26-8 : 異形の花
思わず1歩前に踏み出したゴーダが、右手で独房の檻をぐっと掴んだ。檻は恐ろしく頑強な造りをしていたが、ガランの拳で何度も殴打された箇所はグニャグニャと捻れて変形している。
「どうしてお前がこんな所にいる……城塞は……ベルクトは……騎兵隊たちはどうした……」
「…………」
ガランに、長い沈黙があった。独房の中でぺたりと尻をつき、がくりと肩を落としている女鍛冶師の姿は、酷く小さくなったように見えた。額からちょこんと生えている小さな2本の角も、まるで萎れているようだった。
「ガラン……?」
「……う……ふう゛ぅっ……」
食い縛った歯の間から嗚咽を漏らして、ふいにガランが独房の床をドンッと殴りつけた。
「……っ……すまんっ……!」
左右の拳を地に突いて、額の角がめり込むほどに頭を低く下げて、震える声を抑え込みながら土下座するガランの姿が、そこにはあった。
「面目ない……面目ない……っ! お主から城塞をっ、預かっておきながらっ……ワシはっ……ワシはっ……うぅ゛ぅぅっ……!」
ガランは言葉を続けることができず、額を地面に擦りつけるばかりだった。そしてとうとう我慢の限界に達して、ぎゅっと固く瞑った目からポロポロと涙を流し始めた。
「ワシはっ……! ベル公もっ、騎兵隊もっ、城塞も置いてけぼりにしてっ……!……逃げてきてしもぉたぁあ゛ぁ! うわあ゛ぁぁ゛ぁんっ!!」
土下座の姿勢からがばりと身を起こしたガランが、今度は天井を見上げてわんわんと大声で泣いた。一度それが始まってしまうと、悔し涙と泣き声が次から次へと堰を切ったように噴き出して、止まらなくなった。
「わあ゛ぁぁあ゛ぁんっ! 早う城塞に、戻ろうとしたのにっ……! ローマリアの馬鹿垂れが、こんな所に閉じ込めよってっ……! お主に……お主に、会わせる顔がないっ……! それなのに何でっ、何でお主の方から来るんじゃいっ……! ワシはっ、どのツラ下げればいいんじゃっ……! うわぁあ゛ぁぁんっ! 情けないっ……ワシはワシのことがっ、情けのうて情けのうて……わあ゛ぁぁぁん! うわ゛ぁあ゛あ゛ぁぁん!!」
「ガラン! 落ち着け!」
「落ちついてなんぞっ、おれんわいっ!」
「状況を説明しろ!」
「たわけっ! たわけたわけ!! たわけぇぇぇっ!!! 説明なんぞっ、どうでもいいわいっ! こっからさっさとっ、ワシを出せぇっ!!」
おいおいと泣き続けるガランは、感情が昂ぶる余り、ただ叫ぶことしかできないでいた。
「“アイツ”をぶん殴らんとっ、死んでも死にきれんっ! ベル公が……ベル公が……!――喰われてしもぉたぁあ゛ぁぁあ゛あ゛ぁぁぁっ!!!」
一際大きなその泣き声が、ゴーダとローマリアとガランしかいない要塞通路に、じんじんと響き渡った。
***
「何じゃ……あれは……!」
“忘名の愚者ボルキノフ”の率いる、祝福を受けた戦士たち、“特務騎馬隊”。その紅の騎士の中でも最大戦力を誇った、蒼石鋼の亡霊たる“真紅のデミロフ”を滅却してから幾ばくも経っていないその戦場の片隅で、“火の粉のガラン”は負った傷とは全く無関係の寒気を感じていた。
デミロフとの死闘を繰り広げた“イヅの城塞”の鍛冶場から遠く離れた“イヅの大平原”の只中に、異様な光景が広がっていた。
東方に斃れた数万の人間の屍血を素材に練り上げられた紅の騎士たちに、完全制圧された“イヅの騎兵隊”。身動きの取れない全104騎の黒い騎兵たちを尻目に、青白い皮膚を持った歪な形の巨大な腕が1本、平原の中に突如にょきりと生えていた。それは3本しかない自分の爪と指先を地面に食い込ませ、何かを引き摺るようにして、ズルリズルリと尺取り虫のような動きでゆっくりと前進していた。
その進行方向の先に目を滑らせると、そこには全身から赤い血を流しながら天を仰いで歓喜の仕草をとっているボルキノフの姿と、その狂った男の下敷きになっている血塗れのベルクトの姿があった。
「ベル公……!」
駆けつけようとガランは脚に力を入れたが、自分の身体のどの位置にどう力が入っているのかが全く分からず、立とうとしていた筈が気づいたときには前のめりに地面に倒れ込んでしまっていた。
「む……っ! この! ワシの身体のくせに、何でワシの言う通りに動かんのじゃ……っ! 動け……動いてくれ……!」
デミロフから負った痛手は、ガランが自覚している以上にその身体に重くのしかかっていた。
頬に不快な汗の流れるガランが見やる遥か先で、巨大な青白い腕がぐらりと均衡をくずして転倒する。そしてそれから間を置かずに、青白い腕の根本と思われる場所から、青い肉でできた醜い植物の幹のような物体がドロドロと生えてくるのが見えた。
「ベル公……ベル公っ……!」
工房の瓦礫の崩れ積もった地面の上でズルズルと身体を引き摺りながら、ガランが震える右手を力なく虚空に伸ばした。
「何をしとる……! 早う、逃げるんじゃ……!」
