28-1 : 東の果ての地
「――いぃぃぃっ……っやっほぉぉぉぉぉい!!!」
昇って間もない朝陽に満ちた静寂の世界に、“火の粉のガラン”の威勢の良い声が響き渡った。
「ガハハハハ! ガハハハハハハッ!」
濁り1つない真っ青な空。淀み1つなく澄み渡った空気。耳元を凄まじい勢いで吹き抜けていく風。そしてぐるぐると目まぐるしく回転する視界と、たとえようのない浮遊感。
「ガランっ、気を引き締めろっ」
遙か眼下に雲海を捉えながら、“魔剣のゴーダ”が声を張り上げた。
「んっ? 何っ? 何ぞ言ったかっ? ゴーダっ。ガハハハハッ!」
「少しは静かにしろと言ったのだっ」
周囲を渦巻く風の流れに遮られ、互いの声はほとんど聞き取れなかった。ガランの方向に顔を向け、少しでも声が通るようにと口許に手を添えて大声を出した途端、ゴーダの全身が気流に巻き取られぐるりとその場で1回転する。
「むっ……!」
「ガハハハハッ! 何やっとんじゃゴーダっ。締まりがないのう――ブルルルルルルルっ」
笑い転げるように大口を開けたガランの口許に風が流れ込んで乱流となり、上下の唇をブルブルと震わせた。それに合わせて褐色の頬もぷるぷると波打ち、女鍛冶師の形相が目も当てられない滑稽なものに変形する。
「……ぶはははははっ! 何ともまぁ! こりゃ、楽しいのう! ガハハハハハッ!」
激しい気流の中を木の葉のように舞い落ちていきながら、そのようにして天空に浮かぶ“星見の鐘楼”から飛び降りたゴーダとガランは、高高度からの自由落下に身を躍らせていた。
「むぅっ、これはなんとも……っ、存外、難しい真似だったか……!」
甲冑の中に流れ込む乱流に何度も体勢を崩されながら、ゴーダが渋い声を漏らした。
「だが……っ、どうにか、熟れてもきた……ガランっ!」
自由落下によって下から吹き上げてくる相対風に対して身体を垂直に向けたゴーダが、全身を使って帆船のように気流を御す。そして先ほどから相変わらず乱流の中をくるくると回転しながら笑い転げているガランに向けて、あらん限りの声で呼びかけた。
「なんじゃいっ!」
「もうすぐ雲の中に突っ込むぞ! 視界が効かなくなる前にっ、こっちに来いっ!」
「ぬぉ! ほんにそうじゃな! のうっ、ゴーダやっ! 雲というのは、ぼふっと跳ね返ったりせんのかのうっ、ぼふっとなっ。ガハハハハッ!」
「生憎だがっ、あんたが想像してるようなことにはならんっ。そのまま突き抜けてっ、地面に真っ逆さまだぞっ!」
「むむっ、なんとっ! そりゃいかんのうっ! よっし、そこで待っとれよっ、ゴーダっ。そっちに向かうからのうっ……ブルルルルルルっ」
ガランのその威勢は言葉だけだった。ゴーダから見れば、女鍛冶師は平泳ぎでもするように空中で無意味に手足をばたつかせながら先ほどと変わらずくるくると回転して、口に流れ込んだ気流で顔面をぷるぷると震わせているばかりだった。
「……ええいっ、世話の焼ける……っ!」
そう言うと、全身で気流を制御したゴーダがふわりふわりと風に乗り、ばたついているガランの方向へゆっくりと距離を詰めていった。
「掴まれっ、ガランっ!」
暗黒騎士が、堅い手甲に包まれた右手を伸ばす。
「ぬぉぉぉ……もうちょい、じゃっ」
女鍛冶師が、吹き上がる風の中、その手に向けてふらふらと揺れる指を伸ばす。
そして次の瞬間、空気がひやりと冷たくなって、目の前が真っ白に塗り潰れた。
……。
……。
……。
ビュオッ。と、密度の異なる空気が折り重なっている層を突き破り、厚く垂れ込めた雲を抜けた先に、ガランの手を固く握り締めたゴーダの姿があった。眼下にはもう一層、地上からの目を隠す低い雲が游いでいる。
「……」
視界の全く利かない雲の中でしっかりと手を握られて、再び陽の光の中に飛び出した先で、ガランがきょとんと目を丸くしていた。
