26-23 : “呪い”
ザリザリ……ザリザリ……。
剣先が大地に引き摺られていく音が、いつからともなく延々と聞こえていた。
ザリザリ……ザリザリ……。
それが歩き進む道の後方に、どこまでもどこまでも、1本の擦り跡が続いている――乾いた血の跡のように。地獄に引き摺り込まれていく者が立てた爪痕のように。
その剣は、自ら鞘を纏う異形の剣であった。
抜かれる必要もなく、収められる必然もなく、ゴボリと泡立つ自らの外皮に鞘を吐き出し、再び自らそれを喰らうもの。
すなわちそれは、片割れだけの身で生まれ落ちたもの。生まれながらにしてあらゆる存在に刃を向ける、安息から見放されたものである。
呪いそのものが形を成したかのような剣。それを従える者もまた、呪いを撒き散らすは至極当然のことである。
――ゴボリ。
もう何度目かも知れぬ、呪剣が泡を吐き出す音が手元に聞こえた。
“人造呪剣ゲイル”。その真紅の刃がズチャリと水音を立てて波打ち、悪夢に見るような禍々しい形の枝を数本、空中に伸ばした。
呪いに爛れた真紅の枝先が、ブクリと身の毛のよだつ実をつける。ブヨブヨと肥大していく実が血飛沫を上げて破裂すると、その中から肉を纏い魔族兵の形を成した呪いが現れ、呪剣を引き摺るその主、“王子アランゲイル”の背中に向けて襲いかかった。
ズチャリッ。と、水風船がぶつかり合うような気味の悪い音がして、アランゲイルに牙を向いた呪いの実に、別の枝から生まれ落ちた呪いが喰らいついていた。
「ギギィ!」
「ギシャァッ!」
「ギャァァ!」
人間でも獣でもない叫びと悲鳴、そして断末魔が響き渡り、やがて背後には呪いが呪いを喰らうグチグチという怖気立つ咀嚼音だけがするようになる。
“人造呪剣ゲイル”――貪り従えるもの。それは魔族も人間も、生者も亡者もあらゆる者を喰らって無数の呪いを生み出す、癒えない飢えに蝕まれるもの。数え切れない呪いを吐き出し、呪い同士で醜く喰らい合い、それがまた新たな呪いを生み出しては、他者だけではなく自身の身すら貪り尽くそうとするもの。
昼夜を問わず、その生まれながらに呪われている剣は、どこかの伝承に残る自食の蛇のようにのたうち回り続けていた。
「……うるさい……」
ザリザリ。と、鞘を喰らって抜き身の形になってから久しい真紅の呪いを引き摺り回しながら、アランゲイルが呟いた。
「うるさい……うるさい……うるさい……躾を知らん畜生どもめ……この私に……次代の王に、眠ることも休まることもさせんのか……」
“人造呪剣ゲイル”だけでなく、自らの足も鉛の塊のようにずるずると引き摺りながら、ブツブツと譫言のように漏らし続けるアランゲイルの目元には、ゾッとするほど濃い隈が浮かんでいた。眼は熱病に浮かされたようにかっと大きく見開かれていて、瞬きの数は異常に少なく、ふと思い出したように閉じられる瞼の動きは、不出来な眠り人形のように緩慢だった。
頬は飢饉に見舞われた農夫のようにげっそりと痩せ細り、背中はグネリと酷い猫背になっている。だらりと垂れて、歩みに合わせてぶらぶらと揺れているだけの両手に力は籠もっていないようだったが、アランゲイルはその手に握っている剣の柄だけは、決して離そうとはしなかった。
「うるさい……うるさいぞ……。誰ぞ……誰ぞいないのか……さっさとこの畜生を黙らせろ……」
アランゲイルの呻き声に似たその声に、返事を返す者はいなかった。
「誰ぞ、返事をしろ……次の王となる、この私の声が……聞こえんとは言わさんぞ……」
……。
……。
……。
王子の、次代の王の背中には、誰の声も聞こえてはこなかった――“明けの国騎士団”のわずかに残った銀の騎士たちの喝采もなければ、“特務騎馬隊”の人ならざる紅の騎士たちの沈黙さえもなかった。
聞こえるのは、ただ知性も理性も野生すらなく、ただ内に宿した呪いのままに叫ぶ音だけ。真紅の醜い果実が立てる、ズチャリズチャリというおぞましい水音だけだった。
「……ああ……そうか……」
