。
「うっ、く……! この期に及んで、私の邪魔立てをするのなら……ひと思いに殺してあげるよ、シェルミア! もう諦めろ……この“ゲイル”の呪いの一部となれ! そして私たち2人で! “淵王”のあの玉座の上から、全てに終わりを下してやろう!」
そう叫びながら、兄が地面を這いずり回る姿勢のまま凶刃を振り上げる。
「そんな呪いなんかに゛……! そんなものに、もう゛、頼らないで下さい゛!!」
歯を食いしばった妹が、こちらも吐き気を伴う目眩で立ち上がることができないまま、兄の振り下ろした真紅の刃へ向けて剣を疾らせた。
兄妹の振るったそれぞれの剣身から火花と屍血が飛び散り、“運命剣リーム”の鋭い剣筋が“人造呪剣ゲイル”の芯を打ち抜き、手のひらからその真紅の剣を弾き飛ばすのに十分過ぎる衝撃がアランゲイルを直撃する。
――ボキリッ。
しかし次の瞬間に聞こえたのは、呪剣が弾け飛ぶ金属音ではなく、兄の腕の骨がへし折れる鈍く痛々しい音だった。
「……頼ってなんかいないよ、シェルミア……」
折れて不自然な方向へと曲がった自分の右腕とシェルミアの驚く顔を同時に視界に収めながら、アランゲイルが不敵にニヤリと嗤った。
「この呪剣はもう、頼らなくてはならない道具ではない……」
ミチリ。と、肉の蠢く音が聞こえる。
「もうとっくに……この“ゲイル”は、その名の通り……私の一部になっているのだから……」
へし折れても尚、呪剣を手放そうとしない兄の手のひらは――“人造呪剣ゲイル”の真紅の柄と癒着して、身体の一部に、あるいは呪いの一部へと成り果てていた。
「そ……ん゛な……っ」
「もう、止まれないと……そう言っただろう、シェルミア」
運命剣に弾かれ、折れた腕と真紅の剣をだらりとぶら下げながら、アランゲイルがゆっくりと呟いた。
引き攣った嗤い顔を浮かべる兄の瞳の中に、シェルミアは悲しげな影を見た。それが頭の中でしこりとなって、目眩とは別に、妹の意識を散乱させる。
「“ゲイル”よ……こんなことで、私を立ち止まらせるな……」
ぐにゃりと折れ曲がった自分の腕とそこに癒着した呪剣を見つめて、アランゲイルが冷たい声で言った。
「――ギシャァアア!!」
“人造呪剣ゲイル”そのものが、己が貪り従える呪いたちと同じ声で吠え、ズチャリと水の弾ける音が聞こえた。
そして呪剣の柄が脈打ったように見えた直後、ドスリと肉の貫かれる音と、ビシャリと血の飛び散る音が同時に聞こえた。
それは“人造呪剣ゲイル”の柄から生えた無数の棘がアランゲイルの折れた腕を串刺しにして、その傷口から噴き出した血が玉座の間を濡らした音だった。
「え……」
目の前で兄の腕がめった刺しになったのを見て、シェルミアが思わず声を漏らす。
その視界の端で、アランゲイルが痛みで引き攣った嗤い顔を浮かべていた。
「同情なんて、している場合じゃないよ、シェルミア」
アランゲイルの折れた腕を貫いた無数の棘が、ぐるぐると束なって形を変えていく。織物細工のように折り重なった棘はやがて金属質の光沢を放ちだし――気づいたときには、兄の腕は真紅の手甲に覆われていた。
「!!」
頭で考えるより先に、座り込んだままのシェルミアは反射的に叩き下ろされた呪剣を運命剣で受けていた。ガチガチという鍔迫り合いの音に混じって、アランゲイルの纏った手甲の隙間から血が滴り落ちていく音が聞こえる。
真紅の剣が兄の腕にやってみせたのは、治癒などではなく、全くその逆――受けた傷以上の損傷と、それを経て肉と骨に纏わりつく強制的な補強だった。
「……はははははっ! そうだ! 屍の山の中から生まれた呪剣ならば! このぐらいのことはやってみせろ!」
ズルズルと歩けなくなった身体を引き摺り、目眩で立てなくなっているシェルミアを押し倒して、アランゲイルに宿った凶王の器が魔王のように嗤った。