遠くで、異形の花が、醜い肉の幹の先端にグパリとおぞましい口を開くのが見えた。
「逃げてくれ……お願いじゃ……! 逃げてくれ……っ」
……。
……。
……。
「……ベルクトぉぉぉっ!」
……。
……。
……。
――バクッ。
……。
……。
……。
「あ……あ……っ」
ガランが声を震わせているずっとずっと彼方で、骨が折れてあらぬ方向に曲がったベルクトの痛々しい左腕が、異形の花の中に消えていくのが見えた。
――バキリっ……ボキリッ……メシリっ……。
思わず耳を覆いたくなるような身の毛のよだつ咀嚼音が、遠くガランのいる場所にまで聞こえてきた。
「やめろ……やめろぉ……っ! もう、やめてやってくれぇ……う、う゛ぅ……っ!」
……。
――ゴクリ。
肉の幹が、先端から順々に波打つように蠕動して、噛み潰されたベルクトが呑まれていくのが外からも見えるようだった。
一瞬、世界が静止した。
やがて、異形の花を咲かせた肉の幹の至る所にボコボコと水ぶくれのような膨らみが生じ始める。どんどん肥大化していく膨らみに圧迫され、肉の幹が右に左にウネウネとのたうち回る様子は生理的嫌悪を抱かせ、見るものを総毛立たせた。
そしてパンッと大きな水風船の割れるような音が甲高く響き、肉の幹に実った膨らみの1つが破裂した。青白い肉の幹の内側から、濃緑色の樹液か体液か、そんな得体の知れない汁がボタボタと勢い良く大平原の大地に流れ落ちていく。
その破裂した水ぶくれの下から覗いたのは、巨大な異形の眼球だった。その目玉は初めて目にする外の世界に驚いているようで、ギョロギョロと蠢いて四方八方に出鱈目に視線を飛ばし回った。
更にパンッと同じ破裂音がして、異形の眼球とは反対の位置に実をつけていた膨らみが破れ、濃緑色の汁をかき分けて5本指のしなやかな女の腕のような物が1本、ヌラリと伸びてきた。
巨大な女の腕のような物は、外界の空気に触れるやいなや発狂したようにのたうち回り始めた。それは自分の存在そのものに憎悪を向けるかのように、それ自身が生え出てきている肉の幹に爪を立て、バリバリと肉を引き裂いていった。
そして女の腕のような物が樹冠に咲く異形の花をむんずと掴み、途方もない力でそれを握り潰し始める。爪に引き裂かれた肉の幹と潰されていく異形の花から、濃緑色の汁が噴水のように噴き出して、周囲の草花をグチャグチャに穢していった。
メキメキ……ブチリ。と、とうとう女の腕のような物が異形の花を握り潰し、引き千切ると、そこから2本目の女の腕のような物がニョキリと生えた。
そのようにして、ベルクトを喰らった“災禍の娘ユミーリア”の呪われた肉体は、無秩序に、無尽蔵に、肥大化と形成を繰り返していった。
悪夢をそのまま顕界させたようなその光景を前に、ガランは一言も発することができなかった。
――バサリ。
ユミーリアの肉体が更に爆発的な増大を繰り返し、そこに飛ぶ能力を持たない2枚の翼が広がった。
……。
――こんな……こんな得体の知れんもんに……ベルクトは喰われてしもうた……。
……。
――こんなものらに……“イヅの騎兵隊”は……“イヅの城塞”は……この東の果ては、落とされてしもうた……。
……。
――ワシは……何もしてやれんかったのか……。
……。
――いや……ワシも、喧嘩人の端くれじゃ……。
……。
――喧嘩人は喧嘩人らしく……足掻いてやるわい……。
……。
ガランがむんずと、地金のむき出しになった刀の柄に手をかけた。
「……のう、“蒼鬼”やい。この聞かん坊め……最強の剣士の腰に大人しく収まっていればよいものを、こんな負け戦にノコノコ戻ってきおって……――こうなってしもうたら、もう……最後まで、付き合ってもらうからのう……覚悟せい……」
“蒼鬼”の切っ先をズルズルと引き摺って、ガランがふらふらと歩き始める。
「ベル公や……お主1人を行かせはさせん……死なば諸共じゃ…… 一丁、地獄巡りと洒落込もうかのう……」
口の端から血を零しながら、“火の粉のガラン”がニヤリと自棄っぱちの失笑を漏らした。
――ギョロリ。
そんな気配に気がついたのか、大平原の彼方で、異形の目玉がガランの方を向いた。
巨大な女の腕のような物が2本、天に向かって指先を掲げ上げる。
膨大な魔力の渦が逆巻き、密度を増したその塊が太陽の光さえ捻じ曲げた。
そして正に太陽が地に落ちてきたかのような閃光が“イヅの大平原”を呑み込んで、光の柱がガラン目掛けて迸ったのが見えた。
「ガハハ……こりゃ、眩しいわい……ガハハ……」
閃光が影さえも灼くようにして、ガランの人影は跡形もなく――そこから消え失せた。
……。
……。
……。
「……はぁ……わたくし、貴女のそういうガサツで無鉄砲なところが、昔から嫌いですわ」
閃光の眩しさに瞑っていた目を開けたとき、“火の粉のガラン”の眼前には“星海の物見台”と、呆れた顔を浮かべている“三つ瞳の魔女ローマリア”の姿があった。




