27-5 : “王子アランゲイル”
彼方に見えていた山の稜線が、夜の暗闇に溶けてその境界線を失ってから、どれほどの時間が経ったろう。
夜鷹のような鳥の鳴き声が遠くに聞こえたが、それ以外には獣の息遣いも、魔族の気配もどこにもなかった。
月の光も星明かりもなく、足元さえも漆黒の闇の彼方に消えたように、何も見えなかった。
ガリガリ……カツン。ガリガリ……カツン。
黒い大理石の表面を剣先が引き掻く音と、石階段に乗り上げた刃が振り子のように落下する小さな衝突音が、規則的に繰り返されている。時折、ほんのわずかな小さな灯りが、一瞬だけ暗闇に灯る。呪剣が大理石を叩く際に飛ぶ刹那的な火花を視認できるほど、闇はどこまでも深かった。
ガリガリ……カツン。ガリガリ……カツン。
ゆらり、ゆらりと間欠的に、しかし決して止まることなく続く呪剣の立てるその音が、真紅の刃の持ち主たる“王子アランゲイル”の重い足取りを暗に語る。漆黒の闇の中に、頭を垂れて背中を丸め、だらりと垂らした肩を揺らして、幽鬼のように足を引き摺る王子の姿が浮かび上がってくるようだった。
ガリガリ……カツン。ガリガリ……カツン。
「……喰らい尽くせ……貪り尽くせ……」
ガリガリ……カツン。ガリガリ……カツン。
「この“呪い”の腹を満たすまで……飢えと爛れしか知らぬ“これ”に、せめて血の味だけでも教えてみせろ……」
ガリガリ……カツン。
「魔族の紫血も……人間の赤い血も……“これ”の喉を潤すことすらままならん……どいつもこいつも、泥水ほどの価値もない……」
……ガリガリ……カツン。
「畜生どもめ……畜生どもめ……」
……ガリガリ……。
「奴は……ボルキノフは言った……ここに、私の求めるものがあると……」
……ガリ……。
「貴様等の血は……せめて“これ”の喰らった屑どもよりは、濃いのであろうな……?」
……。
「遙々……来てやったぞ……ようやく、ここまで……」
……。
「……“淵王”よ……」
……カツン。
……。
……。
……。
奈落の底に続いているかのような深い深い闇の中、何も見えないその目の前に、閉じられた巨大な門があることが、アランゲイルにははっきりと分かる。
――トン……。トン……。
力無くゆらと持ち上げられた王子の左手が拳を作り、門扉の片隅を叩いた。ゆっくりと、2度。
――……。
返事は、ない。誰も、何も、応えなかった。
――コン、コン。
先ほどよりも力を籠めて、アランゲイルが更に2度、闇の先を叩く音が聞こえた。
――……。
やはり、応じる者の気配はない。
「……ここを……開けろ……」
――コン、コン。
三度、門扉を叩く音を響かせながら、アランゲイルがぼそぼそと口籠もるようにして呟いた。
「開けろと、言っている……私を誰だと思っている……“明けの国”の次代の王が、わざわざ貴様らの血を訪ねてここまで来たのだ……。『聞こえん』とは言わさん……そんな“言い訳”は、直接“愚弄”に繋がると知れ……」
――ドン、ドン。
一際力の籠もった握り拳が叩き付けられ、固く閉じた門が太鼓を叩くように空気をわずかに震わせた。
――…………。
無言と、無音。
……。
……。
……。
「…………」
……。
……。
……。
――ドォンッ。
まるで攻城鎚でも叩き込んだかのような、腹の底に響く衝突音が轟いた。遠く宵闇の中で、夜鷹か何かが悲鳴のような鳴き声を上げて飛び立っていく。
「……開けろ……」
――ドォンッ。
「……開けろ……」
――ドォンッ。
「……開けろ……!」
――ドォンッ。
……。
……。
……。
「――どちら様にございましょうか」
闇の向こう、その城と外界とを隔てる門の内側から、女の細い声が聞こえた。
「――今宵の御来訪のお約束は、どなたにつきましてもございません」
「――狼藉は謹んでいただきますよう、お願いいたします」
「――ここがどなたの御前へ続く地か、承知の上での行いでありましょうか」
門を隔てた彼方から、1人の女の声が立て続けに語りかけてきた。いや、言葉と言葉の間で、声が不自然に重なり合っているところをみるに、2人から4人、複数人の人物がいるのかもしれなかった。
いずれにせよ、この場からではそれを確かめようもない。
「黙れ……貴様こそ……貴様等こそ、私が何であるかを知った上でのこの無礼か……」
ドォンッ。と、人のものとは思えぬ力で暗闇の門扉を殴りつけながら、先ほどと変わらぬ調子でアランゲイルが言った。
「――どちら様にございましょうか」
女の声が、その轟音にも怯んだ様子を見せずに尋ね返す。
「――御身分の分からぬお方は、どなたであろうとお通しすること適いませぬゆえ」
「――お名前を、お聞きいたしたく」
「――さすれば門をお開きいたしましょう。能わぬならば、お引き取りくださいませ」
一文の前後でわずかに重なり合いながら、舞台の演者のように調律された美しい声たちが、招かざる来訪者にそう問うた。
「――汝は、何者なるや?」
……。
……。
……。
「……しかと聞け、無礼者ども……。我が名はアランゲイル……“王子アランゲイル”。“明けの国”の王の嫡子にして、次の王となる者……世をひとつに束ねる者……貴様等魔族を、滅ぼす者である……」
自らが喰らい、そして撒き散らした呪いにその身を灼き焦がしていく者の声が、己が何者であるかを述べ聞かせた――門の内に立つ女たちの声に。そして自分自身に。
――私はアランゲイル……そうだ、私の名はアランゲイル……。
……。
――「アランゲイル」……母とも呼べぬ、私を生んだあの女が、この身につけた呼び名……。
……。
――「アランゲイル」……乳母が、あの阿婆擦れが、枕元でこの耳に囁きかけた音……。
……。
――「アランゲイル」……父と名乗るあの萎れた王と、名を覚えてやるのも疎ましい屑どもが、避けるように、蓋をするように、見えていないかのように呟く、ただの記号……。
……。
――「アランゲイル」……。
……。
――「アランゲイル」……誰だ……まだ呼びかけてくる者は……。
……。
……。
……。
――「アランゲイル」……「兄上」……「お兄さま」……。
……。
……。
……。
――黙れ……黙れ……黙れ……!
……。
――何故、お前がまだその名を呼ぶのだ……私から、全てを奪い去っていった分際で……!
……。
――私に、全てを奪われておいて……!
……。
――何故……何故、まだ、私の名を呼ぶ……?
……
――……シェルミア……。
……。
……。
……。
周囲に満ちる深淵に溶け出た王子の意識が、本人の意思とは無関係に、「アランゲイル」という名を呼ぶ声たちを無数に蘇らせていく。あらゆる者を貪り尽くし、道具以下のものとしてそれらを使い捨て、呪いを引き摺り孤独となったその身には、その声たちはもう、彼岸よりも遠い場所にあった。
……。
……。
……。