「全くっ、その手を離すなよっ、ガランっ!」
頭をまっすぐ地上に向けて自由落下していくゴーダの背中が、ガランの視界に飛び込む。その声が聞こえると同時に、暗黒騎士の手が更に強く女鍛冶師の手を握った。
「……」
酒を飲んでいるわけでもないのに、軽い胸焼けのようなむず痒さがあった。
「……奴の手も、このぐらいしっかり握っとってやらんかい……たわけ」
ぼそりとそう呟いた自分の顔が、とても見せられたものではない表情に引き攣っているのが分かった。
「何だっ……? 風の音で聞こえんぞっ、ガランっ」
目の前で手を繋ぎ、共に降下していくゴーダが、兜越しに横目でちらと背後を振り向いた。
「だぁーっ! 何も言うとらんわいっ、空耳じゃろっ! ちゃんと前を見とれいっ!!」
咄嗟に空いている方の手をぶんぶんと振り回して顔を隠しながら、ガランが何かを追い払うように大声で喚き散らした。
猛烈な速度で降下していく2人の姿が、再び雲の中に吸い込まれて消える。
そして最後の雲を突き抜けた先で、ゴーダがぽつりと独り言を零した。
「……帰ってきたぞ……東の果ての地よ……」
厚い雲の下には、それまでの朝陽に照らされた快晴とは打って変わって、夕暮れの薄闇のようにどんよりと暗い世界が広がっていた。曇天の冷たい空気が、“イヅの大平原”に繁茂する草花の露を霧に変え、辺り一面が先ほどまで見てきた雲の中の光景と同じように、真っ白に塗り潰れている。
我が家として住み慣れてきた筈の東の地だったが、ゴーダとガランの目には、そこはまるで初めて訪れる異国のようによそよそしいものに見えた。
それは平原の広大さを、空を飛ぶ鳥と同じ目線で俯瞰したからではない。霧の向こうにぼぉっと浮かび上がる、半壊した“イヅの城塞”の影を目にしたからでもない。
「――――――」
そのよそよそしさの原因は、2人の耳に届く“音”の為だった。
「――――――」
濃い霧の向こう、影も見えないその深みから、何か途方もない存在が空気を震わせる音が聞こえてきていた。
周囲の空気を振動させ、体内に響いてくる低音と高音の波動。たとえようのないその共鳴音は、深い海の底を泳ぐクジラが唄う歌にも似ていた。
「……彼奴じゃ……あんちくしょうじゃ……!」
あれだけ笑い転げていたガランの声が、親の敵を見つけたかのように真剣で低い声音に変わる。
「――――――」
「“これ”が……あんたが見たという、“異形の花”とやらか……」
霧の向こうから聞こえるその音に向かって、ゴーダが確かめるように言った。
「そうじゃ……! あれに、“イヅの城塞”は落とされた……! ベル公が……騎兵隊の衆が……っ!」
噴き出る感情を噛み殺し、口許を食い縛ってへの字に曲げたガランが、文字通りパチリと怒りに燃える火の粉を舞わせる。
「ゴーダ! このまま奴の真上に出たれい! 一発派手なのをぶちかましてやらにゃ!」
空中で離れないよう、手をしっかりと握り合った女鍛冶師の険しい声が、落下を続ける暗黒騎士の背後から聞こえた。
「そうしてやりたいのは山々だが……どうにもそう上手くは行かんらしい」
ゴーダの神妙な声が、ガランの威勢を遮った。
「何をたわけたことを言っとんじゃ! ここまで来といて――」
喚き散らす女鍛冶師の頬を、平原を吹き抜ける横風が撫でた。
濃い霧が風に割られ、一瞬、目の前の光景が開けて見える。
「霧で距離感を見誤ったな……思っていたより、地上に近づき過ぎていたようだ」
薄いカーテンを開け広げるように垣間見た霧の向こうに――目の前に、地面が迫っていた。
「ちょっ……ちょっちょっちょっ……! ど、どどど、どうすん――!」
「――じっとしていろよ、ガラン」
ゴーダがぐっと腕を引き、空中でガランを抱き寄せた。
「……っ!」
眼前にみるみる内に近づいてくる固い地面の影に、女鍛冶師が思わず目をぎゅっと瞑った。