1歩、また1歩と足を踏み出しながら、アランゲイルが思い出しように独り言を零す。
「皆、“そこ”にいたのだったな……」
熱に浮かされた眼がゆらりと手元を見やると、そこにはただ、一振りの真紅の剣があるだけである。
「ゲイル……この醜く飢えた剣の腹を少しでも満たせば、この喧噪もわずかなりとましになるだろうに……。無能どもめ……貴様らは、これの腹の足しにすらならんのか……」
宵闇の中を、そうして“王子アランゲイル”は、たった1人で歩き続けているのだった。
呪われた産声を上げる為に幾百の魔族を喰らい、力を示す為に幾千の魔族兵を喰らい、狂おしい飢えに生まれを同じとする紅の騎士たちを喰らい、主の背中を護っていたはずの銀の騎士たちまでも喰らい尽くした。
そしてその果て、ここにあるのは、孤独のみ。
「……くく……くくく……」
アランゲイルが、髪をくしゃくしゃに掻き乱しながら、破滅的に嗤った。
「ああ……実に、身体が軽い……」
眠りを忘れ、呪いを背負い、歩き続けるより他にない孤独な人間に成り果てた王子の身体は、岩の塊のように重い。しかしアランゲイルの心の内は、これまでにないほど軽くなっていた。
「……世に、このゲイルと同じく、目に見える呪いがあるとすれば……あの場所こそ、呪いそのものだった……」
深く暗い脳裏に、王子が“呪い”と呼ぶ情景が浮かび上がる。それは陽の差し込む、一見して穏やかで荘厳な王都。その王宮の光景だった。
――。
――。
――。
幼い少年の目に焼き付いた、1人の父――“明けの国”の王の姿。そして、2人の母――どちらもが“母”と名乗る、2人の女。
“2人の母”の内、1人は少年を生んだ母であり、もう1人は少年の乳母としての母だった。
少年は、どちらの母も嫌いだった。
生みの母は、少年に話しかけているときも、彼を見てはいなかった。少年はいつも、母が自分の背中越しに立っている見えない何かに話しかけていることを知っていた。愛想良く語りかけてくるときほど、少年が覗き込むその女の瞳に、少年の姿は映っていなかった。
生みの母が大事にしていた銀の縁の鏡を割ってしまったとき、その女は少年のことを酷く罵倒した。何度もぶたれ、叱責される中で、それでも少年は嬉しさに似た感情を抱いていた。そのときの母の瞳には――少年と同じ茶色の瞳には――疑いようもなく、少年の姿だけが映っていたのだから。
乳母としてのもう1人の母の瞳には、生みの母よりも頻繁に少年の姿が映り込んでいた。いつも自分のことをじっと見つめてくれるその女のことを、少年は生みの母よりは幾分か慕ってはいたが、なぜか心を開くことまではできないまま、年月だけが過ぎていった。
肌寒い夜、少年を寝かしつけた後、乳母がよくベッドを抜け出して肩のはだけた薄着姿のままどこかへ消えていくのを少年は知っていた。少年は1度だけ、そのことを乳母に尋ねたことがあったが、それを聞いたあの女の引き攣った顔を見て以来、少年がその話題に触れることはなくなった。
生みの母が、少年の見ている前で乳母に花瓶を投げつけて、何かを叫んだ後にふらりと倒れ、侍女たちに運ばれていったのは、夜どこに行っていたのと尋ねた少年に、乳母が引き攣った顔を返したあの日から、ちょうど季節が一巡りした頃だった。
乳母と同じ碧い目をした“妹”が生まれたのは、それからすぐのこと――気の狂れた生みの母が、自分で命を絶つ数日前のことだった。
生みの母のひっそりとした国葬の最前列で、少年は大人たちの目に奇妙に映らない程度に悲しそうな表情を浮かべて棺を見送ったが、本心はそんなことはどうでもいいと思っていた――父の、王の隣に立つ着飾った女が、生みの母から乳母に変わった。少年にとって、それはただそれだけのことでしかなかった。
シェルミアは――碧い瞳をした妹だけは、護らなければ。いつからともなく、少年は強くそう思うようになっていた。“何から?”という疑問への答えを持つより先に、少年は堅く心に誓っていた。
――シェルミアを、護ってあげなくちゃ。
――。
――。
――。




