28-3 : 兄妹
「……こうして2人きりになるのは、随分と久しいな――シェルミア」
――“宵の国”、中央。“淵王城”内、無限回廊。
前後の概念が存在しない、合わせ鏡を具現化させたかのような幾何学の迷宮の中で、“王子アランゲイル”はふと、背後に立つ気配に向けてそう語りかけていた。
振り返るよりも先に、その名が口から出ていた。確信という言葉ではまだ足りぬ、運命そのものを見てきたかのような、逃れようのない因果の巡り合わせ。
「……待っていました……アランゲイル……」
そしてそれを肯定するように返ってきたのは、忘れもしない、妹の声。
「……。驚きは、しないな。なぜだかは分からないが、ここでお前と相対するのだろうと、そういう予感があったよ……」
だらりと項垂れた首を回して、兄が背後に顔をやった。
「……」
妹の、ほんの微かに息を呑む気配が分かった。実の兄にしか分からない、険しい顔の下にすら現れてもいない、目には見えないシェルミアの感情の波が、アランゲイルには憎らしいほどくっきりと視えた。
「……ああ……これはどうしたことだろうね、シェルミア……しばらく見ない内に、随分と雰囲気が変わったじゃないか……」
かつて、その頭を撫でる指先を滑るように流れていった妹の綺麗な金色の髪は、今はそこに疎らな黒髪が混ざり込み、清流が泥水とヘドロで穢れた光景を兄に連想させた。
見つめていると吸い込まれそうだった碧い瞳は、左目だけがかつてのそれとは似ても似つかぬ無色に塗り潰れて、トカゲのような歪な形の瞳に取って代わられていた。右目には兄の記憶にある美しい色が残されていたが、片目にだけ残った面影になど、何の意味もなかった。
「えぇ……お互いに、記憶にある姿からはかけ離れてしまいました」
目の下に浮かんだ悲愴な隈。病的に痩せ衰えた顔。浮浪者のように歪んだ体躯。そして一目で善からぬ存在と分かる、引き摺られた真紅の剣。兄の変容を目の当たりにしながら、妹は向けたその目を一切逸らすことなく言った。
「どうやら、そのようだな……」
「……」
……。
……。
……。
「シェルミア……お前は……何を見てきた?」
兄が問う。
「……他者への怒り。自分への失望。失うことの恐怖と、誰かとともに在るということへの、小さな希望――それが、私が見てきたものです」
兄の言葉に、妹は声を詰まらせることなく、淀みもなくゆっくりとそう返した。
そして妹の目が、無言の内に兄に同じ問いを投げ返す。
「……自己嫌悪。他人への侮蔑と嫉妬。人間が、理性を備えていると自惚れた畜生が、獣の欲に己を溶かしていく醜態。そして純粋な力への感動と、それがもたらした孤独――私の手に残ったものは、ただそれだけだ……」
熱に浮かされたように見開かれていた兄の瞼が、酷く鈍い動きで閉じ、それよりも更に時間をかけて、億劫そうに再び開く。呼吸は深く間欠的で、大きく息を吸い込むたびに肩が上がり、重い溜め息を吐くように肺の中から空気が吐き出されるごとに、だらりと枯れ枝のようにぶら下がる腕がゆらゆらと揺れた。
「……得るものは、あったか……?」
虚ろな声で、兄が言った。
「はい」
妹の真っ直ぐな声が、間を置かずに返される。
「ふん……全てを失っておきながら、なかなかどうして、やはりお前も、1度知った権力は忘れられんか……所詮は執着の強い、ただの女ということかい?」
そう言って鼻で嗤った兄の口許が、皮肉を零すようにニヤリと歪む。
「いいえ、それは違います」
妹が、きっぱりと否定した。
「私がここまで来たのは、貴方に奪われたものを奪い返すためではありません。権力にも肩書きにも、最初から興味はありません」
その言葉を聞いて、兄の頬がピクリと引き攣った。
「ならば、なぜこんなところにお前はいる……なぜ、私の前に立つ……シェルミア……」
その問いを耳にして、妹の目許が何かを悲しむように震えた。
「……そんなことも……分からないのですか、アランゲイル……」
「ああ、分からないな……賢いお前の考えていることが、愚鈍な私にはきっと理解できないのだろうね……」
それを聞いた妹の目が、碧い瞳と無色に歪んだ瞳とが、悲しみの感情を怒りの色で掻き消した。肩が上がり、渦巻く感情に押されて1本に結われた長い髪がぞわりと揺れる。
「私は……! 貴方を止める為だけにここに来た……! ただそれだけのことに、理由も大儀も小理屈もない……っ!!」
……。
……。
……。
「……ふふっ……ふふふっ……くくくっ……」
険しい目で睨み付けてくる妹を前に、兄は顔を俯けて、肩を震わせて口の端から嗤い声を零した。
「……ははは……どういうことだい、シェルミア? あんなに賢かったお前が、動機も目的もなしにただ私を制止するためだけに、こんな魔族の国の奥深くで待っていたというのかい? 訳が分からないな……」
「訳などないと、言った筈」
「ははは……ああ、そうだったな。どうにも、“これ”のお陰で微睡むことも許されなくてね……記憶が曖昧になってきているようだ」
兄が、右手に握り締めたままの、鞘を持たぬ“人造呪剣ゲイル”に目を落とした。その視線に反応でもしたのか、真紅の呪剣の表面がウネウネと波打つ。
「嗤うがよかろうよ、シェルミア」
「笑いません」
「魔族も、人間も、見境なく喰い散らかすだけのこの力……軽蔑するだろう?」
「しません」
「この身はただ、呪いを振り撒くだけの、さながら“これ”にとっての肉の鞘だ……」
「だから、何だというのです」
「そうだな……まずは、この“宵の国”を滅ぼそう……そして私は力を示し、“明けの国”の王になる……呪いに爛れたこの手で、王たる冠を手に取ろう……孤独な王として……民草を使い捨て、臣下どもに口を開くことも許さん、斜陽の国の王として……」
「それが……何だというのです!」
“明星のシェルミア”の張り上げた声が、無限回廊の果てへ木霊し、やがて聞こえなくなった。
「貴方が暴君になろうが、亡国の王になろうが、呪いを撒き散らそうが、そんなことはどうでもいい!」
……。
「……私が貴方を止めることに……“私が貴方の妹である”という以上の何ものも、ありはしません……“兄上”……」
……。
……。
……。
「……ははは……ははははは……」
“王子アランゲイル”の冷たく乾いた笑い声が、無限回廊の彼方へ消えた妹の声を追いかけるように反響する。
「ははははは……。……。……。ああ、なるほど……ようやく、愚かな私にも理解できたよ、我が妹よ……」
……。
……。
……。
「つまり――」
……。
……。
……。
「つまり、これは……言葉では最早どうにもならない、私とお前のすれ違い過ぎた道の埋め合わせ――初めての、兄妹喧嘩、というわけだな……」
……。
……。
……。
寄り添い続け、慕い続け、想い続けたその果てに、遠く離れた2人の人間が、この場このとき、互いに誰よりも近い場所にいた。
そして無限回廊に、激しくぶつかり合う剣戟の音が鳴り響いた。




